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花の香りがした。
自分の頬を柔らかい風が撫ぜる感覚があった。草木の揺れる音がした。 目の前に広がるのは暗闇だけで、自分の感じるそれをこの瞳に映すことはできないけど。
その全てを新鮮に感じた。空っぽのこの身で感じる自然を、ただ愛おしいと思った。愛おしいという感情をもっと強く感じたい。この手で触れて、この耳で聞いて、この目で見て、この心で愛して。己の持つ全てを以て、そうしたいと希う。
その願いを叶えようと、真っ黒に染まる視界に光が差し込む。
白。自分の全てが白く染まっていく。自分が『空白』に呑まれる。
ふわりと、また何かが近くで揺れた気配がする。…泣きたくなる程に、甘い香りがした。 辺りを優しく包み込む、甘い花の香りが漂っている。この香りは、この匂いは…
_…あぁ、酷くなつかしい。
水面から顔を出すかのように、唐突に、無情にも目覚めは訪れた。
???
寝起きの瞳が最初に映したものは、草木でも、空でも、光でもなく、冷たくこちらを見下ろすだけのコンクリートの天井だった。それを目にして、数回まばたきを繰り返す。
???
この天井がある場所を俺は知らない事を思い出して、遅刻していた困惑が脳に到着した。
力の抜けた四肢を動かして、仰向けの身体を起き上がらせる。手のひらから伝わる硬い床の温度がやけに冷たく感じられて、その感覚に少しだけ動揺した。
そのまま辺りを見回す。視認できるものは、散乱した机椅子に絡まるツタと、粉々に割れた窓ガラス。見知らぬ場所ゆえに多少の謎はあるものの、少なくとも閉鎖的な空間ではないという事実に安堵を覚えて、これまたすぐに安堵は霧散した。
???
前後左右、何処を見ようとも全くもって記憶に無い場所である。こんな見知らぬ退廃的な部屋で長らく眠りこけていた自分自身の危うさに危機感を覚えた。
が…正直、今覚えようとももう無駄な所はある。…だって、これはもう明らかに_
???
自分でその事実を口に出しておいて、その恐ろしさに身震いした。 見知らぬ場所で眠らされていたなんてよくヒトコワ系で見るお決まりの導入だ。きっと、自分もしっかりそのお決まりの導入を踏むタイプの人攫いにでも攫われたのではないか?
非常に不味い。こんな所で人生のエンドロールを流す訳には行かないのだ。
とりあえず早くこんな所を出て、帰らなければ。元の場所に…、もとのばしょに…
???
眠りに落ちる前の自分は一体、どこにいたんだっけ。
『空白』
自分の頭からは、どうやら色々な事が抜けているらしい。特に自分自身についての事が。
俺は何も覚えていない。ここに連れてこられる過程も、その前の自分の事も、自分の名も、くだらない日常の欠片すらも残っておらず、追憶の五指が掴むものは空白のみだった。
その事実に気付いた瞬間、漠然とした不安感に襲われたりもしたが、今は打ちのめされる暇すらも惜しい。記憶喪失の上に誘拐の疑いもある現状、泣き言すら漏らせないのだ。
とりあえず今は足掻くのみ。そう思って、やけに重い身体を立ち上がらせる。
多少ふらつきはしたものの、そこまで異常がある訳では…
『空白』
己の視界の左半分は暗くぼやけていた。恐る恐る自分の左手で左目の辺りに触れてみると、なんだか形容し難い感触がする。左目の代わりに、何かが在る。皮膚より薄い何かがくっついているというか、湿っぽい薄皮のようなものの塊が在った。
その部分に『触れられた』という感覚は存在せず、それが妙に気持ちが悪い。それは明らかに自分の一部となっているはずなのに、己の血肉とはあまりにも乖離しているのだ。
なんだかこのまま触り続けるのも億劫で、手を離した。
『空白』
とにかく、現状把握をすべし。幸いにもパニックにはならずに済んでいるのだから、こんな謎深い建物から早くおさらばしたいのだ。とりあえず、外の様子から自分の今いるこの場所がどこにあるのか、どんなものなのかを理解しなくては助けも呼べない。
部屋に散乱するガラスに注意を払って、机椅子を伝うツタを利き手で払って窓辺へ。 ガラスを失い、窓としての役割を果たせているのか怪しい窓の、その景色を覗き込んだ。
『空白』
目に入った窓の景色は、何処までも広がる美しい青空と、街を覆い尽くす自然だった。 どうやら今自分は廃墟の高層階にいるらしい。視界の下に、沢山の建物が存在している。
…もっとも、その全ては殆ど全てが己の居る場のように廃墟か瓦礫の山と化しているが。
妙な静けさを持つその街は、遠慮の意味すら知らぬ植物たちに蹂躙されていた。
建物や道路など、街中にある人工建設物の殆どは何処からか生え伸びるツタや花々によって自然へと沈んでいっている。その光景はあまりにも異常そのものだが、今目にしたものの中でなにより目を引くものが一つ。それは、そびえ立つ電波塔。
遠くに立つ電波塔は、最早その姿すら視認できるか怪しい。人間よりか遥かに大きい筈の電波塔を、その下から無遠慮に生えてきた巨大な大樹が飲み込んでいたからだ。
今の自分が目にしている世界は、あまりにも自分の知るものとはかけ離れている。
…まるで生まれ変わったかのような世界は、歪ながらもどこか儚い美しさを持っていた。
『空白』
その現状を目にして、何をするでもなく呆然とそう呟いた。
目が覚めたら世界が滅んでいた、なんて、どうしようもないから。
窓の外の景色はあまりにも現実味に欠けている。生命体の気配があまりにも無いからだ。生活する人々も、囀る小鳥も、意思を持って動くものがここにはいない。
自然のみが好き勝手に街を支配する光景を見て、幻想的だと場違いな感想を俺は抱いた。
…いや、幻想であってほしいと願う、一種の現実逃避も含んでいたかも知れないが。
知らぬ間に変わり果てた姿となった世界と、全てを忘れた空っぽな自分。両者の間にはあまりにも大きい隔たりが在るかのようで、置き去りにされたかのように感じてしまった。
一抹の寂しさが訪れて、建物からの脱出を息巻いていた筈の心がどんどんと沈んでいく。 その時、自分の今いる建物の出入口周辺に蠢く影を見た。…それも、人型の。
『空白』
自分以外の生命体が退廃した世界でまだ生き残っている事を目にして、気付いたらその人影に呼びかけていた。だがその人影は声に反応せず、どんどんと遠のいてゆく。
『空白』
窓辺から離れて後ろの扉の錆びたドアノブに触れた。扉は随分と古いものだったのか開きにくくなっていたが、身体を押し付けて無理やり通り抜ける。ツタや苔の生える、少しばかり崩れた廊下を走って下に降りる階段を探す。早く、早くここから出なければ。
自分は記憶喪失、世界は崩壊後。頼れるもののない今、少しでもこの多くの知識を持つこの世界の住人をこのまま帰してしまうのは惜しい。少しでも、寄りかかれる相手が欲しい。
…何も知らないまま、一人で彷徨うのは寂しくて。
誰かと会話して、誰かの記憶に残って。記憶を失った自分は、まだこの世界に置き去りになどされていないのだと、そう思いたかった。
自分の居た場所は、マンションか何かだったらしい。長ったらしい階段を駆け下りて、少しばかり息を切らしながらもガラスの破片が散乱する正面玄関を飛び出した。
『空白』
先程人影が見えた場所の周辺には、もう何もいなかった。
がっくりと肩を落とす。とりあえず廃墟からの脱出はできたものの、結局出た所で行く当てもなく、このままではお先真っ暗だ。まだ人影の正体がここから遠くまで移動していない可能性に信じて、辺りを見回して人間を探す。
_その時、視界の端で何かが揺れた。その微かな動きを見逃さずに影を視界に捉える。
間違いない。あれはきっと、上から見つけた人影と同じだ。…よかった。 一人ではなくなった安堵と、人を見つけた歓喜に駆られて思わずあちらに駆け寄る。
『空白』
???
声をかけると、今度はこちらの声に気付いたのか、動きがピシリと止まった。
人影の持ち主が立ち止まった事により、どんどん自分とその人との距離が縮まっていく。 段々と人物の姿が鮮明になってゆく。…その姿に、違和感を覚えた。
形は確かに人間のものと何ら変わりないのだ。そう、形だけは。 その在り形は子供が粘土で作った人形に似ている。形は同じで、その本質は全くの別物。
『ナニカ』
人間を模した人型の『ナニカ』は、身体の全てが植物で構成されていた。
頭部、胴体、四肢は複雑に絡み合ったツタで再現されており、指先は根が代わりを務めているようだ。背中からは大きな蕾のような物体が生えている。まさしく、植物人間である。
その姿はまるで、この世界に無理やり合うように歪められてしまったかのようだった。
その姿は、不気味で歪ながらも儚さを持っていた。
そしてその『ナニカ』は、かつては建物であっただろう瓦礫の方に頭部を向けている。 眺めているのだろうか。顔が見えないから、よく分からない。
『空白』
その時、『ナニカ』がゆっくりとこちらに振り返った。
見えなかった顔には、何も無かった。 目も、耳も、鼻も、口も、何一つ存在しない。存在するのは、その全てを覆い隠す花々だけで。人間らしさを象徴する殆どのものを奪い取られて、徒に姿形だけ残されて。
この世界を感じる方法を失い、彷徨うだけの四肢だけを持っていた。
『ナニカ』
そんな姿を持つ、目の前の『ナニカ』にはもう無い筈の目から彼の視線を感じた。 その視線からは羨望に近しい何かが含まれている。まだ人間として在る存在への羨望。
_…人間の在り方を侮辱するような姿に作り変えられたその存在に、俺は哀れみを抱いた。
???
何処からともなく現れた飄々とした声によって、その気持ちは霧散する。
その声に驚いて目を見開いた瞬間、目の前に居たはずの『ナニカ』の胴体を美しい三日月型の刃が綺麗に二つに分断した。ゴロゴロと、ツタの塊が辺りを転がる。
驚きで声も上げれぬ中、気付けば目の前に先程のとはまた違った人影が存在していた。
???
祝骸(しゅくがい)と、聞き慣れない単語を口にする男が目の前に立っている。
彼は間違いなく人型の『ナニカ』の命を刈り取った筈なのに、その声はやけに平坦だった。
???
???
自分の身長と同じぐらいの鎌と、薄っぺらい笑みを携えて男は俺にそう聞いた。
『空白』
???
???
あまりにも早い状況変化に追いつけていなかった脳がやっと働き出す。目の前の男は齢十七ほどの見た目をしており、男よりか少年といった表現の方が正しいのかも知れない。
自分と同年代辺りの彼は雰囲気はどことなく不思議なものだった。茶髪にくすんだ黄緑のメッシュの入った前髪は左目を覆い隠すように垂れており、黒曜石の様な瞳を持ち、目元には黒い特徴的な紋様が。黒色のケープを羽織り、大きな鎌を持っている。
何処か人間離れした印象を抱いた。『ナニカ』よりかはしっかりした人間のはずなのに、何処か異様な空気を感じさせる彼。その彼の話す内容が、自分の心に引っかかった。
『空白』
思わず聞き慣れない単語に対しての分かりやすい疑問が俺の口から漏れたのを聞くと、彼は少しばかり驚きながら、すぐに目を細めた。
???
まるで全てを見透かすかのようにこちらを覗く瞳になんだか居心地が悪くなって、目線を下に下げる。
その時、彼の持つ刃の鋼に映る自分の姿を見た。
『空白』
三日月の刃に映り込んだ自分の左目には、左目の代わりに大きな紫色の花が咲いている。顔の左側の皮膚は首元まで酷く爛れていて、あまりにも悍ましい見た目をしていた。
その変異した部位は、あまりにも先程の『ナニカ』と酷似していて。
その時、初めて理解した。
この世界はなにも自分を置き去りにしていった訳では無いのだ。…否、その逆である。
自分は目覚めた時からもう、この世界の一員となってしまっていたのだろう。
第0章 プロローグ『ようこそ、ここは祝福都市。』終幕
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