時計の針が、6時に達したとき、アラームは耳が痛くなるくらい高い音をたてておれを無理やり起こす。
まだ寝たいというのに起こされた際に引き起こされる眠気と気だるさときたら、とんでもないな、とおれは毎朝思うようになった。
ウトウトしながら思い通りにうごかない重い足を一歩、また一歩と踏み出し、やっとの思いで洗面所にたどり着くことが出来た。
手を伸ばし、蛇口を捻ると途端に冷たい水が柱を作って流れてくる。流れ出てくるそれを溢れるぐらい、両手いっぱいに溜め込んでから、覆うようにして顔を洗い、タオルでぽんぽんと優しくあてるようにして拭く。
眠気も吹き飛んだので、先程とはうって違って、軽い足取りでおれはリビングへ向かった。
とりあえずはソファーに座る。すると前には透き通ったガラスの机、大きめのテレビが配置されたシンプルな部屋がある。
もはやそれ以外、何も無いといっても過言ではないほど、無駄なものがなかった。
ほかの家具なんて、 強いていうなら、壁一面に広がる本棚か、緑の葉をつけた観葉植物くらいだった。
少ししてから、おれはソファーを離れて、キッチンに向かう。
コーヒーを飲みたい。
そう思ったから、自然な動作で、コーヒーメーカーに電源をいれる。
豆を挽くところから始めるため、豆をミルにセットして、よく分かんねェところに水をいれる。
あとは、自動らしいからただ放っておくだけ。
この機械は、最近友達に貰ったもので、おれ一人だと、必要最低限の電化製品──電子レンジや冷蔵庫などの生活に必要なもの──しか購入しないので、はじめの頃はこいつにも慣れず、苦戦していた。
こいつがせっせと豆を挽き、抽出してるあいだに、おれは、玄関のほうへ足を運ぶ。
今朝の新聞を取りに行くためだ。
新聞はいい。世の中の変化もすぐに知れる。おれが知らないことも、このたった一コマに載っていることだってある。
ほかにも、スマートフォン──スマホ?とやらも例外ではなかった。
前に一度、友達に、スマホなるものが何なのかを知らなかったおれは聞いてみた。
すると、ものすさまじい形相でおれの友達はおれの手を強引に引っ張って、スマホが売ってるどっかの店に連れてこられてスマホを買わされた──なんてこともあったりした。
おれはどうやら最新の機器には疎いらしい。
その時にそれを購入してみたものの、未だ使い方が理解できていない次第だ。
とりあえず、コーヒーもあとはマグカップに注ぎうつすだけなので、それが完了するなりおれは、バカでけェソファーに、どこかのワガママな王様であるかのように脚を開いてどさっと座る。
コーヒーを片手に、新聞を読む。
おれの理想の平和で完璧なルーティンだ。
今日もやはり新聞は素晴らしいものだと思う。
昨日今日での事件、政治の前進、色んなもんが載ってやがる。新聞記者ってやつは、いったいどうやってこれだけのネタを、毎日集めてるんだろうかと、疑問に思いながら、おれは、コーヒーを一口ずずっと音をたてて啜る。
「うまっ」と、おれはつい感嘆の言葉を漏らす。
「ペンギンに、礼のついでで会いに行こうかな」
おれの友達は、いいやつだ。
***
おれは、大学生だ。
医学部に通っている。
親は優しくて腕のいい医者。
だから、おれは、あの人たちのみたいに毎日色んな患者を診てやり、病に苦しむ人々を救って、笑顔にしてやりたいと、子どもの頃から夢をみてきた。
「お医者さんって忙しい?」
五歳ほどの、まだ小さかったおれは、両親に純粋な質問をそのまま投げる。
「んー、どうだろうな…」
父は言う。
「少なくとも、私たちは患者さんが元気に、幸せそうに笑っていれば、忙しくてもいいかなぁ」
母は、笑顔で言った。
おれは、そのとき、親という存在が、医者という存在が、どれほど偉大なものかを思い知った。
それから、数年後。
妹は、持病のせいか体が弱かった。
「ラミ、寒くねェか?」
心配の言葉をかけた。それ以外、思いつかなかったから。
「寒くないよ。ありがとうお兄ちゃん」
妹も、笑顔でおれの質問に答えて、そのうえ感謝された。
なんともそれが──不思議だった。
心配をするだけで、『ありがとう』と返ってくるもんだから、そんなちっぽけな事で感謝されるんだと思うと、おれは嬉しいのか、何なのか、今の自分の感情に区別がつかなくなった気がした。
でも決して、嫌な気分にはならなかった。
ただ、自分の気持ちの整理がままならず、素直になれず、すこし心に靄がかかる。
それだけ。
どちらかというと、嬉しかった。
妹が──ラミが幸せそうに笑っているなら、おれはそれだけで良かった。
そして今は、医学部で学んでいる。
ラミのように、病で苦しむひとが、元気になれるように、おれは夢のために努力している。
あぁ、すこしも、辛くない。しんどくもない。
でも命の重さについては別だった。
何故かおれの、身近な人間はみんな消えていく。
なにかの呪いみたいに、簡単に死んでいく。
それほどひとの命というのは重くも軽く、高くも安く、矛盾しているようでしていない概念。
信じられない。
いまでもどこかで、誰かが誰かの心臓を握っているってことだ。
医者も同じ。
たったひとつ、選択を誤れば、一人の、一度きりの人生はその場で即終了となるわけだ。
医者は命を握る。命の責任者でもある。
そのような重要な立場に立つってことは、それほどの歴と経験を積まなければ、医者になんてなれはしない。
「ある意味、辛かったりすんのかな……」
考えるばかりで、疑問だけが浮かんだ。
***
───ピンポーン。
インターホンが鳴る。
部屋に鳴り響いたので、すぐに気づいた。
客人なんて、珍しいな。なんておれは思いながら玄関までの廊下を寝巻きの状態で、玄関へ向かい、とくに警戒もしないまま──
───ガチャ。
──おれは扉をあける。
客人とおぼしき人物は、190cmのおれをゆうに超える長身の男だった。
知らないやつだ。
こんな男は見たことがない。
おれは──
「……あんた、誰だ?」
──そっけない態度で質問をする。
男はぱちくりと瞬きするが、その後すぐに言葉を発した。
「すみません、自己紹介もなしに…」
大男にしてはへこへこしながら、謝った。
男は、自分は“ロシナンテ”だ、と名乗った。
やはり聞いた事のない名だ。
その、“ロシナンテ”と名乗る男は、隣の部屋に越してきたやつだと教えてくれた。
通りで最近、騒がしいと思ったわけだ。
まえに住んでたやつはとっくに移住してるし、おれの、もう片方の隣の部屋には誰もいない。
まァ、どうでもいいことだけど。
「それで、何の用ですか」
どうせ、挨拶とかそこら辺だろうと思いつつも、一応聞いた。
「あァ、えっと……引っ越してきたばかりで、ちょっと挨拶しといたほうが、良いのかなって…」
やはり変わらずおどおどしている。
挨拶という、予想は的中した。
おれは「じゃあ、よろしく」って軽く言おうとしたが、男に先を越された。
「それとこれ、大したものじゃないですけど…」
そう言いながら、なにかを、渡された。
包装された、柔らかななにか。
おれは動揺した。吃驚して、目を見開いた。
いいのか…?と無意識におれは口にしていたようだった。
「全然!渡すために持ってきたので!」
男は──笑顔だった。それはとても、落ち着くような安心するような、暖かい笑顔。
おれは余計に動揺した。
その仕草の意味がわからないまま、おれは、頬から耳まで真っ赤に染める。言葉が詰まった。
「⋯⋯あ、りがと」 と、やっとの思いで吐き出した言葉は、しどろもどろな返答になってしまった。
男は微笑を浮かべながら、「それでは、また」とだけ言い残して帰っていった。
男の姿が見えなくなると、おれは玄関の扉を閉めて、再びリビングへ戻った。
そしてソファーに座る。
手に持っている包装されたなにかに目をやった。 中身も分からないまま受け取ってしまったそれを、開封してみる。
中身は──一枚のハンカチだった。
それも、ハートの刺繍が施された可愛めのやつ。
おれは一瞬思考停止したかのように、固まったが、すぐに解ける。
おれはその場で考えた。
素性も知らない男に対して、こんな気持ちになったのは、おれの人生で初めてだった。
それと同時に、初めて感じる、目の奥が熱くなるようなこれは───
「なんだよ、これっ……」
──おれの知らない病みたいだった。
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