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桃橙
名前伏せ無し
部屋の中は静かだった。
エアコンの音だけが、かすかに響いている。
けれど、その静けさとは裏腹に
ジェルの内側は、騒がしすぎた。
「……ああ、もううるせぇ、俺……」
額を押さえながら、ジェルはゆっくりと座り込んだ。
仕事の連絡を見た瞬間、心がひりついた。
「また迷惑をかけた」「またできなかった」「また人をがっかりさせた」
そんな声が頭の中で何度もこだまする。
「なんで、俺は……できないんだよ……!」
イライラが、爆発する。
床に置いてあったノートPCの電源コードを
引き抜き、棚に積んであった本を床に
叩きつける。
ペットボトルを投げ、スマホを壁に
向かって放り投げた。
音が響く。けれど、それでも足りなかった。
「……クソが……!」
怒りが、自分自身に向かっていく。
思わず、自分の腕に爪を立てる。強く、強く。
赤くなっていく皮膚。痛み。けれどそれでも、心は少しも楽にならなかった。
その瞬間、ぷつんと何かが切れた。
どれだけ傷つけても、投げつけても、叫んでも、何も変わらない。 何も。 何ひとつ。
ジェルは、ふっと力が抜けて、
床に崩れ落ちた。
涙が出てきた。止まらなかった。
嗚咽も声にならず、ただ呼吸が乱れ、
胸が苦しくなる。
「やだ……もう、やだ……なんで俺、こんな……」
身体が重い。動けない。
泣いて、怒って、自分を壊して、
最後に残ったのはただの無力感だった。
――そして、玄関のチャイムが鳴った。
最初は無視した。動けない。反応する力なんか、もうない。
けれど、ドアの外から聞こえたその声に、ジェルはゆっくりと顔を上げた。
「……ジェル? いるんだろ?」
さとみの声だった。
ドアは開いていた。彼にだけは、合鍵を渡していたから。
「入るよ」
そして、リビングに入ってきたさとみは、すぐに状況を理解した。
散らかった部屋。 割れたスマホ。
床に落ちたままのジェル。
そして、その腕に刻まれた、
いくつかの赤い傷。
一瞬だけ、悲しそうな目をした彼は、
何も言わずにジェルの隣に座り込んだ。
「……帰れ……見んな、こんなの……」
ジェルはかすれた声で吐き出した。
「……なにが“こんなの”だよ。俺の大事な人だぞ」
さとみの声は、驚くほど穏やかだった。
「壊れた? 泣いた? 怒った? 自分に当たった?……それがなんだよ」
「俺、またやっちゃったの……また自分傷つけて……物も壊して……全部……もう、最悪なの……!」
「うん。そうだな。しんどいよな、めっちゃ。わかるよ。」
「わかってんなら、帰れ……! 俺が迷惑だって、わかってるだろ!」
ジェルは叫びたかった。でも力が入らなかった。
声は涙に濡れて、ぐちゃぐちゃに震えていた。
そんなジェルの手を、さとみはそっと取った。
傷ついた手を、否定せず、責めず、優しく包むように。
「迷惑でもいい。俺は、ジェルの味方だから」
「なんで……なんでそんな顔できるん……」
「そばにいたいからだよ」
ジェルの目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「俺、壊れてるよ……人として、もう……」
「壊れてる奴なんて、そこら中にいるよ。 でもな、ジェルは“壊れても、生きようとしてる”だろ? それが俺には、どんな人よりも強く見えるんだよ」
静かな部屋の中に、ただふたりの呼吸だけが響く。
やがて、ジェルは力なくさとみの胸に顔を押しつけた。 震えていた。熱くて、冷たくて、壊れそうだった。
さとみは、何も言わずにその背中を撫でた。
今は何も直さなくていい。何も頑張らなくていい。
ただ、生きててくれてよかった。
ここにいてくれて、よかった。
「……なあ、さとちゃん」
「うん?」
「俺、……俺、ほんとは……死にたくないんだよ」
「知ってるよ」
「でも、生きるのも……ちょっと、しんどい……」
「だから俺が一緒にいる。しんどい時は、しんどいままで、俺がそばにいるよ」
その言葉に、ジェルの肩が少しだけ緩んだ。
壊れたスマホも、傷だらけの手も、散らかった部屋も、全部、全部そのまま。
でもそこには、壊れたままでも愛してくれる誰かがいる。
それだけで、心は少しずつ、少しずつ、息をし始める。
今夜は、何もしなくていい。
動けなくても、眠れなくても。
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