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「君と踏み出す、ほんの一歩」
昼下がりの空は、少しだけ曇っていた。
それでも、窓から差し込む光は柔らかくて、心を焦がすような眩しさではなかった。
ジェルは、ソファに座っていた。
さとみが入れてくれた紅茶を片手に、落ち着かない様子で指先をそわそわと動かしている。
「……ほんまに行くん?」
「うん。コンビニまで。5分だけ。誰にも話しかけられないし、俺も横にいるし」
さとみは笑ってそう言ったけど、ジェルにとっては、とんでもなく大きな決断だった。
「外に出る」
ただそれだけのことが、ここしばらくできなかった。
自分がどう見られるか、誰かと目が合ったらどうしよう、 そもそも呼吸がちゃんとできるかもわからない。 そんな不安ばかりが、頭の中で渦を巻いていた。
けれど今日は、少しだけ
「行ってみてもいいかな」と思えた朝だった。
「……さとちゃん」
「うん?」
「無理ってなったら、すぐ戻ってええ?」
「もちろん。1秒で戻る」
「途中で泣きそうなっても?」
「大丈夫。俺がタオル持ってる」
「人に見られたら……」
「俺の後ろに隠れたらいい。背中で隠すから」
ジェルは、少しだけ笑った。
「お前、大きな壁かよ」
「おう。心の防壁な」
その軽口に、緊張していた胸が少しだけ緩んだ。
靴を履くとき、手が震えていた。
玄関のドアの前で、もう一度深呼吸をする。
その間、さとみは一言も急かさなかった。
「いくぞ、ジェル」
「……うん」
ドアが、開いた。
風が肌をなでた。音が耳に入ってきた。
世界は、変わっていなかった。
でも――ジェルにとっては、初めて見る景色のようだった。
数歩歩いたところで、足が止まった。
「……しんどい?」
さとみの声に、ジェルは首を横に振った。
「……ちょっとだけ怖い。でも、ちょっとだけ、気持ちええ」
「それが“今のジェル”のペースなんだよ」
人とすれ違うときは、無意識にさとみの腕をつかんだ。
信号を渡るときは、少し足を速めてさとみに寄った。
でも、確かに前に進んでいた。
逃げ出さなかった。
やがて、コンビニに着いた。
「入る? それとも今日はここまでにする?」
さとみが尋ねると、ジェルは数秒だけ考えて――うなずいた。
「……入ってみる」
その言葉に、さとみは小さく微笑んだ。
店内の冷たい空気に、ジェルは一瞬ひるんだけど、すぐにさとみの背中を見て落ち着いた 。
「ジュース、どれがいい?」
「……コーラ。あと、チョコレート」
「お前、子どもか」
「黙れ」
そんなやりとりが、なんだかとても心地よかった。
レジを出たとき、ジェルはふと立ち止まった。
「……俺、ここまで来たんやな」
「おう。偉すぎて拍手したいくらい」
「……途中で泣かんかったぞ」
「うん。めっちゃ強かった」
「まだ……怖いけど、でも、来てよかった」
「じゃあ、今度はもう少し遠くまで行けるな」
ジェルは照れたようにうつむいた。
「……今日のところは、このくらいで勘弁しといたる」
「はいはい、ビッグチャレンジャー」
ふたりは笑い合いながら、ゆっくりと帰り道を歩く。
手をつなぐわけじゃない。でも、何かが確かに“つながっていた”。