◆第五章【洋館の中は】
目抜き通りを一本入って少し歩くと、ほどなく大きな洋館が現れた。
「ここが硯利《すずり》のやってる便利屋だ」
影彦が門扉を開けると、そこについていたドアベルはカロンと大きく鳴った。
それが鳴ったせいなのかは分からないが、私たちが洋館の玄関に辿り着く前に、それは中から開かれた。
「やあ、影彦。久しぶりだね」
現れたのは、起きたばかりと思われる長身の男性だった。
髪はぼさぼさで着流しを着ているので、その姿がさらに寝起きのように思わせた。長い前髪のせいで顔がよく見えないが、二十代後半くらいのようである。
「そして初めまして、旭灯ちゃん。僕は、黒瀬《くろせ》硯利《すずり》です。影彦とは遠縁なんだよ」
硯利は実に軽快に自己紹介をしてくれた。
「初めまして。朝比奈旭灯です」
私は頭を下げた。
「僕は君を生まれた時から知っているよ。君は有名人だからね」
硯利は愛想よく微笑むと「さあ、入って」と、私たちを洋館に招いた。
洋館の中はかなり広々とした造りになっており、外観と内観は別空間が繋げられているようだった。窓以外の壁面はすべて本棚で、それは吹き抜けになっている二階部分も同様であった。
広間には無作為に陳列棚が置かれており、その中には鉱石や見たことのない雑貨が陳列されていた。
私たちはそれらを通り過ぎ、奥にある応接セットに座るようにいわれた。
着席すると、硯利はお茶を淹れてくれた。
「君たちがここに来るという連絡は、ついさっき届いたわけなんだけど。理由を聞いてもいいのかな」
「旭灯は目が悪いんだ。だからメガネを作ってもらおうと思って」
硯利は「へぇ」と私をみた。
私は「自覚はないんですけど」と、言い訳するようにいった。
「影彦が人の変化に気づくなんて、めずらしいこともあるもんだね。それに今日に限っては、妖術書を手にしてる」
硯利は影彦の持つ妖術書を指した。
「これは旭灯のだ」
正確には紅々塾の妖術書であったが、訂正はしなかった。
「いい匂いねぇ」
奥の暖簾が揺れたかと思うと、妖艶な女性が現れた。
「お茶を淹れたんだ。君も飲むかい」
硯利がいうと、女性は首を振った。
「大事なお客様なんでしょ。こっちの用事は済んだし、今日は帰りますよぉ」
妖艶な女性はそういった後で、私の顔をじっと見つめた。
「ずいぶんかわいいお客様ねぇ」
その女性は私へ手を伸ばした。しかしそれは影彦によって、静かに拒絶された。
「あらぁ。私ったら、ごめんなさいねぇ。あなたも、いい男ねぇ」
女性は影彦をみて、嬉しそうに微笑んだ。
「当然だろ。僕の遠縁なんだ」
女性は「ふふ。そうなのね」と、上機嫌に洋館を去っていった。
「あの人は、うちの常連なんだ。びっくりさせたなら謝るよ。悪かったね」
「妙な感じがしたけど、人間か?」
影彦はいった。
「妖怪の血も入っているけど、人間だよ。妙な感じがしたのは、さすがだね。たぶんあの人は、旭灯ちゃんの魔性《ましょう》に影響されたんだ」
「魔性? なんだそれ」
「オババから、聞かなかったかい」
硯利は私をみた。
「聞いてないと思います」
「角仙娘には、魔性の性質が備わっているんだよ。人を魅了する力っていうのかな。世話をしてくれる人がいないと、君は生きていけなかっただろ」
たしかにその通りである。
「でもね。角仙娘が目覚める時、その魔性の性質も、そしてそのツノも、なくなると言われているんだよ。でも君は魔性の性質も、ツノも残っているね。もしかしたら君は、まだ本当の意味では呪いに囚われていたりするのかな」
「そんな気がします。だから私は、抜刀《ばっとう》する必要があると判断されたんだと思います」
「君は聡明な子だね。自分の状況をよく理解している」
「抜刀しないと、旭灯は二十歳になる前に死ぬってことか」
影彦の言葉を受けて、硯利は私を見つめた。
「その可能性は、まだ少しだけ残っているかもね」
硯利はお茶に口をつけた。
そして話題を変えるように「そういえば」と口を開いた。
「影彦は今も紅娘《こうこ》山《やま》で遊んでいるんだろ。最近、なにか異変はなかったかい」
「ないと思う」
影彦は即答した。
「そうかい。それなら、いいんだ」
「紅娘山に凶兆が出たって聞いたけど、本当なのか」
先ほど徒真はそんなことをいっていた。
「誰が口を滑らせたのか気になるところだけど。徒真だろ?」
「うん。徒真がいってた」
「凶兆が出たのは本当だよ。それほど濃い凶兆じゃないけどね。角仙娘が目覚めて、紅娘山に凶兆がでた。だから少し、慎重に警戒しましょうって感じかな。願わくば君たちにも、そうあって欲しいと思ってるよ」
硯利は窓から見える紅娘山に目をやった。
「紅娘山には、角仙娘の御神体もあるからね」
◆
お茶を飲み終えると、私は硯利に視力検査をしてもらうことになった。
広間を出て別室に通されると、そこは暗室だった。
「目に異常はないし、なんの問題もないかな」
硯利は専用の器具で私の目を観察しながらいった。
それから「ちょっと待っててね」と暗室を出ると、すぐに「はい、おまたせしました」と、尻尾が三つあるネコを抱いて戻ってきた。
硯利はそのネコを暗室の奥の椅子へ置いて、頭と顎《あご》を撫でた。ネコは上機嫌に、目を細めて喉を鳴らした。
「あの子が尻尾を上げると、文字が浮かび上がるんだ。それを読み上げていってくれるかな。まずは右目の検査をしよう。左目は手で隠して」
暗室がさらに暗くなると、ネコは三本の尻尾を立てた。そしてその先には白い風船のような光が現れた。
そしてその光の中には、ぼんやりと「あ」の文字が浮かび上がっていた。
この世界は私が想像する以上に、妖怪とともにあるらしい。
影彦とアラヤには難しかったのかも知れないが、上手く妖怪との付き合うこともできるのだろう。
もしくは硯利が妖将官だから、妖怪と適切な関係が築けるのかも知れなかった。
「君は、左右で視力に差があるね。遠くを見る分には問題はないけど本を読んだり、近くのものを長く見る時は、メガネを掛けた方がいいだろうね。こんなことに気づくなんて、影彦もつくづく変態だね」
それから硯利は、さらに丁寧に視力検査をしてくれた。
「メガネが完成したら、朝比奈家に送るよ。明日の朝になるかな」
「そんなに早いんですね。ありがとうございます」
「ちなみに好きな色はあるかな」
「赤が好きです」
「赤ね。了解したよ」
暗室から出ると、硯利は再びお茶を出してくれた。
「影彦はああなってしまうと長いんだ。読書の邪魔をして怒られるのも面倒だし、気長に待つとしよう」
影彦は二階の日の当たる場所で、妖術書を読んでいた。
彼は世界を遮断するような、しんとした集中にいる。その姿はいつも以上に美しく、そして儚げに見えた。
「しかし君はずいぶん落ち着いて見えるね。目覚めて何日も経ってないんだろ」
そうみえるのであれば二十三才で、この世界に転生したせいだろう。しかしその事実を他言する必要性は、現時点では感じられなかった。
「十六年間、まったく意識がなかったわけでもないんです。話しかけてくれたことや、読み聞かせしてくれた本の内容はなんとなく覚えています。だから私は十六年、受動的にはこの世界に関われていました」
「そうなんだね。大人たちは君に、どんな本を読み聞かせてくれたんだい」
「逸話とか、昔話が多かったと思います」
本の内容をかいつまんで離すと、硯利はすぐにその本の題名を当ててみせた。私が読んでもらっていた話は、この世界では有名なものたちだったらしい。
「この土地に関する逸話というか、角仙鬼《かくせんき》の話は聞いていないのかな。今の子どもに語り継がれているのは、ずいぶん穏やかな話になっているらしいけど」
「角仙鬼の話も少しだけ聞いています。この辺には昔、角仙鬼という村人を困らせる鬼がいて、その鬼を退治したのが朝比奈家と黒瀬家であると」
「そうだね。その話に間違いはないよ。他には聞いているかな」
「あとは、朝比奈家は退治した角仙鬼の呪いで、私のような角仙娘《かくせんこ》が数代に一人生まれるようになったという程度です。おそらく角仙鬼の話は、意図的に控えてくれたんだと思います。それと、聞かされた話ではないんですが。今までの角仙娘は二十歳前に衰弱死していたことは知っています。私に流れる血が、そう教えてくれたように思います」
「呪われた血も、そうでない血も、記憶を継承することはめずらしくないからね。だから君は、抜刀しなければ死ぬかも知れないと示唆されても、冷静でいられたんだね。いや、冷静を装えたといった方がいいのかな」
「鈍感なだけです。まだ色んな実感がないんです」
私は失笑した。
「この世界に呪われた貴族は少なからず存在する。そしてその貴族たちの多くは、妖将官になっているんだよ。君にはその理由がわかるんじゃないかな」
「呪われた貴族のほとんどが、生きるために抜刀する必要性があるからでしょうか」
「ほぼ正解だよ。生きるために抜刀が必要な一族もいるけど、ほとんどが自分の持つ力を制御しやすくするためって感じかな。そしてそういう一族は身体能力も高いし、抜刀しやすい血筋ともされているんだ。朝比奈家も、それに該当するはずだよ」
体育はかなり苦手な方で五十メートル走は十秒を切ることはなかった。しかしこの体なら、五十メートルを九秒台で走ることも可能なのだろうか。
「硯利さんは角仙娘の呪いについて、詳しいんですか」
「詳しいというわけでもないけど。現時点では、君よりは詳しいかも知れないね」
「よければ、知っていることを教えてくれませんか」
硯利は「いいよ」と即答した。
「もちろん、僕が知ってる範囲でしか話せないけどね」
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