注意!!
・シベリア抑留のお話。
・実はこれ前に私が原稿用紙に書き殴ってた小説なんですよね。400字詰めの原稿用紙を数えたくもない枚数使ってました。頭のネジ外れてるんでしょうか。
・満州と日帝、そしてその他のメンツ。
・ソにて(?)が出てきます。
地雷さんはご自衛ください。
では本編Go。
その人は私の憧れであり、目標であり―――…そして、私が狂わしいほどに想っているお方だった。
「お早う御座います、日帝様。本日の国の運営は如何なさいますか?」
時は1945年8月。中旬に入りかけの頃。
ここ、満州がよく晴れている日のことだった。
私の目の前に座る一人の人物の名は、日帝様こと―――…大日本帝国陸軍様。険しい表情を浮かべ、貼り付けたような私の笑顔とは全く対照的であった。
「…満州。我が帝国日本に、『原子爆弾』なる新型爆弾が米帝に依り投下されたことは知っているな?」
「えぇ、勿論に御座います。死者多数、かのヒロシマは焼け野原で人も影だけを遺し消滅、最新技術で建てられた鉄筋コンクリートの建物ですら骨組みのみを遺し消え去った…と。酷い状況でありますね」
私は満州国という国の化身だから、まぁ普通の所謂『ニンゲン様』とはてんでまるで情報の摑み方が違う。ニンゲン様が新聞やらラジオやらで情報を摑むのに対し、私達は世界のアチラコチラに分身…のような存在を点在させ、それらから情報を摑む。だからニンゲン様のように嘘の戦勝や進軍を伝えられることなく、真実―――確か露西亜語ではプラウダ―――を知ることが出来る。随分便利ではあるものの、真実からは逃げられないという一種の呪いのような代物だ。
日帝様はいつになく真剣な面持ちで私が話し終えてもじっと黙って居られた。その様子が、なにかよくないことが起きる前触れなのだとも、私は識っていた。
沈黙の時間が、一分、二分―――体感は数時間も―――と過ぎた頃、日帝様は漸く口を開いた。
「満州、お前は日本へと戻っていなさい」
目の前がふらりと揺れた気がした。
「もうじきここらは蘇聯の軍が寄越される。その前にお前は日本へと征きなさい。日本軍が全滅し捕虜となり、占領されてしまう前に」
「一寸お待ち下さい日帝様、ソ連が何故攻めてくるなんてお話を為されているのですか。日ソ中立条約に依り、互いに進行しないと定めたではありませんか。なのに、何故そんな話を―――…」
そう訴えても、日帝様は険しい面持ちを崩されなかった。そして、一通の封書を私に差し出す。
「この封書…もとい電文だが、丁度本日届けられたものだ。…読みなさい、真実が解るだろう」
震える手で文書を受け取った。一度開封して弱くなった糊の部分をぺりぺりと音を鳴らしながら開封し、カタカナと漢字で書かれた文書に目を落とした。
「コウシテ秘密裏ニ文書ヲ送ッテシマイ迷惑極マリナイカト存ジルガ最後マデドウカオ目ヲ通シテホシイ。
先ニ云ッテオクガ、コノ文章ノ内容ニツイテ知ル者ハ、私ト、ソチラノ日帝ノ3人ト、読マセルノデアレバ満州ノミデアル。蘇聯最高指導者デスラ私ガ送ッテイルコトハ知ラナイト重ネテ申シ上ゲル。
却説、本題ヘト入ル。我々赤軍ハ8月8日ヨリ中華民国領満州ヘト南下シ占領政策ヲ執リ行ウ。ソノ際ノ在満日本人ノ処遇ハ如何スルカト云エバ、捕虜ノ一択デアル。ソノ為、在満帝国日本軍ハ撤退サセルコトノナイヨウ申シ上ゲル。
何故コノヨウナ文章ヲ送ッタカト云エバ話ガ長クナル上、私自身モアマリ日本語ハ得意トシテイナイ為ニ認識ノ齟齬ガ生マレカネナイノデ終戦後ニ改メテ話サセテ頂ク。
君達日本ガ正シイ選択ヲスルコトヲ願ッテイル』
「……日帝様、この文書は、真逆…」
日帝様は声を出さなかった。唯、頷いた。
「…蘇聯が来るから、だから何なのです。私と手一人の国の化身、蘇聯が攻めてこようものならば日帝様のように前線へと出て戦う迄に御座います。その覚悟は、もうとっくの昔に―――…ッ!?」
言い終わらない内に、日帝様は机を手の平で強く叩いた。一瞬銃声かと聞き間違うような鋭い音が静まり返った部屋に響き、窓の外の木に止まっていた鳥の囀りまでもが止んだ。
日帝様が顔を上げられた。
強い意志を宿すその紅い瞳が、今日だけは薄らと涙に濡れていた。
「…良いから、四の五の言わず早くこの地を去れ。この満州の地は、我ら帝国陸軍が戦い、そして護り抜く。お前が居ては、ただの足手纏いにしかならん」
「で、ですが」
「くどいぞ!!早く去れと言っている!!」
日帝様が到頭涙を一粒零された。これはまずい、と直感で悟った。この人は本当に私に内地へと逃げてほしいと願っているのだ。
私はまだ反論したい気持ちを幽かな意思で捩じ伏せ、殆ど放心状態で日帝様の事務室から去った。今から荷を纒めれば、満州を発てるのは夜頃になるだろうか。
「…さようなら、日帝様」
幽かな私の呟き声は誰にも届くことはなく、空に溶けて消えていった。
満州には悪いことをしたと想っている。去り際に見せた満州の苦痛そうな表情が頭から離れなかった。
「…だけれども、許せ満州。お前を守る為なのだ」
パラオも、ガダルカナルもサイパンも硫黄島も、何もかもを失ってしまっている我ら帝国日本に最早勝機は無い。然しニンゲン側の政治家や軍人の一部は一縷の希望に賭けて本土決戦をすべきだとか豪語しているらしい。そんなことをしたら条件付きの降伏への道が明らかに遠のいてしまうというのに、どうやらニンゲンというものはコレ以上無いほどに愚かであるらしかった。寿命は長くて八十歳の今日では、我々国の化身たちのように長い永い経験から未来を見据えるのは難しいのかもしれないが。
「…だがまぁ、これで満州は内地へと逃がせた。後のことは、海や空が上手くやってくれるだろう…」
今は本国で天皇陛下様と共に降伏の準備を進めているであろう兄弟達の姿が目に浮かぶ。今、彼らは如何しているだろうか。食事は少なくてもきちんと摂れているだろうか。熱を出していないだろうか。流行病に侵されてはいないだろうか。そんな事が頭の中をぐるぐると巡る。心配していても、私は満州国に居るのだから何も出来ないとは勿論理解している。けれども仕方ないだろう、唯一の家族の安否を心配せぬものが何処に居るのだ。
一人事務室で薄らと溜息を零し、そして、そのタイミングで事務室の扉がノックもなく開けられた。普段ならその入ってきた陸軍将校を咎める所ではあるが、将校の恐ろしいまでに切羽詰まった表情で、嗚呼、そんなことをしている場合ではないな、と頭がやけに冷静に考えていた。
「に、日帝様!!満州北部隊より伝令です!!」
「如何した、云え」
如何した、なんて聞いた所で答えなどとっくに解っている。今日ソ連から届いた秘密裏の文書。日ソ中立条約破棄と、宣戦布告。そして、ソ連と国境を接する満州北部隊からの伝令。
「せ、赤軍です…ソ連の軍隊が、満州北部の部隊へと攻撃を仕掛けました!!」
その言葉を聞いて、私は無表情でもなく、驚くでもなく、落胆するでもなかった。心のなかにあったのは、たった一つだけ。
ほうら、矢っ張り来た。
その言葉だけだった。
「…すぐに満州北部へと部隊を送れ。そうだな…一個師団程が望ましい」
「で、ですがそのような人数、今すぐには」
「良いからかき集められるだけかき集めろ!!何が何でも、満州を護り切れ!!」
そう叫ぶと、将校は声にならないのかコクリと頷くだけで事務室を飛び出して行った。
きっと私も、満州と一緒に内地へと帰るべきだったのだろう。ここを放棄し、本土を守り抜くのに専念すべきなのだろう。
(…そんなの、できるわけない)
手の力が無意識に込められていく。やり場のない感情が出そうになるのはプライドが許さなかった。
私は満州と約束したのだ。向こうにそんな気はないのかもしれない。けれど、私は約束した。
決して、この地は蘇聯なんかに渡さないと。
遠くから戦闘音が聞こえる。きっと、風向きの所為であんまりにも大きな音が流されて、私の元へ幽かな音として届いたのだろう。銃声を聞いて、私も背中に背負ったライフルを構えて闘いたいと想ってしまった。けれどもその想いは打ち砕く以外してはならない。私は日帝様に内地へと向かうように言われてしまっているのだから。
「…海さんも空さんも、元気かな」
遥か昔に日帝様に連れられて少しばかり話して以来会っていない。海さんも空さんも顔が日帝さんと瓜二つだったから思い出せる。服装は少し自信がないけれども、海さんは帝国海軍の真っ白な軍服を、空さんは帝国海軍航空隊の軍服とをそれぞれ身にまとっていたのは覚えているから、見たら一発でわかる筈だ。
満州から内地へと行ける港はいくつかあるけれど、私は敢て陸路で中華民国に近い所に存在する港を選んだ。ソ連が宣戦布告したのであれば、何時港が封鎖されてしまうかわからない。それに制海権を握られてしまえば満州を仮に出られたとしても船が堕とされてしまう可能性もある。それが怖かった。
港に着いた頃に丁度運良く内地行きの船が止まっていたので慌てて乗り込めば、すぐに出航の鈍い汽笛が鳴った。後から知った事だが、日帝様は私が乗り込むまで出航を遅らせるよう言うたらしい。おかげで乗客のニンゲン様には少し苦い顔を向けられた。
ゆるゆると船が動き出し、それに伴って私の国から遠ざかっていく。
(…また、いつか戻ろう)
きれいな青空と、過ごしやすい気候。少しばかり寒いし、周りが殆ど敵国であった彼の国だけれど、私が居るべきなのはやっぱりあの場所なんだ。日本でも、中華民国でも、ソ連でもない。私はいつか、彼の地へ―――…満州国へと、帰るのだ。
「…さらば、満州国。またいつか」
エンジンの音に混じって、また戦闘音が聞こえる。銃の音だったり、爆弾の音だったり。今も闘い続けている日本兵さんたちのことを想って、私は胸に手を当てた。
どうか、誰も傷つくことなく、死んだとしてもそれが悠久の大義に散る栄誉ある死でありますように。ソ連に正義の鉄槌を、真の大和魂を見せつけ退けることが出来ますように。
流れる風、なびく日章旗と旭日旗の下で、私は純粋にただ祈っていた。その時は実はまだ少し信じていたのかもしれない。帝国日本の勝利を。独逸と伊太利亜が斃れても日本だけが生き残り、枢軸が勝利する未来を。そして―――…私も日帝様たちも、また笑い会えるその未来を、…私はまだ信じていたのかもしれない。
けれども、そのほんの少しの無垢な願いは、奇しくも玉砕されることになった。
昭和二十年八月十五日。
帝国日本はポツダム宣言を受諾し、連合国である米英志那ソの下へ無条件降伏を行ったのだった。
私は陛下様の玉音放送を、海軍本部で聞いていた。流れるように読まれるその文章が、初めは全然理解できなかった。日本が連合国へ降伏?なんていうように疑問符ばかりが飛び回り、然し隣で海さんも空さんも、他の兵士さんたちも泣いたり蹲ったり、安堵から座り込んでしまう人も居たものだから、段々と日本が降伏したのだという状況がきちんと飲み込めてきた。
日本は、到頭敗けを認めたのだ。
「…ねぇ、海さん。日本は、敗けたんですよね?」
「…嗚呼、敗けた。枢軸は、もう消滅した。じきに亜米利加軍がやって来て、戦争犯罪人を捕まえに来るだろう」
「な、なら今起こっている日ソ戦争も…もう、終結するのですね!!」
私は無意識に笑顔を浮かべていた。あの日満州国を護ると言っていた日帝様も、今起こっている日ソ戦争が終われば戻って来る。日本は降伏したのだからそうでなければおかしい。そう想ったから、日帝様が帰って来るのだと、理解ったから。
けれども、海さんは私の言葉に頷かなかった。
「…ソ連との交渉も、勿論続けている。満州国を放棄し、日本兵の武装解除を行う。だから赤軍も兵を退けろ、と。…だが…あまり交渉は上手く行ってないのが現状だ。陸…日帝が何時帰ってこれるのかは…俺達にも、全く解らない」
その時初めて海さんは私に頭を下げた。
綺麗な九十度。いつもなら私が海さんに頭を下げる立場なのに。
けれどもその時の私は気が動転していた。また日帝様に逢えると希望を持っていたのに、冷たい現実が熱くなっていた感情を急激に冷やしたから。十分に熱したガラスに水を掛ければ一瞬でガラスが割れてしまうように、何時逢えるか解らないということに対して、先刻の希望の分、絶望を覚えていた。
海さんは俯いたまま、小さく言った。
「…すまない、満州」
私は、何と言うことも出来なかった。
「……もう、良いです」
幽かな、悲鳴にも似た私の声は、決して部屋全体に響くようなものではなかった筈だ。なのに何故か私の声は狭くもない部屋の空気を震わせた。その時だけは、世界の刻が止まったかのように一切の物音が聞こえてこなかった。
私は痙攣しそうになる喉を一度押さえてから、もう一度声を絞り出した。
「もう、謝らないでください。彼の人は、きっともう一度、この日本の土を踏みしめて、不器用に笑って帰ってきますから。私はそれを何時までも何時までもお待ち致します。どうせ私は、永遠の時を生きる国の化身であるのです。死することも消えることも出来やしません。…ならば私が朽果てるその日まで、ずっと、ずっと、お待ちいたします。日帝さまが、この島国の地へとお帰りになる、その日まで」
掠れてろくに聞き取れなかっただろうに、海さんはぼろぼろと到頭涙を流し始めて、私の小さい体を抱きしめられた。その当時の私には、海さんが如何して泣いているのか、さっぱり理解出来なかった。無条件降伏がそんなにショックであったなら私よりもご家族の空さんに抱きつくのが普通だろうし、他の理由を考えても私は唯日帝様をお待ち致しますと言っただけだし、これと言った理由は見つからなかった。海さんは私の痩せ細った体を抱きしめて、頻りに謝っていた。すまない、すまないと何度も。それが果たして日本国民に宛てられたものなのか、はたまた満州の人に当てられたものなのか、それともこの場には居ない日帝様に宛てられたものなのか。
私は理解できなかったし、そもそも理解しようとする気すら失せていた。
「…帰国の日は、何時来るんだ?」
冷え込む収容所の一人部屋。軟禁生活を送っていたある日、私の部屋に居座って、監視だ何だ言う割には楽しそうにドストエフスキイの露西亜語原文の本を読むソ連の国の化身へと話しかけた。日ソ戦争が終結して早半年が過ぎようとしている或る日のことだった。ソ連が私の軟禁部屋で嫌と言う程に居座るのはもう慣れたことだし、表紙のデザインを何も見ないでも書けそうな程に見た罪と罰の本を飽きもせずずっと読み更けっている姿を眺めるのももう慣れた。けれども、何時まで経っても本国へ帰してくれる気配がない。自分も日本の国の化身であるのだから、少しくらい政治に参加して戦後日本の復興と発展を支えたい。そう思っているのに何時までもこの調子では困るのだ。
長々とそう訴えたくなる衝動を抑え込み、ソ連の返答を待った。ソ連は質問から数秒遅れて漸くドストエフスキイの文庫から顔を上げ、金色の瞳で私のことをじっと見た。
「…少なくとも、あと二十年は帰さん」
ソ連の低い声が耳に届いた。流れるような美しい日本語の発音。然しその言葉の内容は全く持って美しいとは思えない。
「…二十年だと?巫山戯るのも大概にしろ、仮にぴったり二十年ならば私が祖国の土を踏めるのは1966年になるだろうが」
「だから、そうだと言っている」
「巫山戯るな!!貴様らは矯正労働と称して酷く劣悪な環境で日本国民をシベリアで働かせている、なのにこの生活をあと二十年だと!?日本国民の絶滅でも狙っているのか!?」
そう言ってもソ連は、そうかもな、と曖昧なことを口にして再びドストエフスキイの小説に視線を落とした。中立条約を結んだときも、そう云えばこんな感じで適当だった。
「…おいソ連、幾つか質問がある」
「何だ」
「…今、日本はどうなっている」
先ずそう尋ねると、やっとソ連は小説に栞を挟んで本を閉じた。
「…ニンゲン様の世界なら、終戦後すぐにアメリカからマッカーサー…というやつが来てそっちの…テンノウ?とやらと会談していたな」
「陛下と……。…そうか、有難う。なら、次。…満州は、元気に遣ってるのか」
先刻までと何ら変わらないように問うた。けれども、少しばかり声が上ずってしまったのかもしれない。ソ連は少しこちらに視線を寄越して、それから足元の本を手にとって立ち上がった。
「満州なら、魂抜けたみたいな面して日本で生きてるぞ」
そうとだけ言い残して、ソ連は扉の向こうへと消えていった。
『満州なら、魂抜けたみたいな面して日本で生きてるぞ』
ソ連の先ほどの言葉が頭から離れない。満州は若しかしたら怒っているのかもしれない。満州国を護ると言っておきながらソ連に彼の地を占領され、怒っているのかもしれなかった。
なんだかそんな風に考えてみれば、私の目から一粒、涙が零れ落ちて床のコンクリートに染み込んでいった。
私は待った。彼の人が帰ってくるのを。
一九四六年の東京裁判のあと、私含め日帝さんたちは揃って旧国処分を下された。海さんや空さんは連合国にも国として認められる存在であったから、現国から旧国へとなってしまうのは当然のことだけれども、私はと云えば『満州国は独立国家である』と言い張ったに過ぎない仮初の、しかも傀儡国家であると最早疑う余地もなく見破られていたから、どうにも私を旧国処分にしてしまうのは連合国にとって都合が悪い事のように思えた。だって、そうしたら私は『現国であった』と連合国が認めることになってしまう。だから私はアメリカさんに話しかけた。
「あの、アメリカさん。私は…その、そちらでは国ではないんですよね?如何して、私を旧国処分にしてしまうのですか?」
「…そうだな。確かに、俺達連合国はお前を国として認めていない。日帝に操られた人形ってのは、俺もイギリスも…全員見事に同意見だったから。だがな、お前を単に傀儡として片付けてしまうのは色々面倒なんだ。本物の人形なら捨てるか押し入れにしまえば一切問題なく処分できるが、お前はそうじゃない。自らの意思で動き、応対し、行動できる。そんな存在はさすがに無下にすることは出来ないから、今回の処分を下した。―――…何か、異論でもあるか?」
「…いえ、何も。ご説明有難う御座いました」
勿論こんなの嘘で、実を言うともっと沢山聞きたいことはあった。けれどもこれ以上何かを言って面倒事を起こすのも嫌だった。だから、私は黙った。日帝様と過ごす内に覚えた、人の良い笑みを浮かべて、そうして世界に流されるのを待っている態度。
私はその日から、日帝様を待つ日数を数えるのを辞めた。どうせ長い人生、今日が何月何日かなんて数えるのは面倒だったから、春夏秋冬で日々を数えるようにした。夏が三回来たから終戦からもう三年が経ったんだな、という具合に。段々と自ら動くともなく流れる時間に身を置くようになってきている私のことを、周りの人は酷く心配した。けれどもそんな周りの人々を気にも留めずに居たらそんな人も居なくなっていった。なのに何故か、海さんと空さんだけは私がいくら無反応だろうと側を離れることはしなかった。毎日毎日飽きもせず日向ぼっこする私の両隣に座り、あの鳥はもうじき南に飛んで行くよだとか、にわか雨の降る雲があって、それを見分けられるようになると航海の時に楽なのだとか、そんな他愛もないような会話がそこには会った。偶に連合国だった人たちも混じえて、その取り留めの無い話は続けられた。イギリスさんやら、中国さんやら、アメリカさんやら。彼らの話すことはどれも私からすれば非現実的で、まるで全くの異世界を見ている気分になった。
けれども、たった一度だけ。ソ連さんがやってきた時は、私は彼を酷く責めた。
ソ連さんは二通の手紙を持ってやって来た。それぞれ、海さんと空さん宛て、そして私宛ての手紙。中を開くと、彼の人の懐かしい筆跡の字が狭い葉書の中でぎゅうと押し込められていた。その字を見た途端に、私はソ連さんへと掴み掛かった。その手紙を見る迄は全く何も動かなかった私がいきなり、それも現国であるソ連さんに摑み掛かったのだから、海さんも空さんも心底驚いていた。鉄面皮と称されるソ連さんですら、私のあまりの豹変ぶりに目を見開いていた。何か私はソ連さんにまくし立てて質問攻めにしたような気がするけれど、何と言ったのかは余り覚えていない。
唯一覚えているのは、私は死んでも構わないから、日帝様を返せ、と言ったことだけ。
ソ連さんは暫く黙った後、短く「すまない」と謝った。何なのですか、それは。謝るくらいなら、早く日帝様を返してください。そう責め立てて、そこで記憶がぶつんと途切れている。後で聞けば、その時の私は大国に敗けず劣らずの剣幕でソ連さんに詰め寄っていたらしい。でも、その言葉に私は驚きもしなかった。そのぐらい、私は日帝様に帰ってきてほしいと願っていたのだから、ソ連さんに圧を書けられたのなら好都合。若しかしたら、私の言葉を聞いて、抑留させられた人たちの帰国が早まるかもしれない。そんな淡い期待が芽生え、私は久しぶりにカレンダーを見た。一九四九年だから、何と戦争が終わってからもう既に三年。もう、三年も経ってしまっている。私は気づかないでいたのだ。季節で年を数え、死んだように過ごしていたから、もう日帝様と離れて三年も経ってしまっていることに気づかなかったのだ。
(でも、もうきっと、そんな日ももう終わる)
もしソ連さんが私の言葉を本当に聞き入れてくれたなら、もうじき日帝様は帰って来る筈だ。そうすれば、私はもう、毎日を数えて笑うことが出来るようになる筈だ。小さな希望が見えて、私は実に―――…三年振りに、笑顔を浮かべた。海さんも空さんも、私が笑ったので随分と驚いていた。
けれども、日帝様が帰ってこられたのは、一九五六年…ソ連と日本が正式に国交を回復した、終戦から実に十一年も経った年のことだった。
寒い寒い冬の日のことだった。私はたった一人で、いえ、海さんと空さんとで舞鶴へと来ていた。ここは昨日露西亜のシベリアに抑留されていた人々が大きな船に乗って帰国してきた港なのだ。
そして昨日、再びソ連さんから秘密裏の電報が来て、たった二人だけで日本へと日帝様を帰国させると、そう伝えられたのだ。
「緊張してる?満州」
ふと空さんから話しかけられた。マフラーに埋もれ、顔を出すのも酷く億劫になるような寒さだったので、私は単に頷いた。空さんは、そうなんだね、僕と一緒だ、と言って、傍に来ていた白い野良猫を可愛がり始めた。
海さんはといえば水平線のさらに遠くの方を眺めていて、そして、あるとき何かが弾けたように肩を震わせて思い切り立ち上がった。
「っ、船だ…船が来た!!」
海さんのその声で、私達も水平線の向こうに視線を投げかけた。昇りかけている太陽を背に、ぽつんと一つ、小さな船が影となってこちらへと進んできていた。あんまりにも小さな船であったものだから、普段私なら大して気にも留めなかっただろう。けれど、数十年もの間共に時間を過ごしてきた私や、同じ国の化身である海さんや空さんには解っていた。あの小さな船が、わたしたちの生きる希望を乗せてこちらに来ているということが。
「……やっと、帰ってきてくださったのですね…日帝様……」
私はその光景を見ながら、無意識にぼろぼろと涙を零していた。
とうの昔に凍りついたと思っていた涙腺。
それを溶かしてくれるのは、やっぱり、貴方様なのですね。
本国へと帰ってきた。実に十一年振りだ。ソ連から貰った海の電文によれば、海と空と満州とで舞鶴へと迎えに来てくれるらしい。
「…どうだ、久しぶりの日本の空気は」
隣りに立っていたソ連が飽きもせず例のドストエフスキイの文庫本を開きながら話しかけてきた。私は胸元からロケットペンダントを取り出し、それを開いて見つめながら答えた。
「…凄く、暖かい。気候的な面は勿論だが、何より…私を待ってくれている人が居るから」
「…待ってくれている人、か」
ソ連は私の方を見て、そして、珍しく寂しそうな笑みを浮かべた。
「…何だソ連、いきなりそんな表情して」
「嫌?別に何も。…少し、お前が羨ましくなっただけだ」
「人が待ってくれていることか?それならお前だって―――…「俺は、お前とは違うんだよ」
食い気味にソ連は言った。唯、少しばかり切ないような笑みを湛えていた。
「…俺は、お前とは違うんだ。勿論、俺の方が周りに居る人数は多い。でも、そうじゃないんだ。俺は、きっと恨まれてる。ウクライナからも、カザフスタンからも、…俺の後継になるだろう、ロシアからでさえも。力で押さえつけ、無理矢理戦争に引っ張っていった俺を、…皆、恨んでいる。だから、数は少なくともそうやって日帝のことを待ってくれている人が居る。…それが、俺には…どうしようもないくらいに、羨ましいんだ」
私はソ連が此処まで長く話している所を初めてみたかもしれなかった。こんなにも切ない笑みを湛えて、そんな風に自身を語るソ連の、何と痛々しいことか。
「…ソれ、「日帝。もう港に着く、荷物は確り確認しておけよ」
話しかけようと思ったときには、もうソ連はいつも通りの無表情だった。日ソ戦争の最中、果ては矯正労働の時ですら今すぐ殺してしまいたいと思っていた、その表情。
彼は、ソ連は、まだまだ若い子共だった。
独ソ戦で凄惨な戦場を作り出し、また終戦して間もない帝国日本へと兵を向け二千人とも語られる死者を生み、更にはシベリアという美しい地獄へと自分のような者を連れて行った最悪の国だったが、それでも彼は、生まれてまだ三十年ほどしか経たないうら若き国だった。自分たち国の中で三十数年なんて、まだまだ若い部類だった。
子供ならば、路頭に迷ってたった一人で悩み苦しんでいる時―――…大人が、支えてやらねばならない。
私はそっと、ソ連の手に自らの手を重ねた。
「…何のつもりだ」
「子供なら私が傍に居てやらねば、と思ってな」
「…ふ、今更敗戦国が何を…」
ソ連はそこまで言って笑った。
朝が、もう近かった。
船が漸く港へと着岸して止まった。長いこと揺られて肩も腰も痛かったが、もう二度とあの極寒の地へ戻らなくて済むのならばこの程度安いものだ。
「降りられるか?」
「心配どうも。一人で大丈夫だ」
「そうか」
船に積み込んでいた僅かな荷物を手に、私は船の外へと足を着いた。確りとした、揺るぎない日本の大地。振り返ればソ連が船の上から意地の悪そうな笑顔を浮かべていた。
「もしまたシベリアが恋しくなったら何時でも連絡してこい。喜んで労働させてやるよ」
「要らぬお世話だな。……じゃあまたな、ソ連」
「嗚呼。また何時か、日帝」
手を振ると、ソ連は走ってきている満州たちに目を向ける間もなく再び船のエンジンを掛けた。そのまま、また岸から離れていく。
私のシベリア抑留生活は、こうして終わりを迎えた。
日帝様が漸く日本へと戻ってこられた。
「日帝様!!」
私は無礼のぶの字も忘れて、十一年振りに見ることの出来た日帝様へと抱きついた。昔よりも随分と細くなられた、そのお体。
「ま、満州…」
「日帝様…日帝様っ…!!」
私は日帝様に抱きつきながら、みっともなくボロボロと泣いていた。先程の船の件で崩壊した涙腺が十一年分に働くぞと言わんばかりの仕事をしている。お陰で日帝様のお召しになられている懐かしい軍服の胸元の辺りが濡れていた。
「…泣くな満州、私は無事なのだから」
「無事で戻ってこられたことに対して私は泣いて居るのですよ!!無茶を言うのはお辞め下さい日帝様…ッ!!」
そう叫ぶと、日帝様は笑われた。愛しいものを見るような、そんな目で。
後ろからゆっくりと、海さんと空さんが近づいてきていた。
「…お帰りなさい、陸」
「只今、海、空。…十一年振りだな」
「…ッ、十一年ぶりだね、じゃないでしょ!?僕ら、どんだけ陸のことが心配だったと、思、って……!!」
最後の方、空さんの声は涙で震えていた。海さんも、幽かに泣き声を漏らしていた。私は唯、安堵から日帝様の体に抱き着いて泣き続けることしか出来なかった。そんな私の頭を、日帝様は、そっと撫でてくれた。お優しい、お優しい手つきで。
「…帰ろう、皆。…私達の、家に。」
日帝様がそう言うと同時に、始発列車の汽笛が遠くから鳴り響いた。
それから、時代は目まぐるしく変わっていった。東京オリンピックが有り、東西冷戦があり、そして―――…この物語の一番のキーであったソ連は崩壊し、完全に過去の国―――…旧国となった。
そんな頃、私達は二十一世紀を如何生きているかと云えば―――…
「日帝様!!何時まで寝て居られるのですか、自衛隊の訓練があるからそろそろ起きなければいけないのでしょう!?」
「…満州…矢っ張り、私…無理…」
「たかだか八十年位前は東南亜細亜の悉くを制覇なさっていた方が何を仰いますか!!確りして下さい旧宗主国様!!」
「はう…」
…と、このように私が毎日日帝様を叩き起こすという、現国時代では有り得ない生活を送っている。海さんや空さんは如何なさっているかといえば、彼の人らは彼の人らで毎日日本の防衛に努めながら二人で楽しく遣っているらしい。この間来た手紙にも、やけに楽しそうなお二人の映ったイタリア・ドイツ旅行の写真が同封されていたくらいだ。
「……お早う、満州……」
「お早う御座います、日帝様。…漸く起きられましたね……」
「…明日から気をつける…」
「そうしてもらわないと困りますよ…」
軽く溜息が出る。けれども、ほんの少しばかり嬉しくもあった。こうして『明日』という言葉を気軽に、純粋な気持ちで言えるようになったのが、とても、とても嬉しかった。
「…日帝様、今日は良いお天気ですね」
「…嗚呼、そうだな。…綺麗な、青空だ」
こんな風に他愛もない言葉を交わせるのもとても幸せなことだ。
(…人には、失わなければ解らない大切なものが沢山ある)
私は日帝様と一九四五の八月に別れ、漸く日帝様の存在にどれだけ救われていたのかを知る事が出来た。彼の存在が、姿が、お声が、どれ程私の安心材料になっていたのかを、失ってから漸く知れた。
だから、今私は自身を持って言える。自分の人生は、大切なものを失わぬように、物事の有り難みを如何に知ることが出来るかで、人生を終えたときの最終的な幸福度が決まるのだと。
私は昔、満州の地を武力で手に入れた日帝様を…尊敬や敬愛といった貼り付けた感情の裏で、酷く恨んでいた。それこそ、どんな手を使ってでも殺したいと思う程に、恨んでいた。けれども、共に過ごしてゆく内に気付いたのだ。中華民国にも殆ど見捨てられていて、暗闇の中で彷徨っていた私に手を差し伸べてくれたのは、他の誰でもない、日帝様だった。何も識らなかった私に沢山のことを教えて下さった。そして、本当の強さを、その身で持って教えて下さった。
本当の幸せとは、大切なものを手放さないこと。大切なものを手放さない為には、本当の強さが要る。そして、本当の強さとは―――…それ即ち、決して折れぬ心を持つ事である。
「…日帝様、本当に有難う御座います」
「…?何を言っているんだ満州、私は何もしてないぞ…?」
きょとんとしてそう仰る日帝様を見て、私はふっと笑いを零した。どうか、願わくばそのまま何も知らずに周りの存在を救う存在であってほしいと願ってしまうのは、きっと我儘なんだろう。
「…あ、ほら日帝様!!もう七時に御座います、集合は八時では…!?」
「そうだった!!しまった、忘れてしまっていた…!!」
慌てる日帝様を見て、私はまた笑った。
どうか、辛いことがあっても、必ずまたこんな風に、朗らかに笑い合える日々が未来に在りますように。
あの八月の空に似た今日の空を見上げて、私はそっと願った。
Fin.
コメント
13件
うわァァァァァん悲しいヨォ 最初「悲しい」 中盤「悲しい」 最後「満州オカンやん」 ソ連好きの私にはトドメの一撃だ グハッ
神回ですね!おもしろい!
満州可愛すぎんだろぉ!旧文字とか使ったりするの上手すぎる、、、 今回も感動出来るお話Thankyou