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湊の部屋は東向きで昼間はやや薄暗い。時折、椎の木の木漏れ日が障子に光の影を作る。鎮痛剤で閉じた切れ長の一重瞼、右腕には白い包帯が巻かれ、右頬と額には大きな絆創膏が貼られて痛々しい。その面立ちに菜月の心は細波を立てた。
(絶対おかしい!慎重な湊が事故を起こすなんて!)
今回の交通事故は自損事故として取り扱われた。湊がブレーキを踏めなかったのは後部座席に積んでいた清涼飲料水の荷崩れが原因で、事件性はないと事故現場に立ち会った警察官はそう判断した。「少し、腑に落ちない事があるんです」然し乍ら、県警捜査一課に所属する湊の友人、竹村誠一は疑念を抱いた。
「菜月さん、ちょっと」
プライドの高い賢治が、湊に頭を下げる事など1度も無かった。事務所に居合わせた従業員に尋ねると、皆、口を揃えて「自分で運ぶから手を出すな!」と社長に怒鳴られたと言う。そして、湊と賢治は6箱の段ボール箱をBMWに詰め込んだ。
「はい」
竹村誠一は、事務所にあったメモ帳に、ボールペンを走らせた。そこには目を疑う文字が並んでいた。それは、あるはずのない、25本目のペットボトルについてだった。
「湊さんは、持ち込んではいない、と証言しました」
「それじゃ、ブレーキに挟まったあれは?」
「誰かが作為的に準備した物だと思われます」
「まさか」
「心当たりはありますか?」
咄嗟に脳裏に浮かんだのは、賢治と如月倫子だった。けれど今、ここで2人が警察に捕まってしまっては”報復”は成り立たない。菜月は、なんとしても賢治と如月倫子が冒した不倫行為を明るみに出し、社会的に抹殺したいと考えた。
「菜月さんも同じだ」
「なにがでしょう」
「湊さんにこの件を尋ねた時、同じ顔をしました」
「同じ顔、ですか?」
竹村誠一は深く頷いた。
「なにかを隠している、心当たりがあるんですね」
「それは」
「けれど湊さんは言いました」
「なんて、言ったんですか?」
「もう少し、あと1週間待ってくれと言いました」
「1週間」
湊は、あと1週間で全てを終わらせるつもりだ。それには賢治と如月倫子の2人が一緒にホテルの部屋に入る画像が必要だった。今週の金曜日、怪我を負った湊になにが出来ると言うのか。
「菜月さん、無理はなさらないで下さい」
「はい?」
「ペットボトルに付着した指紋はこちらで採取しておきます」
「はい」
「清涼飲料水の段ボール箱を車に運んだのは、湊さんと綾野賢治さんで間違いはないでしょうか?」
「はい、従業員はそう言っています」
竹村誠一は、賢治のデスクにあった飲みかけのコーヒーカップに目を付けた。
「綾野賢治さんは今、どこへ?」
「会合で出掛けています」
「それでは、こちらをお預かりしても宜しいですか?」
竹村誠一は、賢治専用のコーヒーカップを白い手袋で掴み、ジップロックに入れた。「割れた事にして下さい」その目は優しく頼もしかった。菜月は肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
「1週間です。1週間を過ぎたら、私は警察官として対処します」
「分かりました」
もうひとつ、と竹村誠一は菜月を凝視した。
「なにか、危険な事があればすぐに私の携帯電話に連絡を」
「110番ではなく、竹村さんの携帯電話にですか?」
「出来る限り、私が湊さんとあなたを守りたい」
「私、を、守りたい」
一瞬の間が生じた。
「じゃ、じゃあっ!そう言う事で!」
「はい」
「短い髪も素敵です!」
「は、はぁ」
「では!失礼します!」
「はい、ありがとうございます」
顔を赤らめた竹村誠一は、何度も何度も菜月を振り返りながら、頭を下げ、綾野住宅株式会社の敷地から姿を消した。
(見た目は怖そうなのに、優しい人なのね)
そこで菜月は、事務所のメモ帳を思い出した。あれを賢治に見られてはならない、自分たちの行動を知られてはならないと、慌ててその一枚を捲り取った。ふとそこで、紙面に凹凸がある事に気付いた。
(なんだろ、これ)
それは興味本位だった。菜月はデスクから赤鉛筆を取り出すと、芯を寝かせて紙面を擦った。浮き上がったのは数字の羅列、8の字がダルマのように重なり、それが賢治の筆跡である事は確かだった。
(2018、20:00)
2018、それは年号でもなければ日付でもない。然し乍ら、その数字には20:00が続いていた。
(20:00・・・・)
菜月は何気なく、壁のホワイトボードを見上げた。
(水曜、木曜は定時退社なのね)
ところが、金曜日だけは違った。賢治が如月倫子と逢瀬を重ねる問題の金曜日は、夕方の会合が入っていた。
(商工会議所の会合は、16:00〜19:30)
賢治がニューグランドホテルの駐車場に入庫するのは決まって18:00だった。如月倫子との待ち合わせもその時間帯だと考えられた。ただ、今週の金曜日は予定が変更になってしまった。
(今週の金曜日は20:00に待ち合わせるのね)
菜月はそのメモをワンピースのポケットに仕舞うと綾野の家に駆け込み周囲を見回した。 ゆき たちは買い物に出掛けているらしく人の気配はなかった。菜月は座敷の奥の両親の部屋に忍び込み、押し入れから一眼レフカメラを取り出した。赤い電源ボタンを押したが軽い感触で、起動音はしなかった。
(バッテリーを充電しないと駄目ね)
菜月は、ずっしりと重いカメラバッグを肩に担ぐと、静かに襖を閉めた。