今日、朝早くからスマホに爆豪から電話があった。
何かあったときに困らないよう、担任とクラスの生徒はみんな連絡先を交換している。
爆豪からの電話は、たった一言。
「体調悪いから今日は休む」
どこがどう悪いのか、熱があるのかないのか、痛いところはあるのか。
そのような情報がないところが爆豪らしい。聞きたいことはたくさんあるし、担任として聞いておかなければいけないこともあるが、爆豪が最初から言ってこなかったということは聞いても答えてくれないということだろう。
「分かった、何かあったらすぐに連絡しろ」
それだけ言うと「ん」と短い返事が返ってきて電話は切れてしまった。
まあ、どうせ放課後には様子を見に行くから問題ないだろう、と思い俺はスマホをポケットにしまった。
そして今、放課後になり俺は爆豪の部屋に向かっていた。
少し前に送った「今から部屋に行く」「体調は大丈夫か」というメッセージには未だ既読が付かない。体調不良で欠席しているわけだし、寝ているのかもしれない。
爆豪の部屋の前に着き、ドアをノックした。
しかし、しばらく待っても開かないどころか少しもリアクションがない。
モヤモヤと漠然とした不安が広がる。寝ているだけかもしれない、寝ているだけかもしれないが、この胸騒ぎは何だろう。
俺は念のため持ってきていたスペアキーを取り出した。落ち着け、と自分に言い聞かせながら鍵を開ける。
ガチャリ、とドアが開いた。
▽
『病院に行きたくない』
その思いだけで今まで体調管理は徹底してきていた。
汗でシャツが張り付いて気持ち悪い。朝早くに先生に電話をしたとき既に起き上がるのが辛い程で、話すのもやっとだった。
もうすぐ先生が来る。
病院に行け、と言われたらどうしよう。
俺がこんなに病院に行きたがらなくなったのは、小学校低学年のときからだ。
あるとき俺は、熱が出て学校を休み、母親に連れられて家から少し離れた病院に行った。普段行っている病院は、確かその日たまたま休みだったのだと思う。
待合室で少し待ち、看護師に名前を呼ばれ母親と診察室に向かったとき「お母さんはここで待っていてください」と言われ、俺だけ診察室に入った。今思うと小学校低学年の子どもだけが診察室に呼ばれるのはおかしな話なのだが、俺も母親もそれに従った。
診察室に通され、椅子に座ったとき、看護師が扉の磨りガラスにカーテンを引いたときの漠然とした嫌な予感は今も覚えている。
医者は中年のおっさんだった。
「じゃあ、お腹ポンポンするよ」と言って服をまくられ、聴診器を当てられるのは分かっていたが、その際にやたらと脇腹や腰を撫でる手つきが気持ち悪かった。
熱で朦朧としていたからか、目の前の医者に本能的な恐怖を感じていたからか、早く母親の元に帰りたくて仕方なかった。
「次は喉診るからね、お口あーんして」
俺は医者の言葉に従って口を開いた。棒アイスの木の棒の部分の様な物を口に入れられる、と思っていたのに違った。医者は俺の口に自身の指を入れてきたのだ。
医者の太い指が口内のあちこちを無遠慮に触る。
俺は本当に危機感を覚え、のけぞろうとしたが医者に反対の手で後頭部を固定され動けなかった。
助けを求めようにも声が出ない。看護師も見ているだけで何もしてくれないし、抵抗したくても力の差がありすぎた。しかも熱があって力が入らないのだからなおさらだ。
そのうち、俺の口内をまさぐっていた指は、喉奥にまで侵入してきた。
喉奥をなで回すように触ったかと思うと、グッと喉奥を突いてきたのだ。
「え”…っ!」
反射的に舌が出て体が前のめりになる。俺がえづいても医者は手を止めないどころか、さらに激しく喉奥を指で突いてきた。
吐きそうになっても斜め上を向いているせいかなかなか吐くまでに至らないのが、余計につらくて仕方なかった。
それから何度もえづいて、恐怖と苦しさから涙が止まらなかった。
そして、今までより更に奥に指を突っ込まれたとき、俺はついに限界を迎えた。ゴボッと体から嫌な音が鳴る。
「~~っ、お゛ぇっ、…っ、」
ビシャッと胸元と膝の上に吐瀉物が落ちる。
何が起きたのか全く分からなかった。今、俺は何をされたんだろう。
ただ涙で霞む視界に自分の汚れた服が映っていて、医者の「あーあ、げぇしちゃったね」と心なしか楽しそうな声だけがやたらはっきりと聞こえた。
それから、看護師に呼ばれたのか母親が診察室に入ってきた。看護師からは俺が気分が悪くなって吐いた、と伝えられたようで医者や看護師に謝っていた。今思うと、看護師もグルだったのだろう。
俺はもう恐ろしくて恐ろしくて母親にしがみついて声も出さずに泣いていた。
喉奥にまだ指の感覚が残っていて、俺は母親に抱かれたまま何度もえづいていた。母親もさすがに俺の様子がおかしいと思ったのか「帰ろう、勝己」とすぐに病院を出た。
もうあの病院に行くことはなかったが、それから俺は病院に行くのが怖くて仕方なくなってしまった。
あの日、診察室でされたことを高校生になった今でも母親に言っていない。何度も母親にそれとなく聞かれていたが、あの日のことを口にするのも恐ろしくて言えなかった。
あれから、体調不良や怪我は何度もあったが母親も無理に病院に行かせることはなかった。
何度かどうにもならなくて病院に行ったが、俺が入り口で泣いて嫌がり過呼吸を起こすようになってからは本当に病院に行けなくなってしまった。
その度に母親は家でずっと隣にいてくれて、寝るまで頭を撫でてくれた。きっと聞きたいことはたくさんあったに違いないのに。
それからだ、俺が病院に行きたくない、いや恐ろしくて病院に行けなくなったのは。
ギュッとシーツを握る。
昔のことを思い出したからか、息が苦しい。
もう何年も前のことなのにまだこんな思いをしなければいけないのかと思うと腹が立って仕方なかった。
息が苦しい、少しずつ喉が狭くなっていくような感覚のせいで嫌でもあの感覚が蘇る。
苦しくて、気持ち悪くて、誰も助けてくれないし逃げることもできない恐怖。
「……っ、!」
突然襲ってきた吐き気にバッと口元を手で覆う。
喉の奥に指を差し込まれている感覚が生々しく蘇る。
は、は、と必死に息を吸いながら半身を起こした。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせるが、喉奥の異物感は増すばかりだ。
ビクビクと背中が跳ねる。ここで吐くのはまずい、と嫌に冷静に考えるが後頭部を押さえられているような感覚まで襲ってきて動けなかった。
__自分は何をされているのだろう、なんで看護師は見ているだけで何もしてくれないんだ、苦しい、怖い、誰か助けて
ドッと当時の感情が蘇り、もう俺の頭は恐怖で占められていた。
あのときのようにゴボッと嫌な音が鳴る。
「っ、げえぇ…っ、げほっ、おぇ、…、っ、ぅ゛、」
口の中に酸っぱい物が広がって、気付いたときにはベッドのシーツも手も服も吐瀉物で汚れていた。
それでもまだ喉奥の異物感はなくならない。
気持ち悪い、喉の奥の、なんとかしなきゃ、
頭の中で子どものように同じことを繰り返していると、ガチャッと部屋の扉が開く音がした。
▽
爆豪の部屋に入った途端、ニトロの匂いと生ぬるい空気が体を包んだ。
それと同時に饐えた匂いが鼻をつく。続けて微かに聞こえる水っぽい咳。
「爆豪!」
俺は急いで爆豪の部屋に足を踏み入れる。
そこには、ベッドの上で苦しそうにえづいている爆豪がいた。
「げほっ、ぇ゛、ごほっげほっ、」
ベッドには吐瀉物が広がっている。
吐いても吐き気が治まらないのか、胸元を握りしめてえづいていた。
「おい、大丈夫か」
「…っ、ふ、う、げほっ、」
爆豪がゆるりと顔を上げる。
米神には汗が伝い、触れた背中は燃えるように熱いのに顔は真っ青だった。
「…ぁ、せんせ、」
どうやら意識ははっきりしているようだ。
しかし、爆豪の体が熱すぎる。これは38度を軽く超えているだろう。
「少し待っていろ」
俺はえづくのが落ち着いてきた爆豪にそう言って、水を持ってくる。そして爆豪が吐かずに飲んだのを確認し、ベッドの上を軽く片づけた。
爆豪の部屋を少し漁り、着替えを持っていくと爆豪は「…自分でできる」と言って着替え始めた。
起き上がっているのがもう限界だったのか、爆豪は着替え終わった途端ベッドに横たわってしまった。
先ほどとは違い、熱のためか真っ赤な顔で横になる爆豪を見ながら「なんでこんなになるまで連絡しなかったんだ」と言いたくなるのをグッと堪える。今そんなことを言ったところで何か変わるわけでもない。
ただ、今の爆豪の状態はこのまま寝ていれば大丈夫、と言えるものではなかった。
「爆豪、病院行くぞ」
そう言った途端、薄くしか開いていなかった爆豪の目が大きく開かれた。
「っ、行かねぇ…っ」
「ここまで高熱で、しかも吐いてんじゃもう駄目だ」
「…寝てりゃ、治る、」
どうしてか、頑なに病院に行こうとしない爆豪に思わずハア、とため息をついてしまう。
「…あまり面倒をかけるな」
そう言うと、俺を見る爆豪の顔が凍り付いたように固まり、静かに「……いく」と呟いた。
俺はゆらゆらとなんとか起き上がった爆豪を支えて、袋やら診察券を準備し自分の車が停めてある駐車場へ向かった。
爆豪は道中、吐くこともなく異様なほど静かに車に揺られていた。
待合室でも、下を向いたまま言われたとおり熱を計り黙って座っている。
ここはヒーロー御用達の病院で、プロヒーローもお世話になるような病院のためプライバシーの面も考えられており他の人がいない待合室に案内された。爆豪にも病院に着く前にそう説明したため、少しは安心しているだろう。
「爆豪さん」
診察室から看護師が顔を出し、爆豪の名前を呼ぶ。しかし爆豪は椅子に座ったままピクリとも動かない。
何かあったのか、と「爆豪?」と声をかけるとようやく緩慢な動きで立ち上がり、診察室へと向かっていった。
爆豪が診察室に入ったのを見届け、ただの風邪ならいいが__と考えていたとき、突然診察室からボンッ!という爆発音と共に看護師の悲鳴が聞こえた。
___爆発音?
俺は考える前に診察室の扉を開けた。中は薄く煙で曇っていた。
驚いた顔の医師、今にも泣き出しそうな看護師の間に、自分を抱きしめるように二の腕を押さえている爆豪の姿があった。
爆豪は自分の二の腕をつかんだまま、手のひらからバチバチと火花を散らしている。やはり今の爆発音は爆豪のものだったのか。
俺はすぐに爆豪の個性を抹消した。
「怪我は」
と医師と看護師に聞くと、二人とも首を横に振った。
爆豪は自分の腕を掴んだまま爆破したのか、病院の備品が壊れているということも無かった。
「すいません、この子を別室に移動させてもいいですか」
何があったか分からない今、いつまた爆破を起こすか分からない爆豪をここに居させるのは危険だ。
医師はすぐに「どうぞ、こちらです」と別室の手配をしてくれた。ヒーローを診ることが多いからか、こんなことがあっても冷静でいてくれるのはかなりありがたい。
爆豪を移動させようとしたが、どうにも爆豪の様子がおかしい。異様な呼吸の速さだ。
「は、は、っ、げほっ、…ひゅっ、は、ぁ゛」
「爆豪、落ち着け」
爆豪の隣にしゃがむと、爆破をもろに受け止めた爆豪の腕から肉の焦げる嫌なにおいがした。血も滴っている。
背中を撫でながら持っていた袋を爆豪の口元にあてると、少しずつ乱れた呼吸が落ち着いてきた。
「立てるか?」
と聞くと、爆豪は小さく頷いた。
カタカタと小さく震え、目に涙を浮かべている爆豪を支えながら用意された別室まで歩く。
爆豪はその間も、血が滴る自分の腕を離すこと無かった。
▽
駄目だった。
もう大丈夫だと思っていたのに、駄目だった。
医者に「じゃあちょっと口を開けてください」と言われたら、あのときのことがフラッシュバックして俺の頭の中にはもう「怖い」という感情しかなかった。
ただ、あのときと違うのは俺の個性の威力があの頃よりも格段に上がっているということだった。
バチッ、と手のひらで火花が散ったとこまでは覚えている。
気付いたときは視界は煙に覆われていて、息ができなかった。
ただ、視界の端で俺の手から火花が散る度に二の腕が痛む感覚で誰も傷ついていないことがなんとなく分かり心の底から安心した。
しかし、先生に連れられて廊下を歩いているとき、なんてことをしてしまったんだ、という思いが湧き上がってきた。
害の無い人の前で個性を使ってしまった。これはヒーロー科の生徒として最悪のことなのではないか。
そう思うと、とても先生の顔なんて見ることができなかった。
病院に行く前に先生に話しておけばよかったのかもしれない。でも、「そんなことで」と思われるかもしれないと思うと言えなかった。
それに「面倒をかけるな」と言ってため息をついた先生の顔を見たとき、自分が迷惑をかけていると分かった。熱があるだけで迷惑なのに、病院に行きたくないなんて言ったらそれこそ面倒に違いない。
もうどうすればよかったのか、まるで分からなかった。
別室に連れられると、先生は「少し待っていろ」と言って部屋を出て行ってしまった。
きっと医者と看護師のところに謝りに行っているのだろう。どうしよう、俺のせいだ。もう雄英の生徒はこの病院を使ってはいけない、なんてことになったら、俺はどうすればいいんだろう。
考えれば考えるほど息がしづらくなってくる。
座っているはずなのに地面が揺れている気がして椅子から落ちてしまいそうだった。
苦しくて生理的な涙が浮かんだとき、ガチャッとドアの開く音がした。
▽
爆豪を別室につれてから、俺は医者の元に向かっていた。怪我が無かったとは言え、謝罪しないわけにはいかない。
__結果から言うと、医者も看護師も怒ってはいなかった。それどころか、爆豪の体調を心配し無理に診察室に連れてこなくても解熱剤くらいなら処方できる、とまで言ってくれた。
本当に頭が上がらないな、と思いながら、何度もお礼を言って念のため袋やタオル、爆豪の腕の手当をするための包帯などをもらって爆豪のいる部屋に戻ることにした。
「爆豪、体調は__」
と言いながら部屋の扉を開けると、椅子の上で前屈みになり荒い呼吸をしている爆豪が目に入った。
「どうした」
俺は慌てて爆豪の隣に座り、もらったタオルを口元に当てる。先程の過呼吸よりも酷い、相当苦しいだろう。
「は、は、…げほっ、ひ、……っ、ひゅ、」
「大丈夫」と背中を撫でていると、爆豪の背中がビクッと引きつったのが分かった。
「~~っ、う゛ぇ、っ」
爆豪の口元を抑えていたタオルが少し湿ったのを感じる。過呼吸になって吐き気がぶり返してしまったのだろう。
しかし、もう吐くものが残っていなかったのか少量の胃液を吐くだけで服や床が汚れることはなかった。
「…落ち着いたか」
少しずつ呼吸がゆっくりになり、ボロボロと生理的な涙を零している爆豪にそう聞くと、爆豪は小さく頷いてからクシャリ、と顔を歪ませた。
「…ごめ、な…さ…っ」
掠れた声で小さな子どものように謝る爆豪に一瞬声を失う。いつもの姿からは到底想像できないほど弱々しかった。
「医者も看護師も、怒っていなかったしお前の体調を心配していたよ」
努めて優しく言うと、爆豪は「でも…っ」と声を震わせた。
俺は爆豪の言葉を遮るように「あの場で誰にも怪我を負わせないように咄嗟に自分の腕を掴むというのはなかなかできることじゃない」と言った。
本心だった。あの場で爆豪がなぜ爆破したのか分からなかったが、パニック状態だったのは俺にも分かった。そこで自分の体を犠牲にして周りへの被害を最小限に留めるというのはプロヒーローでもできるか分からないことだ。
「腕、手当てするぞ」
俺はもらってきた消毒液と包帯を横に置き、爆豪の腕を見る。
まともに爆破をうけたせいで二の腕はボロボロだ。消毒していくと、今になって痛みが襲ってきたのか、ピクッと爆豪の体が小さく跳ねた。
「なあ、何があったんだ」
ずっと気になっていたことを聞くと、爆豪は一瞬俺の顔を見てすぐに下を向いてしまう。
「俺はお前が訳もなく個性を乱用するやつだとは思っていない、何かあったんだろう」
片方の腕に包帯を巻き終えた俺は、反対の腕を消毒していく。
すると、爆豪が小さな声でぽつぽつと話し始めた。
何度も息を詰まらせながら話した爆豪の話は信じられないものだった。
そんなことをするやつがいるだなんて、思ってもいなかった。
「…悪ぃ、『そんなこと』で…こんな……」
爆豪が下を向いたまま呟いた。
幼少期に植え付けられたトラウマは馬鹿にならない。
痛かっただろう、恐ろしかっただろう、何も抵抗できない子どもの時にそんな暴力まがいのことをされて。
それを『そんなこと』なんて言うな、と言いそうになったが爆豪に『そんなこと』と言わせてしまったのは俺だ。
病院に行くのをあんなに嫌がっていたのだから、ちゃんと聞いてやれば良かった。
俺が「面倒をかけるな」と言ったときの爆豪の顔が蘇る。そんなことを言われて絶望したに違いない。
あのとき爆豪が「病院に行く」と言ったのは、「諦め」だったのだ。本当に、酷いことをしてしまった。
この子は普段の言動からは想像もつかないほど繊細でため込みやすいということを分かっていたはずなのに。
助けを求めることを諦めさせ、誰にも言えなかったことを『そんなこと』と言わせ、謝らせてしまった。
隣で下を向いたまま体を震わしている爆豪を見る。
「爆豪、悪かった」
爆豪がバッと顔を上げて俺を見る。
「怖かっただろう」
「……べ、つに…っ」
「誰にも言えなくて、今日だって苦しかっただろう。俺が聞いてやるべきだったのに悪かった」
「………っ」
隣で再び涙を流し始めてしまった爆豪の頭をそっと撫でる。
今日だけで何度も爆豪の涙を見たが、この涙は苦しい涙ではないように、と思った。
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最高すぎました🫶💞🫶💞