「でも、心残りも有る。それはね、」
太宰は微笑み、茜差す空の方を見る。
其の目は虚ろで、後悔が滲んでいた。
「織田作、君が書く小説を読めないこと。」
_______今はそれだけが、少し悔しい。
敦の声が太宰の耳に聞こえる。
必死に止まれと呼びかける、悲痛な叫び。
芥川の視線が太宰の躰を刺す。
憎しみの無い、真意を読もうとする瞳。
そんな二人を後ろに、太宰は落ちていく。
揺蕩う様に。まるで世界を嘲笑うように。
ゆっくり、ゆっくりと。
友人を、仲間を。この景色を、この感情を。
この世界を、心の底から慈しむように。
ただ純粋に、この世界を_____愛する様に。
名残惜しく、鳶色の瞳を閉じて。
スローモーションの様に太宰は落ちる。
奈落の底。人間失格が人の理を外れ、落ちていく先は何処だろう。
地獄。奈落。蠱毒。孤独。
一人淋しく凍えるしか無い氷河の上かもしれない。
最も記憶に残っている思い出の場所かもしれない。
多くの時間浸っていた、「死」という概念なのかもしれない。
太宰は思う。
若し、こんな結末以外が、有り得たら。
自分も、また彼等と笑い合う事ができただろうか。
下らない時間を過ごして、朝まで呑んで、馬鹿みたいに巫山戯合って。
一度夢に見た光に、もう一度身を任せて。
在り来りな会話をして、温かい笑顔に触れて、楽しそうに笑って。
叶わない。絶対に叶わない。
そう判っていても、心の奥底にはそれを望む自分がいる。
遥か彼方、遠く未来を指差して。
その先に居る自分は、仲間が居て、友人が居て、相棒が居て。
そんな場所で、心の底から幸せそうに笑っている。
何度だって夢に見た。
朝も、夜も、春も、秋も。
たかが三千世界のうち一つ。
されど、数少ない望みが叶うたった一つ。
この世界は、太宰が死ぬことで最高のフィナーレを迎える。
ハッピーエンド。それが太宰の願いで、皆の願い。
色褪せた記憶。自らが殺した、温かい記憶。
ただ一つの願いを叶えるためだけに、なかったことにされた記憶。
この世界の破滅を願うように、其れ等は唄う。
囁くように、希望を唄う。
どの世界でも叶い得なかった、太宰の幸せを、願う。
たった一人。たった一人きりの願いだけが、必ず叶わない。
其の手で夢を掴む前に、届きかけた悲願が、自分から一歩後ろへと下がっていく。
何を選んでも。どの世界に行っても。何をしてでも。
ただ、太宰治の幸せだけが叶わなかった。
緩やかに朽ちてゆくこの世界で、最適解は最も辛い。
最も辛くて、苦しくて、息ができなくて、泣きそうになって、胸が締め付けられて。
それでいて、酷く、酷く。
如何しようもないくらいに、優しくて。
太宰は零れそうになった涙を抑え、ぎこちない笑顔で微笑む。
「………………………最期くらい、笑って、終わりたいじゃないか……」
嗚咽混じりの、掠れた声の願いは誰の耳にも届くこと無く。
静かに、静かに終わりを告げる。
…………………嗚呼、神様。
若し、ひとつだけ、願いを叶えてくれるのなら。
温もりを知ったこの手と、温もりを教えてくれたその手を。
______もう一度、優しい想い出の中で、繋がせて。
BEASTっていいよね