いつものリアムからは想像もつかない言動を取り、遠路遥々やって来た目的を擲って幼馴染の結婚式を執り行っている教会を飛び出した頃、午後の便で帰国するゴードンと、脳神経を専門にするドクター達の間では名前の通っている彼の友人達と、これが終われば休暇に入る慶一朗が飛行機の時間の関係でお茶を飲む暇も無いと言いながら立ち話をしていた。
学会が開かれていたコンベンションセンターのロビーは旧知の仲の人達が同じように言葉を交わしていて賑やかだで、ゴードンから友人を紹介してやると言われたこの二日間で何人もの著名なドクターらを紹介してもらったが、その友人たちは皆ゴードンと似たような考え方をしていて、一緒にいて気分は悪くならなかった。
今もそんな友人達と名残を惜しんでいるゴードンに付き合っていた慶一朗だったが、ロビーの向こうから歩いてくる同年代の男達に気付き、そちらへと意識を向ける。
談笑しながら歩いてくる男達だったが、一人がステッキを突いているためかその男の歩く速さに自然と歩調を合わせていて、そこからも仲の良さを感じ取ってしまう。
その三人が慶一朗の背後を通り過ぎたとき、今日はゲートルートで飯を食うつもりだったが貸し切りでダメらしい、残念だとブルネットの男が盛大なため息を吐く。
ゲートルートという固有名詞に聞き覚えがあった慶一朗は、意外な場所で名前を耳にした事に驚くが、有名なレストランだと聞かされた事も思いだし、今日の貸し切りは己の恋人の幼馴染みの披露宴だと内心苦笑する。
今頃式を終えて披露宴の会場でもある店に移動しているだろうかと思いつつ意識をゴードン達に戻すと、今回会えて良かったとゴードンの友人が手を差し出してくる。
それをしっかりと握り返してまた次の機会にと笑みを浮かべ、ゴードンには一足先に帰国して部長達によろしく伝えておいてくださいと笑みの質を変える。
「おう、お前がドイツでデートできると浮かれまくっていたと伝えておく」
ゴードンの言葉に流石に絶句した慶一朗だったが、ここまで来て己の本心を偽るつもりもないために事実だと肩を竦めると、何だ、面白くないと言いたげにゴードンが腕を組む。
「それはともかく、気をつけて。シドニーに帰ったらあいつと一緒にアポフィスに行きましょう」
その言葉とともに手を差し出すと、大きな手がしっかりと握り返してくれる。
「そうだな、今度は弟も一緒に行きたいから行くときは教えてくれ」
「もちろん。ルカが喜ぶ」
「ああ」
じゃあそろそろ駅に向かう、俺も一緒に行くと笑って手を上げたゴードン達に笑顔で手を振った慶一朗は、さて、仕事は終わりだ後は休暇だと伸びをするが、休暇を共に過ごしたい恋人にいつどのタイミングで同じ空の下にいる事を伝えようか思案しつつゴードン達が向かった駅とはまた違う駅に向かうのだった。
披露宴後にほろ酔いーもしくは酔っ払い状態で戻ってくると思っていたホテルに顔色も悪く戻ってきたリアムは、フロントのスタッフに大丈夫かと気遣われて我に返り、ありがとうと辛うじて礼を言う。
今回帰国した主な目的はエリアスの結婚式と披露宴の参列だったのに、それらを擲ってホテルに戻るなど、いつものリアムからは想像も出来ない事だった。
何故いつもと同じように出来ないのか、ホテルのキーを片手にエレベーターに乗りながら思案するが、自分自身でも制御できない感情の突沸があり、その火種がエリアスの父である事に気付くが、実はその感情は怒りよりも恐怖の裏返しだったのではないかと思い当たり、自嘲に唇を歪めてしまう。
この国を離れシドニーでの暮らす時間が遙かに長くなり、先程サシャが顔色を無くすほど体を鍛えていてもまだ怖いのかと自問すると、幼い頃に体の芯に染みこんだ恐怖は忘れられないと小さな声が返ってくる。
何のために体を鍛えてきたのか、今までの己の行動がすべて無駄になったように感じてしまい、ただただ情けなかった。
こんな気持ちになる為に自分は恋人と口論しその挙げ句、一人シドニーに残してドイツに来たのかと慶一朗の気持ちを思えばただ申し訳なくて、部屋のドアを開ける。
リアムが泊まるこのホテルは外観は昔ながらのドイツの建築物といった雰囲気だったが、
清潔感と木の温もりが不思議と調和している部屋ばかりだった。
部屋の内装は白を基調としているが、腰壁やベッドヘッドにはアンティーク調の木材が使われており、少し田舎の家を連想させる落ち着いた雰囲気があった。
その雰囲気に似つかわしく無い思いを抱えたまま戻ってきたリアムは、盛大に息を吐いて窓際にあるシングルベッドに飛び乗るが、スマホが着信音を鳴らし、画面を見て力なくベッドに落としてしまう。
電話を掛けてきたのは当然と言えば当然のエリアスで、それに応じずにいると気遣うようなメッセージが流れてくる。
それに大丈夫とも申し訳ないがお前の父親と一緒の場所にいられないとも言えずに腕で目元を覆ったリアムだったが、ベッドに座り込むと大きく深呼吸をし、なるべく体内に蓄積したくない嫌な感情を洗い流そうとバスルームのドアを開ける。
ドアを開けて自宅とは比べられない手狭な、だが居心地は良さそうなバスルームの鏡を見たリアムは、そこに映し出されているのが一瞬誰なのかを認知できない程険しい-どちらかと言えば危険な顔つきになっていることに気付き、その場に衣服を脱ぎ捨てると、少し熱めに設定したシャワーを頭から浴びる。
あのような顔でエリアスの父を見下ろしてしまったのか、フロントのスタッフに気遣われたのかと漸く怒りから解放されたような顔で苦く笑ったリアムは、一度目の前の壁に額をぶつけた後、反省しなければならないと口に出すことで己を戒める。
シャワーを浴びて少しだけ頭も冷えたようで、バスローブ姿で部屋に戻ると、ベッドの上でスマホの画面が着信だのメッセージの受信だのを教えてくれるように点滅していた。
着信を確かめるとすべてエリアスで、恋人とケンカをした時ももしかするとこのように立て続けに電話を掛けているのだろうかと想像すると少しおかしみを感じ、次いでメッセージを確かめるとそちらも同じようにエリアスが多かったが、珍しく慶一朗からのメッセージも届いていた。
今リアムがいる町ではランチタイムを終えた人達が仕事に戻ったり、学校に戻ったりする午後の時間に差し掛かっていたが、時差が8時間あるシドニーはすでに夜になっているはずだった。
週末以外ではいつもそろそろ寝る時間ではないかと、サイドテーブルの時計を見て首を傾げたリアムだったが、開いたメッセージにはその角度を深くさせるような写真が一枚、また一枚と送られてきていた。
シドニーの空に比べれば雲が近く感じる空の写真に始まり、雲の隙間から差し込む光の筋を映したもの、色づく街路樹とその下を歩く、周囲の大人の愛情を一身に受けているであろう子供が頬をバラ色に染めて街路樹を見上げるものが続き、これは一体何の謎かけだと眉を寄せてしまうが、次いで届いた写真を見た瞬間、スマホを落としそうな衝撃を受けてしまう。
リアムがいる部屋の外、距離があるために少し小さく見えるが、この街がテレビやネットなどで紹介されるときには必ず映し出される、玉ねぎに似た円蓋の双塔を持つ教会が見えていて、手元のスマホにも同じものが写っていた。
まさかと思いつつもテレビでこの町を紹介しているのかと、本能が察しているものとは真逆の事をメッセージで問いかければ、さあ、テレビなど見ていないから知らないと素っ気ない返事が届く。
そのメッセージと休んでいたカフェでのやりとりがリアムの脳内で混ざり合い、そこからただ一つの答えに辿り着くまでに時間を要することはなかった。
慶一朗がここに、この町の何処かにいる。
その事実はリアムの中から喪われかけていた何かを思い出させ、全身を巡る血液が一瞬で沸騰したかのような熱を覚えた為、バスローブを脱ぎ捨て、さっきまで着ていたジャケットではなく、すっかりと肌に馴染んでいるジーンズといつものものに比べれば少し厚手のシャツに着替える。
もし慶一朗がシドニーにいるのなら、リアムの目の前に広がっている光景と高低差があるだけでほぼ同じ景色の写真などどう考えても撮影できないだろう。
間違いなく慶一朗は今、この町というよりはここにいると確信し、スマホとホテルのキーを掴んで部屋を飛び出して到着の遅いエレベーターに苛立ちを隠せず待っているが、やって来た箱に飛び乗って早く動けとパネルを睨み付ける。
フロントのあるフロアに到着してドアが開くのも待っていられない焦燥感の中駆け出し、ホテルの自動ドアが開くのももどかしいと言いたげに外に出る。
先程の写真と同じ景色を探しに行こうと周囲を見回した時、スマホが着信音を鳴らし、忙しいときに誰だと手にしたそれを睨むが、相手を確かめると同時に耳に宛がう。
『ハロゥ、Herr Entschuldigung. そんなに慌てて何処へ行く?』
初めて出会ったとき、会うたびに失礼と繰り返したミスター、そんなに慌てて行く場所は何処だとくすくすと楽しそうに笑う声に問われて周囲を再度見回すと、ホテルのロビーのガラス窓の向こうでスマホを片手に、片手をひらひらと振る男の姿が見え、たった今出たばかりのドアを潜ってホテルへと戻ると、ゆったりと時間を過ごせそうな一人がけのソファで足を組む慶一朗を発見する。
「ケイ‼」
その声がロビー中に響き、何事だとフロントのスタッフや手続きをしていた宿泊客らが見守る前でソファ前に駆け寄ったリアムは、小さく両手を広げられてその意味を察すると、今朝胸に生まれた痛みだけではなく、ここに来るまでの間の出来事が一瞬で甦り、苦痛を堪えるような、それでも最上の幸せが目の前にあると言いたげな顔でその手の中に大きな身体ごと飛び込む。
二人きりになれる場所で無ければ気恥ずかしさからスキンシップを取ることの無い慶一朗が、自宅で無ければ見せない謝罪の合図を人目も憚らずに見せてくれた事がただ嬉しくて、周囲の温かだったり突き刺さるようなものだったり好悪に満ちた視線など意に介さずに慶一朗の柔らかな髪に口を寄せ、本当にここにいるのかと感情に揺れる声で囁けば、お前が今ハグをしている俺は幻か何かかと呆れたような笑い声が返ってくる。
「リアム、泣き虫王子様、部屋を取ってあるからそちらに移動しよう」
さすがにこの体勢でお前を受け止め続けているのは苦しいと背中を撫でられて我に返り、途端芽生えた気恥ずかしさに俯いてしまうとハニーブロンドの髪をそっと撫でられる。
「……うん」
「Gut. ほら、行くぞ」
俯いたままのリアムの背中をそっと押して立ち上がると、大きな手が荷物を奪い取ってしまう。
疲れてもいないし自分の荷物などたいした重量も無いと思いながらも、俯いたままの恋人の気持ちを僅かばかり感じ取った慶一朗は、周囲の視線が己の動きに合わせて着いてくることに気付いてそちらへと顔を向けると、今の己以上に幸福を感じている人間がいるのなら出てこいと言いたげな不敵な笑みを浮かべて手をひらひらと振り、誰かが乗ってくれるのを待っているエレベーターにまだ俯いたままのリアムと一緒に乗り込むのだった。
慶一朗が取った部屋はリアムの部屋の上の階で、このホテル全体で最も景色が良く見える角部屋だった。
ドアを開けて中に入ると細い廊下があり、その先にはまるで誰かの自宅リビングのような温もりを持つ木製のテーブルと座り心地のよさそうなソファがあり、少し離れた所に赤い布地の一人掛けのソファとオットマンが窓の手前に置かれていた。
リアムの部屋とはまた雰囲気が違うそこに入って安堵の息を吐いた慶一朗は、まだ俯いたままのリアムに気付くとどうしたと苦笑交じりに問いかけるが、さっきよりはやんわりとだが踏ん張らなければ支えられない力で抱きしめられ、背後のソファに移動するぞと囁いて大きな体を半ば引きずるように座り込む。
「どうした、何があった」
今頃本当なら披露宴で盛り上がっているはずだろうにどうしたと、顔を合わせようとしないリアムに溜息を吐いた後に問いかけると、漸くリアムが顔を上げて口を開くが、そこから流れ出すのはただの呼気で、苦しそうに口を開閉させた事に気付いた慶一朗が異変を察し、逆にハニーブロンドに両手を回して胸に抱え込む。
「無理に話すな。……エッグノッグを作ってくれるかな……」
リアムのその症状を慶一朗が目の当たりにしたのは一度や二度ではなく、精神的な衝撃を受けた時に発症すると今では理解しているため、無理に話をさせるつもりはなかった。
ただ、ここが自宅ならばこの症状を治める為の飲み物であるエッグノッグを作れるが、ホテルに到着したばかりだし頼めるかと危惧するものの、腕の中で微かに震えるリアムを思えば躊躇している暇などなかった。
ソファ横のテーブルに設置されている電話の受話器を取り上げ、応対してくれたスタッフにエッグノッグを作ってもらえないかと最大限丁寧な口調で問いかけてみると、少しお待ちくださいと同じく鄭重な言葉で待たされるが、すぐに別のスタッフの声が聞こえてきて、お部屋にお持ちいたしますと返してくれる。
「ああ、作ってくれるのか、ありがとう」
安堵の息を零しつつも、出来ればブランデーで作ってほしいとも注文し、受話器を置くと同時にハニーブロンドにキスをする。
「いつもと味は違うだろうが、それだけは許してくれ」
そして、届けられたそれを飲んだ後はお前の声が戻るまでここでこうしていよう、さっきはロビーで人目も多かったから我慢させて悪かったと囁きかけ、無言で頷くリアムの大きな、だが今は小さく見える背中をただ抱きしめ続けるのだった。
スタッフが程なくして持ってきてくれたエッグノッグを飲んだら少しは落ち着いたらしいリアムの様子に胸を撫で下ろした慶一朗だったが、ソファの対面にテレビがあることに気付き、物の試しにと電源を入れ、日中のテレビ番組は世界各国どこでもきっと自宅にいる人を対象にした話題を流すことが分かったと言いたくなるような番組ばかりでさほど興味を惹かれるものはなかったが、ドイツで人気があるらしい刑事ドラマを発見し二人並んで口を開くでもなく刑事たちが走り回るテレビを見ている。
だが、程なくして慶一朗が何かが違うと小さく叫んだあと、驚くリアムをその場に残してバスルームに向かうが、姿を見せた時にはバスローブ姿になっていた。
着替えたのかと問うように見上げてくるリアムの前、腰に両手を当ててこれが正式なスタイルだと慶一朗が胸を張り、その態度に呆気に取られたリアムだったが、こみ上げてくるおかしさを抑えられずに肩を小さく揺らしてしまう。
「――テレビを見るときの正式なスタイルにはもう一つ必要なものがある」
慶一朗が片目を閉じていたずらっ子の顔で呟く言葉の先をしっかりと読み取ったリアムが小さく頷き、一人掛けのソファや今腰を下ろしているソファに置かれているクッションを背もたれに立て掛けてそこにもたれかかると、良い子だと褒めるような顔で慶一朗がリアムの髪に口づけ、分厚い胸板に背中を預けてソファに横臥する。
二人が一緒に暮らす家に引っ越す前からの習慣のそれをここドイツでも当然のように行うが、ここに来るまでの口論やぎこちない時間を思い出すとどちらも離れがたくなり、リアムが慶一朗の手に手を重ね、慶一朗はもう一方の手を後ろに伸ばしてリアムの頭を抱き寄せる。
「まだ喉が辛いなら無理に話すな」
ただ、もう大丈夫だと思ったら教えてくれ、何が俺の優しい王子様を悲しませたんだと、テレビに顔を向けつつも優しい手が己の髪を撫でてくれる感触に目を閉じたリアムは、掠れた声でうんと返すと、久しぶりに何も遠慮することもなく抱きしめられた慶一朗の肩に顔を埋め、気持ちが体が落ち着くまでそのまま動かないのだった。
テーブルに投げ出したスマホには何件もの着信やメッセージが届いていたが、そのどれもを見る余裕などリアムにはなく、今はまたこうして己の腕の中に戻ってきてくれた慶一朗の温もりを感じ、昂っていた神経を鎮めるようにただ抱きしめ続ける。
そんなリアムの髪を、飽きることを知らない慶一朗がずっと撫で続けるのだった。
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