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新たな年が始まった以外世間的には大した変化はない一月の半ばの、真夏の雲がいつにも増して悠然と空を漂っている日の午後、シドニー湾から内陸へと30キロ近く進んだ地区に、ホームドクターから紹介された患者らの診察を請け負っている総合病院があった。
その病院はシドニー湾に流れ着く川の傍に建っていて、入院や通院患者らが病気やそれを根源とした不安や悩みから一時でも解放されるようにか、病院にしては大きな窓からは水面やその川縁の木々などが見えるようになっていた。
夏の雲を映しながら流れる川を病院の最上階にある一室から見下ろしていたのは、中肉中背で背筋もピンとしているが顔に影を落とした初老の女性で、背後のドアが開く音を聞いて見下ろしていた景色を室内のそれへと変化させる。
「お待たせしました・・・!」
走ってきたのかそれともそれを装っているのか、肩で息をしつつお待たせしましたと詫びてソファを勧めたのは、手入れがされた口髭が似合う威厳のある顔をした女性よりは年下の男性で、彼の手が示すソファの背を一つ撫でて腰を下ろした彼女は、何か飲みますかと問われて温かいハーブティーが欲しいと伝えると、広く磨かれているデスクに不似合いな電話に彼女と己の飲み物を注文した彼は、一つ深呼吸をした後、彼女と対面するようにソファに腰を下ろして膝の上で手を組む。
「お久しぶりです、ドクター・ホーキンス」
「お元気そうで良かったわ、ハリー」
部屋に駆け込んできた男、ハリーことハロルド・アーチボルドは、己の恩師であり今はこの病院から少し離れた場所で開業しているディアナ・ホーキンスに懐かしさと親愛さを込めた笑みを浮かべると、彼女も一つ頷いて懐かしいと笑みを深める。
「今あなたが院長なのね、ハリー」
「・・・はい。ジャックは部長として私を支えてくれています」
貴方の教え子の中でも色々な意味で問題児だった二人の青年は、今や立派な肩書を手に入れて日々奮闘していると笑うと、そのようねと学生時代には決して見ることのなかった穏やかな笑顔で誉められて赤面してしまう。
「今日は一体どうしたのですか?」
前もって来訪の連絡がなく突然だったので驚いたと両手を広げた彼は、確かに突然だったと非礼を詫びるホーキンスにゆっくりと首を左右に振り、来て頂くことに不満はありませんが不安になりますと素直に返事をすると、彼女が口に手を当てて小さく笑う。
「そうね、不安にさせたままではダメね」
教鞭を執っていた時、思春期を少し過ぎてもまだまだ少年時代を満喫している男子生徒相手に言葉遣いはいつも丁寧だが厳しすぎる口調で彼らを震え上がらせていたホーキンスが咳払いを一つした後、病院長としての貴方にお願いがありますと背筋をさらに伸ばすように姿勢を正し、元教え子であり今は包括的な協力体制を結んでいる病院長の顔を真正面から見つめる。
「この病院で優秀な若いドクターを、私の病院に派遣してくださらないかしら」
「・・・は!?」
ホーキンスの言葉が俄には信じられずにどう言うことだと目を丸くしたアーチボルドだったが、少し前に体調を崩してしまった時、もう一人若い医者がいれば安心して休むことができると気付いたのだと自嘲気味に呟く彼女にもう一度目を丸くした彼が求人広告を出さないのかと、当たり前の疑問を呈すると、当たり前ではない回答が即座に返ってくる。
「求人広告など信用できないわ」
信用できる人物からの紹介が欲しい、貴方なら良く私のことも知っているでしょうと、言葉は厳しいものが多いが言外に教えてくれるものが豊富だった元恩師の言葉に頭を抱えたアーチボルドだったが、ふと身体中の力が抜けたような息吐いたかと思うと、顔を上げてあ一つ肩を竦める。
「先生には今でも叶いません」
「あら、そうかしら?」
この病院で専門医だけに納まるのが惜しいドクターを一人紹介してと彼女が笑った時、ドアがノックされて先ほど注文した飲み物をスタッフが運んできてくれた事を伝えてくれる。
「どうぞ」
アーチボルドの言葉にドアが開いて失礼しますと笑ったのは、ついさっき名前を出したジャックこと、ジャック・テイラーで、二人が思わずトレイを手に満面の笑みを浮かべるテイラーを見つめる。
「ジャック?」
「久しぶりね、ジャック。元気そう」
「先生が来ていると聞いてね」
これをもってきた彼女から奪い取ったんだと笑ってコーヒーテーブルにハーブティーのカップとコーヒーカップを二つ並べて当たり前の顔でアーチボルドの横に腰を下ろしたテイラーに僕も同席しても良いだろうと、断られることなど考えもしない顔で二人を見ると、異口同音に仕方がないと笑われる。
「まあいい。ああ、そうだ、ジャック、今うちで働いているドクター達の中で一番優秀と言えば誰だ?」
旧友であり今は病院で日々起こる出来事に一緒に立ち向かってくれる仲間でもあるテイラーに半ば体を向けて問いかけると、アーチボルドの疑問に友人の顔が微かに傾く。
「一番優秀? そうだな・・・ドクター・ユズは僕の部下だからではないけれど優秀だね」
「ああ、彼は文句のつけようがないほど優秀だよ」
でも今私が探している優秀の条件には当てはまらないと苦笑され、何を言いたいのかを探るようにアーチボルドとホーキンスの顔を交互に見たテイラーに彼女が苦笑しつつカップを手に取る。
「優秀な若い医師を一人、私の病院に派遣して欲しいの」
ハーブティーの立ち上る香りを鼻で感じ、その味を一口飲んで舌で味わった後の言葉にテイラーが目を丸くし、アーチボルドと同じ疑問を口にするが、ハリーから同じ言葉を聞いた、貴方からは違う言葉を聞きたいと笑われて言葉に窮してしまう。
「違う言葉と言っても今初めて聞いたんだから仕方がないと思うなぁ」
先生は本当に手厳しいと笑いながら天井を見上げたテイラーの脳裏に一人のドクターの顔が浮かび、その顔に今では当然のように連想されるもう一人の端正な顔を思い出すと深々と溜息を吐く。
「ホームドクターとしての勤務ですよね」
「ええ」
この病院はホームドクターで受診をしたものの結論が出せなかったり、もっと精密検査を受けた方がいいと判断された患者が訪れる場所だったが、その判断をする医者になれる優秀なドクターと考えれば人選がかなり厳しくなるし、専門医からホームドクターという同じドクターでも少し違う立場になった時、素直にそれを受け入れてくれる人となれば、はっきり言って限定されてくるだろう。
そんな無理難題を押し付けてくる元恩師の心を少しでも知りたくて彼女の顔を真正面から見つめたテイラーは、何かあったのですかと根元に触れる疑問を口にするが、さっきも言ったとにべもなく言い放たれて再度言葉を飲んでしまう。
「それはハリーに対してでしょう? 僕は今初めて聞きますよ」
だから教えてくれてもいいじゃないかと、素直さと反抗心を絶妙に混ぜ込んで笑みを浮かべるテイラーにそれもそうかとホーキンスが苦笑し、カップをソーサーに戻すと咳払いをして二人の元教え子を見つめる。
その彼女の姿勢に自然と背筋を伸ばした二人だったが、彼女から聞かされた言葉に三度言葉を無くしてしまうのだった。
て頷くしかできなかったアーチボルドだったが、相談に乗ってくれと素直に友人を頼ると、もちろんと期待を裏切らない言葉が返ってくる。
「持つべきものは友人だな」
「そうだな」
病院の敷地内から出て駅へと歩く姿から病気の予兆も影響も感じられなかったが、彼女がそんな嘘をつくはずもなく、いつかはやってくると分かっていても何もすぐ先の未来だとは思わなかった別れをほぼ同時に想像し、溜息を吐いて院長室へと二人で戻る。
「優秀なドクターか」
「ああ・・・ホームドクターはそれなりにオールラウンダーだからなぁ」
ここのように己の専門とその周辺だけに特化する治療や診察ではない、ごく一般的な風邪から緊急を要する感染症などにも対応しなければならなかった。
そうなった際、専門的な知見よりも広く物事を見渡せるドクターの方が優秀だろうとアーチボルドが呟きつつデスクに尻を乗せると、テイラーがソファに座りながら優秀というよりは必要とされるドクターだと返す。
「適材適所だね」
「・・・誰が良いと思う」
今ここの病院は幸い人手不足ではないが、皆それぞれ抜けられると痛いと天井を見上げるアーチボルドの耳に届いたのは意外と言えば意外な名前だった。
「ドクター・フーバーはどうだろう」
「フーバー? 彼は小児科でも最近評判になっていて患者も増えてきているじゃないか」
特に入院患者やその家族からの評判がいいのにと、意外そうに友人の顔を見つめたアーチボルドは、評判が良くて腕も良い、そして何よりも患者からの信頼が厚い、それは得難い素質だし才能だと頷くテイラーの真意を聞くためにソファへと移動すると、ホーキンス先生の後継者として相応しいと思うと、顔の前で両手を重ねて目を閉じられる。
「・・・後継者」
「ああ。先生が最終的にどこまで考えているのかは分からない」
でも、もしかするとと考えているかもしれないだろうと、開業医として小さいながらも病院を運営してきた人たちならば必ず考える事を口にすると、アーチボルドも確かにそれは理解できると頷く。
「でも何故フーバーを?」
得難い素質を持っていると判断したのなら病院に残しておいた方が得策ではないかと、ホーキンスの将来と自らが院長を務める病院の将来を天秤にかけた言葉を口にすると、テイラーが肩を竦めた後、オールラウンダーだからだとソファの背もたれに片腕を回して足を組む。
「彼は小児科医として勤務しているけれど、基本的にはオールラウンダーだと思う」
先日のスクールバスの事故の際の動き、その前の入院患者への薬物投与に関する際の対応などを見ていると、小児科医として限定するよりもホームドクターとして地域の信頼のおける医者という方が相応しいのではないかと続け、アーチボルドの目を丸くさせる。
「・・・確かにそうだな」
「他に医者がいないわけではないし辞めさせたいのも何人かいるけど、そんな危なっかしいドクターを先生のクリニックに派遣させるわけにはいかないだろう?」
俺たちを信頼していると明言するぐらいなのだ、派遣された医者が彼女の眼鏡に敵わなければ即座に突き返されてしまうだろう、そうなればそのドクターの立場が無くなると病院の人事にまで考えを及ばせたテイラーの言葉にアーチボルドが頷き、その通りだなと溜息混じりに同意を言葉として表す。
「問題は、彼が素直に引き受けてくれるか、だな」
派遣が気に食わないからと条件面で難癖をつけてくるかもしれないとあり得る想像を口にしたアーチボルドが頭痛を堪えるような顔になるが、テイラーはそれに関しては心配していなかった。
己が提案したように彼、フーバーは非常に優秀だった。ただ惜しむらくは、その優秀さがこの病院では目に見えて発揮できる機会が少なかった。
小児科から内科や外科全般に渡って患者に寄り添い、不安を解消しつつ治療に向けた方針を丁寧に説明できる、そんな医者など本当に希少な存在で、そういう医者がホームドクターである患者達は安心して病気へと向き合えるだろう。
絵に描いた理想のような医者など存在しないことは長年医者としてやってきたテイラーも良く知っていた。
だが、だからこそ、その片鱗を感じさせる彼に出向いて欲しかったのだ。
「大丈夫だ。彼なら快く行ってくれるよ」
ただし、問題は彼というよりも彼の最も身近な一人のドクターだと内心でひっそりと呟いたテイラーにアーチボルドが説明をするのが気が重いと溜息を吐き、その気の重さを己も感じていると肩を竦めてお前だけじゃないと告げると、何がだと言いたげに見つめられてもう一度今度は無言で肩を竦めるのだった。
午前の診察を終え、病院内のカフェにスタッフらが三々五々向かう中、一件のオペを午前中に終えて午後のもう一件のそれに備えているにしては飄々としている様子で注文の列に並んでいるドクター・ユズこと杠慶一朗がいた。
この病院で彼が勤務するようになってから数年が経過するが、このカフェを利用するようになったのは昨年からで、当初は物珍しさにカフェのスタッフや同僚達が揶揄っていたが、それに対しても本心をなかなか読み取らせない不思議な笑みを浮かべた彼が上手く交わしていた。
そんな様子が今日もカフェの中で繰り広げられていたが、軍人に代表される肉体労働専門の人間かと見紛うばかりの肉体をポロシャツに包み、爽やかな笑顔を浮かべてある事件をきっかけに親しくなった事務の似たような体格の友人とやってくる恋人を発見し、無意識に笑みを浮かべてしまう。
体を鍛えることが趣味の彼、リアム・フーバーという存在がこの世に生きていることを知ってからそろそろ一年が経過するが、付き合いだしてからいくつかの事件を経た今、存在がなかった頃の事を思い出せないほど彼との時間は密度の濃いものになっていた。
だが、職場で己のプライベートをあまり晒すことが好きではない慶一朗は、同性と付き合っているという事実も含めたその他の理由からリアムとの付き合いを公表しておらず、二人の関係を知っているのは直属の上司であるテイラーなど数少ない人間だけだった。
その彼らも滅多な事では部下のプライバシーを開陳するような人間ではない為、二人の付き合いは今でも秘密を保たれていた。
そんな秘密の恋人がやって来たことに気づき、ものの試しとばかりにじっと見つめると、その視線に気付いたのかリアムが顔をこちらに向け、小さく口の端を持ち上げる。
ただそれだけで良くて、今週のおすすめを注文していつも座っているテラス席へと向かうと、程なくしてリアムも同じようにトレイを片手にやってくる。
「お疲れ、ケイ」
「ああ」
お前もお疲れ様と口の中でだけ返した慶一朗は、同じものを買って来た筈なのに何故か恋人の手元の料理の方が美味く見えると訳の分からない事を呟いたかと思うと、付け合わせのポテトを素早く摘んで口に放り込む。
「同じものがあるのにそれを取っていく理由を教えてくれないか、ドクター・ユズ?」
「さあ、どうしてだろうな」
リアムの心底不思議そうな声にニヤリと笑った慶一朗だったが、己が苦手とする野菜をお礼とばかりにリアムのトレイに押しやる。
「・・・ダンケ、野菜嫌いの偏食家のドクター」
「どういたしまして」
お礼なら食後のコーヒーはあまり美味くないから家に戻ってからのビールで良いと笑うと、リアムが無音で吠える。
それがおかしくて手の甲で口元を覆った慶一朗の前、リアムもいつまでも不機嫌な顔のままでいられるはずもなく、溜息でその気持ちを吐き出して食べ始める。
「ああ、そういえば午後一番に院長に呼び出された」
「・・・は?」
小児科の責任者であるマーティン部長と一緒に院長室に来いと伝言があったが何だろうと首を傾げつつリアムが呟くと、今まで楽しそうに食べていた慶一朗が手を止めてまじまじと目の前の愛嬌のある顔を見つめる。
「何かしたのか?」
「俺も一瞬考えた」
でも思い当たる節が全くないと肩を竦め、何かわからないことで悩むのもバカらしいので話を聞いてくる、命を取られたりクビになったりする訳じゃないだろうと笑うものの、慶一朗の胸の中に何か言葉では表せないものが静かに頭を擡げたような気持ちの悪い感触が芽生える。
「・・・すぐに教えてくれ」
「ああ、そうする」
そんなに心配することでもないだろうと慶一朗よりは楽天的な性格のリアムが苦笑し、ただでなくてもあまり美味いと思わないランチがさらに味を無くすような話題は止めておこうと告げて慶一朗の手が止まっている事を教えると、確かにそうだと同じ顔で肩を竦めた慶一朗が食べる事を再開するのだった。
だが、この時の二人の胸には口に出さないが同じ靄のようなものが掛かっていたが、どちらもそれを口に出さないのだった。
とある事件以降一気に上司や同僚や他のスタッフらの信頼を得、以前のような皮肉も言われる事がなくなったリアムは、上司であるマーティンと一緒に院長室に入り、ソファを勧められて二人並んで腰を下ろす。
「お話とは何でしょうか、院長」
己の直属の上司であり部長という肩書きを外せばあれはただの小心者だという評判を以前こっそりと聞かされていたリアムは、己の隣で実は密かに緊張しているだろう上司に気付きつつ素知らぬふりで院長を見る。
「ああ、少し相談なんだが・・・」
口髭を触りながら切り出しにくそうに呟くアーチボルドの様子に二人が顔を見合わせてどうしましたかと再度マーティンが問いかけて漸く開かれた思い口から流れ出したのは、リアムにとある病院−規模はどちらかといえば小さなクリニック−に派遣医師として出向いて欲しいという俄には信じられない言葉だった。
「・・・それは、短期間という事であれば問題はないかと」
本当は一週間の派遣でも大きな問題があると言いたいのを言い出せない顔で、病院長の言葉に極力逆らわないように返したマーティンの横でリアムは胸に巣食っていた靄が一気に晴れたような気持ちになっていた。
ランチの時に慶一朗と話した時靄のようなものが胸に広がったが、あれはあまり良くない話が来るという予感だったのかと内心苦笑した時、どうだろうかと二人の上司に見つめられていることに気付いて咳払いをする。
「その派遣期間はいつ迄ですか?」
派遣される張本人からの疑問にアーチボルドがすぐに返事をするかと思ったがなかなか言葉は出てこず、ただ何かを躊躇っているように口髭を撫で続けていて、それから何かを察したリアムが足の上でぎゅっと手を握りしめる。
ランチタイムに慶一朗と命を取られたりクビになるようなことはないと楽観的に笑っていたが、どうやらそれに近しい現実が近付いて来ているようだと察してしまい、さすがに手に力を込めてしまう。
「・・・院長、まさか・・・」
リアムを、優秀な私の部下をクリニックのような小さな病院に期限を定めずに派遣させるつもりなのかと、マーティンが蝋のように白い顔でテーブルに少々荒く手をついて身を乗り出してしまう。
「・・・今日、とても恩のある方から、この病院で優秀な若手のドクターを一人派遣してほしいと申し出があった」
その方が働くクリニックとは包括的な協力体制を結んでいるので派遣することにやぶさかではないが人選に悩んでいたと真剣に悩んだ結果だとわかるような顔で見つめられ、マーティンがソファに力なく座ってしまい、その隣ではリアムが少し考え込むように視線を床の絨毯へと向けていた。
「・・・派遣されている間、私の待遇はどうなるのですか?」
クリニックでホームドクターとして働けというのならば働くが、その間の賃金や労働条件はどうなると、まだ確定したわけではないが例えばの話で教えてくれと、足の間で手を組み替えて極力穏やかな声で問いかけたリアムにアーチボルドが一つ頷き、もちろん君の不利なことにはならない、クビではないし懲戒処分でもないのだからと断言し、世話になった方を是非助けてほしいんだと、まるで最後の綱がお前だと言わんばかりにリアムを見つめる。
その視線に負けたわけではないが隣で蒼白を通り越した真っ白な顔で小刻みに震えながら己の感情を堪えているマーティンを見たリアムは、その顔を見ただけで十分という満足感を不意に得てしまう。
まだ働きだして一年足らずで漸く馴染み始めたリアムだったが、確かに他のドクターに比べれば勤務経験が少なく、担当している患者の数もまだ少なかった。
だから自分が他の病院へと派遣されたとしても大した損害にはならないという計算が上層部の間で働いたのだろうとやけに冷静に分析してしまう。
前に働いていたシドニー市内の病院では理事長の椅子を巡る戦いに知らず知らずのうちに巻き込まれ、しかも巻き込んだ相手はその選挙に負けて冷や飯を食わされる立場になってしまったため、リアムも自動的にその立場へと追いやられていた。
大きな病院で人間関係に巻き込まれた時の煩わしさを思い出し、ここではまだそこまで深入りしていなかったと気付いたリアムの口元に小さな笑みが浮かぶ。
その笑みの理由が分からずにどうしたのかねと問いかけたアーチボルドは、いえ、自分達ドクターをビリヤードの玉のように弾いた結果、弾き飛ばされたのが自分だという事ですよねと、いつものリアムには似つかわしくない皮肉気な声で呟き肩を竦めると、意外と強い声がそうではないと否定した為、ヘイゼルの双眸を見開いてしまう。
「そうではない。────きみに出向いてほしいクリニックの院長は本当に優秀な医者を欲しがっている」
その優秀さは専門に特化したものというよりは、広く様々な病気を抱えやってくる患者に誠実に向き合い、その時々に必要な治療方法を提示できる、当たり前を当たり前に出来る優秀さだと強い口調で言われてさすがにリアムもそれに対しては皮肉も素直な意見も何も言えなかった。
「マーティン部長も言ったように、きみに抜けられるのは本当に手痛い。だが、彼女が求める医者として一番相応しいのはきみなのだ」
だから彼女のクリニックで彼女を助けてくれないかと懇願するように訴えられ、少し血色を戻したマーティンと再度顔を見合わせたリアムは、肺の中を空にするような息を吐き、短く切ったハニーブロンドの髪に手をあてがう。
「・・・俺は、この病院の役立たずだから派遣される訳ではないんですね」
「もちろんだ。きみより役に立たないドクターは何人もいる。そんな役立たずを派遣してみろ、数日のうちに送り返されてくる」
彼女は何しろ優秀な医者で、自分が優秀だから他の医者にも優秀さを求めるのだ、そんな彼女の元にいい加減な人を送り込むことはできないとゆっくりと首を左右に振ったアーチボルドの前、マーティンがそういうことならばと言いたいが部下の気持ちを思えば素直に言葉に出せないと、今度は顔を青くしながら二人の顔を交互に見つめ、その横ではリアムが腿の上でぎゅっと手を握りしめたかと思うと、二人が呆気に取られるような突き抜けた笑みを浮かべて大きく頷く。
「そういうことでしたら・・・いつからそのクリニックに勤務すれば良いですか?」
勤務条件等の最終的なことももちろん教えてもらいたいが、役に立たないから追い出される訳ではない事を知れただけでも良かったと、アーチボルドやマーティンの気持ちを救うような笑顔で頷く。
「行ってくれるのか・・・!」
「はい。・・・正直、ここでもっと働きたい気持ちもありますけど、クリニックの勤務も初めての事なので経験してみたい気持ちもあります」
「ありがとう・・・本当にありがとう・・・!」
リアムの言葉にアーチボルドが身を乗り出してリアムの手を掴んだかと思うと、ぶんぶんと上下に何度も振って感謝の思いを伝え、その横ではマーティンが本当に良いのかと、彼なりの最大限の抵抗の言葉をそっと口にする。
「はい。────俺の席は残しておいてくれるんですよね、院長」
「もちろんだ。給与についてもあちらの事務方と協議して君の不利にならないようにする」
本当にありがとうと何度目かの礼の後手を離して少し照れたようにソファに座り直したアーチボルドにリアムが頷き、待遇面も悪くないのであれば俺に異論はありませんと伝え、マーティンへと向き直って軽く一礼する。
「部長、短い間でしたが世話になりました」
「リアム・・・!」
「協力しているクリニックという事なら患者の情報の共有等もあるでしょうし、またこちらにやってくることもあると思いますが、その時はよろしくお願いします」
クリニックに派遣というが良くあるオフィスワーカーの転勤のようなものだろうと、上司を安心させるように笑顔で頷いたリアムは、いつからの勤務になるのかと問いかけ、詳しい話は事務長のカーターからさせるとアーチボルドに教えられ、よろしくと頭を下げ、この後患者の診察があるのでそろそろ失礼しても良いかと二人の顔を交互に見つめて同時に頷かれてありがとうございますと礼を言いながら立ち上がる。
「失礼します」
爽やかな笑顔と礼儀正しい言葉を残して大きな体をドアの向こうへと消したリアムを室内から見送ったアーチボルドとマーティンだったが、二人の口からはしばらくの間言葉らしい言葉は流れ出すことはなく、ただやるせなさや安堵が滲んだ溜息だけが毛足の長い絨毯の上を転がっていくのだった。
院長室から小児科の患者らが入院しているフロアに向かう廊下へと向かうために階段を降り、ふと何気なく廊下の窓へと目を向ける。
夏の雲が悠然と流れ、まるでお前の身に降りかかる予想だにしない出来事など知らないと言いたげに形を変えて空の上を漂っていく。
その雲の悠然さを見上げていると、自分が役立たずだの人の役に立つなどといった事が本当に些細なことに思えてきてしまい、窓に手をついて水面と空の双方を視界に収めるように軽く目を伏せる。
さっき院長のアーチボルドが告げた、リアムが抜ければ手痛いという言葉はきっと本当に事だろう。
上司のマーティンの顔色の悪さもきっと本当のことだろうが、上司二人の顔色などどうでも良いと思える、リアムにとっては誰よりも大切な人の顔が脳裏に浮かび、思わず握ってしまった拳を窓に軽く叩きつけてしまう。
クリニックに出向になれば、今までのようにランチタイムで一緒に食事をすることも出来なくなり、恋人が仕事で経験した不愉快な出来事を間近で確認することも出来なくなってしまう。
その不安が不意に強く芽生えるものの、窓に押しつけた拳をぎゅっと握り締め、大丈夫だ、ケイは俺よりもここでは信頼されているし今までのようにやっていくだけだと己に言い聞かせる。
「・・・大丈夫だ」
待遇面でも悪いようにしないと約束してくれたから大丈夫と、恋人がこの先ここで働くことへの不安と己の未来を安心させるように何度も大丈夫と呟いたリアムは、顔の前の窓を少し息で曇らせた後、大丈夫と口に出して呟き、気分を切り替えるように顔を上げて一つ伸びをし、小児科病棟へと向かう廊下を進んでいくのだった。
その背中からはリアムが受けた衝撃を感じ取ることは出来ないのだった。