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「左衛門佐はまだ自室に籠りきりなのか」


昌幸は痰がからんだ声で枕頭にいる信繁の妻、春に問うた。


「はい、相変わらず・・・・」


春は沈鬱な表情で答えた。

一年程前から、信繁は畑にも出ず、家族にも顔を見せず自室に籠って書物を読むことと書き物に没頭しているらしい。


「何をやっておるのだ、あの愚か者めが・・・・」


江戸と大坂の間に立ち込める暗雲は日に日にその濃さを増している。

だが最終的に決裂し、戦となるのはあと三年以上は日を要するだろう。どうやら、その時まで己が生きていることはかないそうにない。

ならば後継者たる信繁に対徳川の策を伝授しなければならないというのに、その信繁は決戦に備えて己の筋骨を鍛えることを怠り、それどころか姿すら見せようとしない。


(もしや左衛門佐の奴、徳川と戦う気が失せたか)


昌幸は思った。


(まあ、それも無理からぬことかも知れん。大坂方が勝つ見込みはもはや万に一つも無い。例えこのわしが総大将として采配を振るったとしても、今度ばかりはどうにもならんだろう)


己の軍略に絶対の自信を持つ昌幸といえども、今度ばかりはそう悲観的にならざるをえなかった。

家康、及び三河武士を侮蔑し、見下していた昌幸を瞠目させたのは、第二代征夷代将軍の座に就いた徳川秀忠の存在であった。

かつては上田城の戦にて昌幸に翻弄されたあげく関ケ原に遅参し、全くの戦下手として天下から嘲笑された秀忠であったが、政治家としては傑出した手腕を有していた。

発足間もない江戸幕府の統治機構を瞬く間に整え、揺るぎないものにしたのは、秀忠の功績と言っていい。

のみならず、老いて気が弱くなったらしい父、家康に代わって豊臣家を完全に滅ぼすべく、豊臣恩顧の諸大名に様々な圧力をかけているらしい。

いざ、戦となっても大坂方に駆け付ける大名家は、もはや存在しないのではないか。

駆け付けるのは昌幸同様、関ケ原で所領を没収され、徳川に恨みを持つ牢人ぐらいのものだろう。

関ケ原の時のように、両軍の戦力が拮抗するような状況は望むべくもない。

おそらく徳川は日の本全ての諸大名家に号令をかけ、空前の大兵力をもって大坂方を殲滅すべく一気呵成に攻めかかるだろう。

対する大坂方は関ケ原以来、失意の日々を送り続けてきたやせ牢人の軍団である。勝負になどなろうはずがない。


(流石にこのどうにもならぬ状況と、九度山での安寧の日々が、左衛門佐の戦への狂気を鎮めおったか)


失望と同時に安堵の気持ちが生じた昌幸は、疲れを感じてしばし眠った。


二刻程眠っただろうか。枕頭に人の気配を感じた。信繁の妻、春であろうかと思ったが、どうも違うようである。


「お目覚めですか、父上」


「左衛門佐か・・・・?」


目を開けた昌幸の側に座しているのは、以前とは変わり果てた姿の左衛門佐信繁であった。

自室に引きこもる前の信繁は、四十歳を超えたとは到底思えぬ程若々しく、青年の頃と変わらぬ颯爽とした容貌を誇っていた。

ところが、今昌幸の目に映る信繁の髪は白いものが多く混ざり、骨と皮ばかりに痩せこけていた。


「どうしたというのだ、その姿は・・・・。すっかり老け込みおって・・・・」


「ああ、髪がすっかり、ご覧の有様で・・・・」


信繁は己の白髪を指で弄びながら苦笑を浮かべた。


「この一年、あまり眠らず、寸暇を惜しみ心魂を傾けて考えに考えておりましたからな」


「考えた?何をじゃ」


「無論、徳川を打ち破る方策に決まっておりましょう」


昌幸は震えた。すっかり老け込み、衰えたようにしか見えない信繁の全身から凄まじい闘気と烈気が発せられていたのである。


「これをご覧ください」


信繁は分厚い紙束を昌幸に差し出した。


「これは・・・・」


そこには徳川が大坂方といざ開戦した際、とる可能性がある戦略、戦術の予測が数十通りにわたって列挙されていた。昌幸もここまでは既に考えていたが、あまりの戦力差の為にそれらを覆す対応策はどうしても思いつかなかった。

しかし、この紙束には徳川がどのように攻めて来てもこれを撃破する大胆にして周到な策が詳細に書かれていたのである。

まさに神算鬼謀と言うしかない。


「左衛門佐・・・・」


昌幸は信繁の痩せ衰えた顔貌を見つめながら呆然とつぶやいた。


「わしはお前を見誤っておった。お前は武の天稟はあるが、所詮それは侍大将程度の武勇。わしが手綱を引くことで初めて発揮される才でしかないと思っておった。しかしお前の才は完全にわしを超えておる。いや、元亀、天正の頃にもお前に匹敵する者はおらんかっただろう・・・・」


「そうですか」


信繁は笑った。その笑顔は青年の頃のように若々しかった。


「これで家康の首が獲れよう。わしに代わっておまえがやるのだ」


昌幸がそう言うと、信繁は笑顔を収め、黙り込んだ。

先程まで信繁から発せられていた闘気や烈気までもが日の光に照らされた朝靄のように霧消した。


「どうした左衛門佐?」


「ふと思ったのですが・・・・」


信繁は首を傾げながらぽつりと言った。


「今さら家康を討ったところで、何か意味はあるのでしょうか?」


「な、何を言っておる」


昌幸は愕然となった。


「家康めを討つことは我ら真田家の悲願ではないか」


「真田家ではなく、父上御一人の悲願でしょう」


信繁は素っ気無く言った。


「確かに私は海道一の弓取りである家康と全てを尽くして面白き戦をしてみたいと思っていますが、別に家康その人に恨みは無いし、憎くもありません」


「・・・・」


昌幸は言葉を失い、ただ信繁の白い痩せた顔を見つめるしかない。


「それに、家康を討ったところでもはや徳川幕府は崩れますまい。大坂方の敗北、豊臣家の滅亡はどうあっても避けられぬのではないですか」


「むう・・・・」


「まあ、豊臣家が滅びようが滅びまいが、私はどうだってよいのです」


信繁はそう言って視線を庭に移した。すでに日は落ち、夕闇の中蛍が青白い光芒を描きながら宙空を舞っている。


「家康が死のうが死ぬまいが、さして興味もありませぬ。しかし、我が兄は、伊豆守兄上はどうなりましょう」


「・・・・」


無論、昌幸は関ケ原のおり徳川家に付き、真田家の当主となった我が嫡男のことを忘れた日は一日たりとも無い。


「いざ大坂と戦になった時、兄上が出陣するかはわかりません。しかし、もし私が家康の首を上げたら、兄上はどうするでしょう」


「・・・・」


「私を討ちに来ますかな。いやきっと責任を感じ、また家康に殉じる為に腹を切るでしょう。それが兄上の御気性ではありませんか」


「・・・・そうかも知れんな」


昌幸は認めた。ずっと目をそらし、考えぬようにしてきたが、認めざるをえなかった。


「私は何故、兄上がそこまで家康に忠義を尽くそうとするのかさっぱりわかりません。兄上は家康こそが太平の世を築くかけがえのない人物だと信じているようですが、戦の無い太平の世など下らぬものとしか私は思えません」


昌幸は信繁の言葉を聞きながら、庭を乱れ飛ぶ蛍の光をぼんやりと見つめた。心が不思議と澄み渡ってくるようだった。


「しかし兄上だけは、このような頭の仕組みが狂っているらしい私を幼きころより愛おしんでくれた兄上だけは死なせたくないのです。私のせいで命を絶つようなことだけはあってはならないのです」


「・・・・分かった」


昌幸は微笑を浮かべながら静かに頷いた。

人としての情愛の心が全く欠落していると思っていた次子が兄だけは死なせたくないと真情を吐露したことが、父として昌幸は何よりも嬉しかった。これで全ての憎悪も執着も断ち切れると思った。


「お前の好きなようにするがよい」


「かたじけのうございます」


信繁は深々と頭を下げた。


「では父上、もう少しお眠りになって下さい」


部屋を出ようとする信繁に昌幸は声をかけた。


「して、九度山で余生を静かに過ごせそうなのか?」


信繁は苦笑し、頭を振った。


「さて、どうでしょう。家康の首は諦めますが、やはり戦そのものへの思いは絶ち難く・・・・」


そう答える信繁の声を聞いた時、昌幸の眼前に鮮明な光景が広がった。

武田家伝来の赤備えの甲冑に統一され、六文銭の旗を掲げる騎馬隊を率い、巨大な赤龍の牙と化して家康の本陣に突入する信繁。

老顔に悲壮な覚悟を浮かべ、今にも腹を切らんとする家康。

冷笑を浮かべ、馬首を返して悠然と去っていく信繁。その背中を呆然と見送る家康・・・・。

その光景は神仏が垣間見せた未来の光景なのだろうか。それとも昌幸の幻想にすぎないのか。

いずれにせよ昌幸は確信した。

信繁の、真田の武名は天下を震わせ、千載の後まで語り継がれるであろうことを。そして信之は徳川の世にあっても真田の御家をひたむきに守り続けるであろうことを。


「いかがされました、父上・・・・?」


問いかける信繁に、昌幸は快活に笑って応じた。


「何でもない。わしはもうひと眠りするとしよう。お前は妻と子達に顔を見せてやれ」


信繁は不思議そうに父の老顔を見つめ、やがて無言で去った。

昌幸が再び庭に視線を移すと、そこにはもはや蛍の姿は無かった。


三日後、真田安房守昌幸は眠るようにこの世を去った。

享年六十四歳であった。




<了>




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