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水の神殿こと『リオラド』……俺は月に数度、女神に祈りを捧げるという名目でこの神殿を訪れている。そう言うと聞こえは良いが、お茶を飲みながら世間ばな……いや、近況報告をしているのが実態だ。
メーアレクト様はなかなかにお喋り好きで、俺が訪問すると楽しそうに話を聞いてくれる。土産に持ってきたバラの花を花瓶に生けて、それをテーブルに飾って……。好きな子ができたと打ち明けた時は興奮した様子で詳細を聞きたがったっけ。
「そういえばバラを持ってくるの忘れちゃったな」
こんな事は今まで初めてだった。自分がいかに余裕が無く切羽詰まった状態だったのかが分かる。
人気の無い廊下をひたすらに進んでいく。ここを抜けると、神殿のある小島へ繋がる橋に出る。神殿周辺に見張りはいない。その理由はメーアレクト様が人の気配が近過ぎるのを嫌悪なさるからだ。強引に近付こうとしても女神の力によって追い出されてしまうため、見張りは置かないというより置けないというのが正しい。
ディセンシアの人間とセドリックのような数少ない例外のみが、神殿内へ立ち入るのを許可されている。この例外もメーアレクト様の気分次第なので、特に基準などは存在していない。セドリックが許されたのも俺が信頼している部下だからではなく、あいつが作るお菓子が気に入られたからだった。
橋を渡り小島に到着すると、十数メートル先に神殿の外観が見える。神殿のある島は王宮があるものと比べると本当に小さなもので、人の足でも一周するのに10分もかからない。
神殿の周辺には海の生き物を模した彫刻がいくつも立ち並んでいる。そして、それらに囲まれるように伸びた神殿までの迷いようがない一本道。ここまでくるとメーアレクト様の力を直に肌に感じる。毎度の事ではあるが、この緊張感には慣れない。臆する気持ちを振り切るように、神殿へ向かって勢いよく歩を進める。入り口の手前にある噴水の近くまで来たところで、俺は一旦足を止めた。
メーアレクト様とは別の強い力の気配……島に入った時から、その存在に気付いてはいた。長い足を組んで噴水のふちに腰掛けている人物が、その力の持ち主だ。赤茶色の髪をした、見た目は20代そこそこの若い男性――
「よぉ、レオン」
「ルーイ先生……」
俺の姿を認めると、ズボンに付着した砂を払い落としながら先生は立ち上がった。彼と正面から対峙すると自然と見上げる形になってしまう。やっぱりデカいな……うちのレナードと変わらないから190センチはあるだろう。
「うん、多少は落ち着いたみたいだな」
「どうでしょうか。これからメーアレクト様にお会いするというのに、手土産を忘れてしまうくらいには平静を保ててはいないようですけども」
両手を胸の高さまで上げる。何も持っていない事を強調するように、手のひら側を先生に向けてひらひらと振ってみせた。
「上っ面だけでも取り繕えてるなら上等だ」
「先生、来て下さってありがとうございます」
「お前をフォローしてくれってセディに頼まれていたからね」
「少し前に、そのセドリックに先生を呼びに行かせたのですが、行き違いになってしまったようですね」
「クレハに書き置きを渡してきたから大丈夫だ。セディもここへ来るつもりだったのかもしれないけど、今回は遠慮するよう忠告しておいた。この感じだと多分、シエルレクト本人がここに来るからね」
「シエルレクト神が? コスタビューテにですか」
ニュアージュの守り神であるシエルレクトが、自身の住処を離れ、こんな遠方の地へわざわざ足を運ぶというのか。すぐに周辺の気配を探ってみるが、それらしきものは見つからない。
「あいつらはお上と一緒で出不精だからさ。自分達の巣にどっしりと腰を下ろして、頻繁に動き回ったりはしないんだけどね。でも、今回は事情が事情だから……」
「部下からの報告ですがミレーヌが姿を現したそうです。クレハ達を襲った化け物を追撃し、捕食したと」
「俺もクレハ達から聞いた。メーアがミレーヌに命じたんだろうね。あいつ相当おかんむりだぞ」
『侵さずの契り』が破られたのは、今回が初めての事らしい。しかもそれが、その約束を結んでいる神達当人ではなく、神の力を得た人間の手によって起こされた。
「こういうケースを想定していないあいつらが呑気過ぎなんだよ。むしろ今まで無かったのが奇跡なんじゃないか。自分達が実害を被ってから騒ぎ出すんだからしょうがねーよな」
先生から聞くまで『侵さずの契り』なんてものがあるなんて知らなかった。もし逆であったなら……俺が魔法を使用して、他の神達の住処を荒らした場合はメーアレクト様が責任を追及される事になる。もちろんそんな真似はしないけれど……
今まではお互いの国同士が離れている事と、魔法使いの人口が少ないのもあって、たまたま運が良かったというだけだったのか。
「お前に渡した手紙には、その辺のいい加減になってるとこをちゃんと改善しろっていうのも書いてある。特にシエルは進んで人間に力を分け与えてるんだからね」
「先生、そもそもどうしてシエルレクト神は人間に魔力を与えているのでしょう? ここまで聞いて、特にメリットがあるように思えないのですが」
ただ人間の望むままに力を与えるなんて事はないはずだ。先生も見返りがあると言っていたし、シエルレクト側にも何かしらのうまみがあるはず……
「良い例えがパッと出てこないな。人間からしたら不快にしかならんし、気分も悪くなりそうだが……それでも聞くか?」
「はい」
「シエルに会えば分かることではあるけど。俺の口から伝えた方が衝撃が和らぐか……でもなぁ」
先生は俺に確認を取った後も、ぶつぶつと独り言を繰り返してなかなか本題に入らない。よほど言い難い内容なのか。
「シエルはな……人間の生き血が大好物なんだ」
「人間の……血?」
「ああ。シエルは契約を交わした人間にサークスを付かせる。それを通じて魔法を使わせてやるのと引き換えに、血液や体液を吸い上げているんだ。シエルにとって魔法使いは少量の魔力を与えてやるだけで、良質な糧を提供してくれる言わば家畜」
「……神が人を食うのですか」
「シエルは怖いぞ。お前も油断するとばっくりやられるかもな。血だけじゃなく、肉も好物だからね。俺がいる前では大人しくしているだろうが、目を付けられように注意しな」
「人を食うなんて……それはもう、人間にとって脅威でしかないじゃないか。ニュアージュはそんなものを神として崇めているのですか」
「そこがシエルの賢いとこというか、抜け目無いとこというか……。お前が言うように、好き放題に人間を食い漁っていたらそれは恐怖の対象でしかない。だが、シエルは契約を交わした人間しか食わないんだよ。それに、食うと一口に言っても血液や体液が主で、命まで奪うことは滅多にない。双方が納得した上で成り立ってる関係だから、俺も手出しできないんだ」
シエルレクトの人食いに関して、先生もあまり良くは思っていないそうだ。先生を含め神々は食事をしなくても平気なのだと。物を食べるという行為は嗜みのひとつでしかなく、必ずしも行わなくてはいけないものではない。けれど、人間達はそんな事は知らない。力を得るために必要な代償として、己の意志で身を捧げている。力を与えてくれるシエルレクトに感謝こそすれ、敵対心などもってのほからしい。
「でも、今回の事件はそんなシエルが力を与えた人間によって引き起こされた。少なくともメーアが納得する落とし前を付ける必要がある。さて……いい感じに暗くなって来たし、そろそろ行くか」
薄暗かった周囲はいつの間にか真っ暗になっていた。俺が父上の執務室を出たのが19時だったから、今は20時くらいか。正確な時間を確認しようと懐に入れている時計に手を伸ばした所で、神殿の扉横に設置された篝に火が灯った。勢い良く燃え盛る炎……それは俺と先生が話をしていた噴水周辺までを明るく照らした。
「メーアだな、早く来いってさ。シエルが来る前にあいつを多少なり宥めとかないと会話にならんかもな」
先生は神殿へ向かって歩きだす。後を追うように俺もそれに続いた。先生がいて下さって良かったと心底思う。指先の震えは、決して緊張だけが理由ではないと分かっている。そんな俺の心情を見透かしたように先生は後ろへ振り返り、にっこりと微笑んだ。
「ルーイ先生がいるから大丈夫だよ。怖いなら手繋いでやろうか?」
「……それは遠慮しておきます」
差し出された先生の手が頭上まで移動して、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。
「いっ……たっ!」
「可愛くないこと言うからでーす」
ひとしきり頭を撫で回した先生は『ほら、行くぞ』と、俺の手を引きながら歩き始めた。断ったのに……
掴まれているのとは反対側の手で、先生にボサボサにされてしまった髪の毛を整える。先生の手は大きくて温かい。悔しいけれど……クレハがこの方に懐いている理由が、少し分かった気がした。