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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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 女性の唇の色は深い赤紫、ボルドーの口紅は男性の首に点々と痕を付けていた。


「こんなに付けるなよ」

「後でメイク落としを貸してあげるわ、シャワーも貸してあげるわ」

「勿論、恵美が洗ってくれるんだろう」

「そうね」


 男性はボルドーの口紅に覆い被さった。


「おまえが旦那とするなんて気が狂いそうだよ」

「ふふふ、和寿はあっ、欲張りあっあ、さんあっ、ね」


ガタ ガタガタ ガタ


 食卓に置かれたテレビのリモコンがフローリングの上に転がり落ち21:00の報道番組の音量が突然大きくなった。それに伴い和寿の腰の動きは速さを増した。


「あぅ」


 寄せては引く快感に翻弄された恵美は野生の雌ライオンのような呻き声を上げた。


「そうだ。パート採用おめでとう」

「あっ」

「職場で恵美の顔が見られるなんて最高だよ。勃起しちゃうかもな」


 和寿は腰を激しく前後させながら夢のような時間を想像し恍惚の笑みを浮かべた。


「セックス出来て時給も稼げる、良いパートだろ」

「あっ」


 和寿はブーランシェリーの講習会で恵美と知り合った。恵美にパティスリーブーランジェリー|chez tsujisaki《しぇ つじさき》スタッフ募集に名乗り出る様に仕向けたのは和寿だった。


 その晩、和寿の帰宅は午前0時を回っていた。


「和寿さん、遅かったね」

「なんだよ、嫌味かよ」

「お義母さんと呑んでたの?」

「そんな訳ないだろう、ひとりで呑んでたんだよ」


 和寿は不貞腐れた顔をして果林から目を逸らした。


「シャワー浴びるよね」

「あぁ」


(ちっ、面倒だな)


 和寿は恵美との不倫行為の発覚を恐れ、果林が使っている物と同じ銘柄のシャンプーにコンディショナー、ボディソープを準備させた。


「バスタオルと着替え、出しておくからね」

「おう、頼むわ」


 最近の会話と言えば|飯《めし》、金、こればかりだ。ここ暫く特に金銭面でだらしなく|煩《うるさ》くなった。果林は家計簿アプリを開きながら交際費が2ヶ月前から徐々に増えている事に疑問を隠せなかった。


(これがなにか尋ねたら尋ねたでまた大声出されるんだよなぁ)


 実家の父親が声を荒げる気質だったので|然程《さほど》気にしてはいなかったが血を分けた父親とそうではない夫では訳が違う。携帯電話の画面をスクロールして見れば世の中の妻たちの悩みが羅列されていた。


(これってモラルハラスメント、なのかなぁ)


 浴室の扉に叩きつける熱湯すら言葉の槍の様に聞こえて来た。


(アッ!)


 冷蔵庫に貼られたシフト表に目を遣った果林は明日のケーキの仕込みの担当が自分である事に気が付き慌てて和寿に声を掛けた。


「和寿、先に寝るね」

「ーーー!」


 すると和寿は身体に泡を付けたまま浴室から飛び出すと洗濯かごの中に手を入れ上目がちで果林を見た。


「なにしてるの」

「お、おぅ、早く寝ろよ」

「ーーーうん」


 横目で見ると脱いだ下着の中で携帯電話がLINEの着信を知らせていた。


「なんだよ」

「おやすみ」

「おやすみ」


 この様な状態でも果林と和寿は一緒のベッドで夜を共にしている。然し乍ら和寿は果林に背中を向けたままで触れ合いは皆無だ。見合い結婚という事で肌と肌の触れ合いは元より乏しかったがいつの間にか就寝時の口付けも出勤時に抱き締め合う事も無くなっていた。


(ご飯を作って掃除をして、ATMの機械みたいに扱われて、これがまともな結婚生活と言えるの?)


 そこで思い浮かんだのは真紅のワンピースをお召しになられた姑の姿。


(しかも菊代さんのおまけ付き)


 果林はミネラルウォーターを一気に飲み干した。





小鳥の|囀《さえず》りと川のせせらぎが静かに流れる店内。


(ーーーまたか)


 菊代さんの起床時間、お化粧時間、お洋服をお召しになる時間は一分一秒も乱れる事が無いのだろう。店舗が混雑する昼食時を狙い定めた様に来店し、我が物顔でゲランのアクアアレゴリアの香水臭を振り撒きながら奥の席に座る。


「いらっしゃいませ」


 果林がライムの浮かんだグラスとおしぼりをテーブルに置くと菊代は踏ん反り返りながら脚を組んだ。


「いつもの頂戴」

「ーーーーえ?」

「い・つ・も・の!聞こえないの!気が利かないわね!」


 菊代が注文するメニューはその日その日で一様では無い。それを充分承知な上で声を張り上げている事を理解している社員たちは「また嫁を虐めている」と顔を顰めた。


「ご馳走様」

「あ、ありがとうございました」


 気分を害し食事の途中に席を立つ社員も居た。


「菊代さん、もう少し声の大きさを抑えて頂けませんか?」

「これが黙っていられますか!」


 菊代さんはなにやらご立腹の様子でマザーコンプレックスが駆け寄り機嫌を取ると辻崎株式会社からパート社員の時給を1,200円に賃上げする様にとお達しがあったので納得がゆかないらしい。


「こんな馬鹿な話がありますか!」

「まぁまぁ、母さん《《上》》の言う事は聞くしか無いよ」

「それにしても今までなにも言わなかったのに!誰が余計な事を!」


 そこで菊代と和寿の視線が果林に集まった。


「そんな訳ないわよね」

「そうだよ、こんな鈍い奴になにも出来ねぇよ」

「あぁ、もう腹が立つ!」


 そこで庭に面した席で手が挙がった。


(あ、えーと宗介、宗介さんだ)


 壁に掛けられた時計の針は14:00、|欅《けやき》の木を眺める席に辻崎宗介の姿があった。


「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

「アフォガート、アッサムティーで宜しいでしょうか」

「お願いします」


 穏やかな微笑み、果林は紅茶葉を蒸らしながらその横顔を眺めた。濃紺のスーツに焦茶のネクタイ、ワイシャツは上品な灰色、胸に社員証は無い。


(ーーー何者なんだろう)


 果林はバニラアイスをガラスの器に盛り付けて紅茶を注いだ。視線を感じて振り向くと宗介が果林を見つめていた。


(ーーーーん?)


 すると宗介は慌てた素振りで手を挙げた。


「如何なさいましたか?」

「これを下さい」


 爪先まで整えられた美しい指がメニュー表を指した。


「ズッパイングレーセ(スポンジケーキ)、こちらで宜しいですか?」

「はい」

「リキュールシロップを使用していますがお車の運転は大丈夫ですか」

「あ、迎えが来るので」

「迎え、ですか」

「いや、なんでも無いです」


 その後、宗介はアフォガートをもう一杯注文し、ウエイトレスとして店内を切り盛りしている果林の姿を目で追った。


(ーーーーあれ?そう言えば、時給)


 果林は昨夜の宗介の険しい顔を思い出した。宗介は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の時給が970円だと知って宜しくないと呟いていた。その翌日の時給賃上げ。


(まさか)


 果林は宗介がたまたま《《辻崎》》と同姓なのだと勝手に解釈していた。


(まさか)


 突然の時給賃上げで辻崎宗介が辻崎株式会社の関係者なのではないか、そう考えた果林は何気なく背後を振り返った。


(うわっ)


 するとそこで|欅《けやき》の席に座る宗介と視線が合い、「お願いします」とふたたび手招きをされた。


(み、見られていた)


 辻崎株式会社が秘密裏に社員の素行調査をしているのではないかと勘繰った果林の動作は一気に機械染みてぎこちなくなった。


「どうかしましたか」

「なんでもございません」

「表情が堅いですよ、なにかありましたか」


(はい、多分あなたが調査員だからです!)


「いえ、とんでもございません」

「言葉遣いもなんだかぎこちないですね」


(ああーーーー|茶茶壷茶壷《ちゃちゃつぼちゃつぼ》にゃ蓋がない状態!茶壷ーーー!)


 宗介は顔を赤らめ視線が落ち着かない果林を見上げて口角を上げた。


「このケーキは果林さんが焼いた物ですか」

「はい、昨夜仕込んで先程焼き上げました」

「スポンジに染みたリキュールのしっとり感、にも関わらず上品です。果実の配合も絶妙ですね」

「ありがとうございます」

「見た目は素朴ですが素材の良さが引き立っている」

「ありがとうございます」


 宗介はケーキをフォークで口に運ぶと破壊力半端ない微笑みを浮かべた。


「確かに温かい味がします」

「はぁ、焼き上げたばかりですから」

「その様な意味ではありませんよ、|日向《ひなた》の様な温かな味がします。人事課課長が話していた通りですね」


(ーーーあぁ、人事課課長さんはズッパイングレーセにオレンジペコ)


 狸のような姿が頭に浮かんだ。それにしても総務課部長に人事課課長と交流があるこの人物は何者なのかと俄然興味が湧いた。 


「おい!おい果林!」


 そこで現実に引き戻された。1人の客に何分時間を掛けているんだと和寿の怒号が菓子工房の中から容赦なく果林に浴びせられた。


(ーーーはぁ、お子様だわ)

「またご主人様は賑やかですね」

「ーーーはい」

「お引き留めして申し訳ありませんでした」

「ありがとうございます、失礼致します」


 果林は宗介に会釈し乍ら、脳内で和寿を2回抹殺した。満席でも無い、菓子類は既に焼き上がっている、和寿が接客してもなんら問題は無い。然し乍らパティシエたるもの工房から出てはならないと訳の分からない理由を付け、バックヤードで携帯ゲームに課金をしている。


(ーーー素行調査で厳重注意されるがいいわ!)


 それもこれも明日には解消される。明日は新しいウエイトレス兼ブーランシェリーが出勤して来る。翌日、果林は遅番出勤だった。


「ねぇ、早番代わろうか?」


 パート採用の杉野恵美が初出勤という事で、果林が早番を代わろうかと和寿に尋ねたが会話の歯切れが悪かった。


「別に良いよ、おまえ昨日早番で疲れてるだろう?」

「はいーーーー?」

「なんだよ」


 和寿が体調を気遣ってくれた事は皆無に近い。何なら発熱していても気付かず勤務させられた事もある。果林は珍しい事もあるものだと思いながら洗濯機のスタートボタンを押した。ぐるぐると回る洗濯物。


「出勤はゆっくりで良いからさ」


 和寿はいつもより丁寧に髭を剃り、ヘアワックスで髪を逆立てた。


「でも女性スタッフのロッカールームは和寿じゃ説明できないでしょ?」

「勤務後か昼休憩の時にでも教えてやれよ」

「混んでいたらお昼は休めないよ」

「大丈夫だよ俺が頑張るから」

(頑張るーーー初めて聞いたわ)


 和寿はそれでも食い下がり「俺に任せろ』と言い張って聞かなかった。


(ーーー変なの)


 洗濯物を済ませ家事をひと通り終えた果林はバスに揺られて会社へと向かった。停留所は会社正面玄関にある、正確には<辻崎ビル前>と会社名がそのまま停留所名になっている。


「おはようございます」

「はい、果林ちゃんおはようさん」


 警備室を通過した辺りで違和感を感じた。地下2階から上昇するエレベーターの中は菊代さんの香水に負けない密な香りが充満していた。1階テナントの販売員も鼻を摘んだ。


「これ、プラダだよね」

「そうそう。キャンディ、男に媚びてるよねぇ」


(プラダのキャンディ、確かに甘い)


 悪い予感がした。


(あぁぁっ大当たりですか)


 その甘ったるい匂いは|chez tsujisaki《しぇ つじさき》へと果林を誘った。


(あ、誰も居ない良かった)


 プラダのキャンディに物申すには利用客が少なければ良いなと思いフロアを横切ったがそれもその筈で出入り口にはcloseの看板が掲げられていた。店内は仄暗くダウンライトも点いていない。


(和寿、なにやってんのよ!)


 観葉植物の隙間から覗くとテーブル席の準備も出来ていなければ|欅《けやき》の庭へと抜けるガラス扉も閉じたままだ。


「和寿!空気の入れ替えぐらい出来るでしょう!」


 果林がテラスのガラス扉を開けながら声を大にすると菓子工房の奥でガタガタと大きな音がした。


「杉野さんは来たの!」

「お、おう。今バックヤードの説明をしていたんだ」


 乱れた気配、匂い立つキャンディの香とボルドーの口紅。


「はじめまして、杉野恵美です。《《よろしく》》お願いします」

「ーーー初めまして」


 和寿の逆立てた筈の髪の毛は乱れ、杉野恵美の襟足には後れ毛が何本も出ていた。杉野恵美の履歴書に貼られた証明写真では判別出来なかったがその肉体はあまりにも魅惑的すぎた。白いカッターシャツに黒いパンツ然し乍らウェストが細い分、豊満な胸と丸みのある尻が強調され|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の雰囲気には似つかわしくなかった。


「和寿、ちょっと来て!」


 果林がフロアの隅で手招きすると和寿は渋々といった顔で近づいて来た。その間、杉野恵美はテーブルの上の紙ナフキンの補充やアルコール消毒に勤しんでいた。多少雑ではあるが手際は良い。


「なんだよ」

「和寿、面接はしたの!?」

「なんだよ」

「あれじゃ何処か違う店、夜の店の店員さんじゃない」

「水商売ってか」

「うちも水商売だけど意味が違うでしょう!辻崎の社員さんも驚きよ!」

「はぁーーーーー女の嫉妬は醜いな」

「どういう意味よ」


 和寿は腕を組むと果林の足の爪先から頭の天辺まで眺め大きなため息を吐いた。そして呆れた様な顔付きで言い放った。


「おまえみたいな地味な枯れ枝、誰も喜ばねぇよ」

「それって酷くない?」

「会社のお偉いさんも癒しを求めて来るんだよ、薔薇の花一輪くらい添えても良いじゃねぇか」

「ーーーぐっ」


 果林は和寿に向かってなにも言い返せなかった。素肌に近いナチュラルメイクはそばかすを隠す事なく何処か垢抜けず、丸みを帯びた鼻に木の実の様な丸い目は小動物を連想させた。


(ーーー悔しい!)


 果林は幾つになっても《《大人の魅力》》に欠けそれは劣等感を生み出した。それで杉野恵美が気に入らないのだろうか。微妙にその存在が引っ掛かった。


「はい!杉野さんはこれを付けてください!」


 杉野恵美にはサロンエプロンでは無く前身頃が隠れるエプロンを着用して貰った。それに関してもまたもや和寿と一悶着があった。


「これじゃ恵美の魅力が台無しだろう!」

「はぁーー?恵美、もう恵美呼びですか!お気に入りの様ですね!」

「おまえだって果林だろう!統一したんだよ!」


 そんな2人の遣り取りを杉野恵美はほくそ笑んでいた。


「あ!そうです!杉野さん、香水は厳禁です!」

「えぇぇ、《《彼》》からのプレゼントなんですぅ」

「個人的に楽しんで下さい!」

「うわぁ、怖い。分かりましたぁ」

(彼?緊急連絡先って旦那さんの携帯電話番号だったよね?)


 杉野恵美の香水も鼻に付いたが、甘ったるい語尾には辟易した。そしてもうひとつ頭の痛い事案が発生した。


「あらぁ、可愛い子!うちのお嫁さんに欲しいわぁ!」

「まぁ《《お義母さま》》ったら」


 ゲランとプラダが意気投合してしまったのだ。しかも果林には「菊代さん」と呼びなさいと口煩い姑が、昨日今日採用した杉野恵美に「お義母さま」と呼ばれて機嫌を良くしている。


(別に姑の呼び名などどーーーーでも良いですが!)


 その件に関して果林にとっては意に介さぬ事だが問題は香水だ。2種類の香水が混ざり合った異臭は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》外の一般フロア迄をも汚染した。シンボルツリーである|欅《けやき》の樹を中心に配置されていた木製のベンチから社員の姿が消えた。


「ちょっと、和寿!ちょっと来て!」

「煩ぇなぁ」

「あのね、お義母さんの香水だけでも問題なのに杉野さんの香水、なんとかして貰えないの!」


 和寿はその背中を舐める様に眺め果林を見下ろした。


「もう本人は付けてないって言ってるだろう」

「移り香でしょう!とにかく臭い!」

「なんだよ、香水臭いから解雇にするのか!」

「そこまでは言っていないけれど」


 やがてそのキャンディの移り香が|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の売り上げと家計を侵食し始めた。


「和寿、分かっている?」


 和寿の目が左右に泳いだ。


「なにがだよ」

「売り上げ!売り上げが激減してるの!」

「閑散期なだけだろう」

「原因はお義母さんと杉野さんよ!」


 毎日正午にやって来る菊代は杉野恵美を《《ご指名》》で呼び付けると一緒にサンドイッチを頬張り午後のティータイムを楽しんでいた。


「恵美ちゃんはパン職人さんなのね」

「はい、お義母さま!」

「このサンドイッチ美味しいわぁ」


 果林は心の中で叫んだ。


(その中に挟まっている具材は私が仕込んでいますが、なにか!?)


 日毎に客足は遠のき、時給を支払っている杉野恵美は菊代のおべっか使いで皿の一つも洗わない。


「すみません」

「はい、如何なさいましたか」

「このケーキ塩っぱいんですけれど」

「ええっ!申し訳ございません!」


 和寿も浮き足だちとうとう塩と砂糖を間違えてマチュドニア(フルーツケーキ)の果物を台無しにしてしまった。


「もう赤字に近いわよ!」

「そんな事ないだろう」

「辻崎へのテナント代も危ういわよ!払えなくなったら撤退だからね!」

「そんな訳ねぇじゃん」


 和寿は尻を掻きながらネットゲームに夢中だ。


「なにがそんなに楽しいの」


 果林が携帯電話の画面を覗こうとすると和寿は慌てて立ち上がり「あ、トイレトイレ」と小走りでトイレの扉を閉めた。


(ーーー携帯電話が手放せないとか子どもか!)


 果林がリビングテーブルに目を落とすとパチンコ雑誌の隙間からピンク色の封筒が顔を出していた。普段ならば気にも留めないのだがその日はつい手に取ってしまった。


(督促状)


 それはキャッシングローン返済遅延の督促状だった。


(ーーーなに、これ)


 和寿には月50,000円の小遣いを手渡している。それだけでは足りないなにかにお金を使っている。


(パチンコはもう止めたって言っていたのに、また始めたの!?)


 これは問い詰めるべきか否か、果林は悩んだ。洗濯機の中で回るシーツ、公休日で快晴となると大物を洗いたくなる。相変わらず背中合わせの和寿との夜、ならばせめて太陽の匂いに包まれて眠りたい。


(はぁ、気分爽快!でもないな)


 洗濯を繰り返してもプラダのキャンディの香りが家中に充満し思わず袖口や袖、シャツの裾の匂いを嗅いでみた。


(ーーー気のせいか)


 次に果林は下着やワイシャツ等の日常着を洗濯かごから取り出して洗濯機に詰め込み始めた。やはり仄かに匂う蜂蜜のような甘い香り。


「なんなの、よっ!」


 怒り爆発といった風で和寿の私服を掴んだ瞬間匂い立つプラダのキャンディ。微かにではなくダンガリーのシャツに染み込ませた程に臭い。


「え、これ」


 襟足の《《内側》》に付いた深い赤紫の口紅の跡。バックヤードで通り過ぎた際に擦れた程度では無い。


(それに私服)


 キャッシングローンで借入れ始めたのは2ヶ月前、出勤時間が妙に早くなったのも2ヶ月前、面接もせずに杉野恵美の採用を決めた和寿、杉野恵美の初出勤日の朝バックヤードから出て来た2人の髪の毛は乱れ、和寿は杉野恵美を「恵美」と名前で呼んだ。


(ボルドーの口紅、プラダのキャンディ)


 この香水は《《彼》》からの贈り物だと言っていた。


(2人は以前からの知り合いだった?)


 それも深い仲、鈍感な妻を2人で|嘲《あざけ》り笑っていたのだろうか?果林の疑惑の念は点から線へと繋がっていった。果林が公休日のchez tsujisakiしぇ つじさきは痴態に塗れている。この日だけは杉野恵美は膝丈の黒いタイトスカートを履き美しい脚を披露した。


「やだ」


 勤務時間、和寿は菓子工房の中ですれ違いざまに杉野恵美の尻に触れた。


「あっ、駄目」

「気付かれるぞ、手ぇ止めるなよ」


 ラテアートを描く杉野恵美の股座に背後から手を忍ばせた和寿は淫靡なラインをなぞった。


close


 お楽しみはこれからだ。


「早く、早く!」

「待てって」


 和寿のベルトの金具、そしてチャックを下ろす音。下着を取り払った杉野恵美はフロアのソファで大きく脚を開いた。


コツコツコツ


 上下する懐中電灯のライト、守衛の革靴の音が聞こえると2人は抱きしめ合い通り過ぎるのを待った。そしてまた激しく求め合う。


「んっんっ」


 この背徳感、緊張感は最高の興奮と絶頂をもたらした。


「果林さんのお休みには」

「あっ馬鹿!」


 杉野恵美は果林の公休日に赤いハートマークを描いた。





 果林は大の字で爆睡中、ぶっと屁をした和寿の尻を叩いて出勤した。


「おはよう果林ちゃん」

「おはようございます」

「ありゃあ、なんだか元気がないねぇ」

「そう見えます?」

「そう見えるわ」

「はぁーーーーそうですか」

「溜息かい、果林ちゃんには似合わんぞ」

「はぁ」


 そんな事を言われても溜息どころか青色吐息。夫が店の同僚と不倫行為に走っている疑惑、果林は感情の消化不良を起こしていた。


(疑惑どころか完全に黒、真っ黒クロでしょう!)



ぽーーん



「え!なにこれ!」


 果林は素っ頓狂な声を上げた。エレベーターの扉が開くとそんな悶々としたものが吹き飛ぶ光景が目の前に広がった。


「えええええ」


 2階フロアの|欅《けやき》の樹を中央にして|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の真向かいに赤い三角コーンが置かれ立ち入り禁止、頭上注意の旗が吊り下げられていた。


「えっ、あそこって店舗スペースだったの!」


 これまでビルの壁かと思っていた部分は石膏ボードの板だった。大きく取り外された内部はコンクリートが剥き出しで電気の配線コードが天井からぶら下がっていた。外部に面した箇所には青いビニールシートが張られている。ビルの外観から想定するに|chez tsujisaki《しぇ つじさき》と同様に屋外スペースが広がっている事だろう。


「うわーーーーー結構広いな」


 明らかに|chez tsujisaki《しぇ つじさき》を上回る広さだった。


「なんの店だろう、飲食店だったら困るなぁ」


 現在の|chez tsujisaki《しぇ つじさき》は辻崎の名を名乗る事など|烏滸《おこ》がましい程に好ましくない状況だった。しかも今日は杉野恵美との勤務だ。


「はぁーーーー」


 憂鬱な1日が始まろうとしていた。果林はバックヤードの勤務表に違和感を覚えた。見た事のないマークが果林の公休日に記入されている。


(ーーーーしかも真っ赤なハートマーク)


 鼻歌まじりでテーブルセッティングをする杉野恵美の厚顔無恥さに呆れて物が言えない。しかも果林不在時になにをしているのかバックヤードの什器が雑然としテーブルの上に微妙な粘り気を感じた。


(ーーーーまさか、そんな事はあり得ないけれどこの2人ならあり得る!)


 果林はアルコール液で彼方此方を念入りに拭い、フロアのソファを点検して周った。


(あーーーーー、信じられない)


 一番奥のソファの足元に丸められた紙ナフキンが落ちていた。明らかに《《事後処理》》の形跡だった。果林は新しい紙ナフキンでそれを包むとゴミ箱に投げ入れた。怖気が走った。視線を感じて振り返るとそこにはご機嫌なプラダのキャンディが豊満な身体のラインを見せ付け微笑んでいた。


(馬鹿じゃないの、馬鹿馬鹿しい!勝手にどうぞ!)


 夫の和寿には怒鳴られ、姑の菊代には嫌味を言われ、和寿の不倫相手には蔑まれ果林の我慢は極限に近かった。14:00、久しぶりに|欅《けやき》の樹のテーブル席で手が挙がった。杉野恵美が近付くと果林を指差して会釈をしていた。辻崎宗介だ。


「あの男、あんたが良いんだって!」

「あんたってーーー」

「ふん!」


 杉野恵美は見栄えの良い宗介のテーブルへと足取りも軽く接客に向かったが呆気なく断られた。よほど面白く無かったのだろう|癇癪《かんしゃく》を起こしてテーブルに布巾を叩き付けている。


(ああ、他のお客様もいるのに最悪だ)


 宗介は果林に微笑み掛けるとテーブルで肘を突き顎を乗せた。


「いらっしゃいませ」

「お邪魔します」

「宗介さん、お客様が「お邪魔します」はちょっと違うかもしれません」

「ああ、本当だ」


 失笑してしまった。


「果林さんは笑っている方が魅力的ですよ」

「ありがとうございます」


 果林は(あの3人が居なければ!)と脳内で地団駄を踏んだ。


「しばらく来る事が出来ませんでした」

「ご出張ですか?」

「色々と手配をしていたので時間が取れなくて寂しかったです」

(寂しかった?)

「そうなんですね、お疲れ様です」


 宗介は和寿と杉野恵美を見遣ると果林に小声で尋ねた。


「果林さんは昨日はお休みだったんですね」

「はい、公休日でした」

「そうですか」


「お店に来て下さったんですか」

「はい、アフォガートとタルトタタン(りんごケーキ)を注文しました」

「ありがとうございます」

「りんごの仕込みはどなたがされたのですか?」

「具材の下処理と仕込みは先ほどの女性が担当しました。ケーキは夫が焼きました」

「あぁ、なるほど」


「如何かなさいましたか?」

「よく分かりました」

「分かった、なにが分かったんでしょうか?」

「温かい味がしませんでした」


「あっ、申し訳ございません!塩味がした、とか」

「ーーーえ?」

「いえ、数日前に手違いがありまして」

「ああ、あの件ですか」

(あの件?どの件?なんの件?)


 いつも思わせ振りな口調で果林には理解出来ないが宗介は色々な事を《《知っている》》ようだった。


「お待たせ致しました」


 宗介はアフォガートを口に含むと満足気に息を吐いた。次にタルトタタンにシルバーのカトラリーで切り目を入れゆっくりと口に運んだ。


「やはり果林さんです」

「私、ですか」

「温かな味がします」

「ありがとうございます」


 宗介は和寿が自分たちを険しい面持ちで睨んでいる事に気付き呆れ顔で溜息を吐いた。


「ご主人様はいつもあの様に険しい顔をなさっているのですか?」

「ああーーー、どうでしょうか」


「私的な時間でも同じですか?」

「自宅でという意味でしょうか?」

「立ち入った事をお尋ねして申し訳ありません」

「ああーーー、自宅では怒鳴られてばかりです」


 果林が日々の辛さを誤魔化して自虐的に笑って見せると宗介の表情が深刻なものになった。


「果林さん、そこは笑う所ではありませんよ」

「ご、ごめんなさい」

「あぁ申し訳ありません。私もつい感情的になってしまいました」

「ごめんなさい」


 果林が俯き加減になると宗介は慌ててスーツのポケットから小さな包みと封筒を取り出した。なんだろうと見ているとこれは出張先で購入した土産と取り寄せた御守りだと微笑んで見せた。


「お土産」

「小町紅、|紅花《べにばな》の口紅です」

「口紅」

「水で溶いて使う自然由来の口紅で匂いは殆どありません」

「水で溶いて使う」

「小筆で塗るとか」

「小筆」

「色味の濃さが調節出来るので飲食店の方にもお勧めだと説明を受けました」

「お勧め、お勧めですか」

「私が持っていても意味がないので受け取って下さい」

「あ、ありがとうございます」


 宗介は白い封筒の中から御守りを取り出して広げて見せた。


「え、これ」


 それは薄い紙に緑の枠が引かれた離婚届だった。


「御守りってこれですか」

「受け取って下さい」


 そこで和寿の怒号が閑散としたフロアに響いた。


「果林!モタモタすんな!」

「は、はい!」


 その遣り取りを耳にした居心地の悪そうな社員たち。宗介は腕組みをしてフロア全体を見渡した。


「しっ、失礼します!」

「はい」

「お土産ありがとうございました!」

「こちらこそ受け取って頂きありがとうございます」


 果林は口紅と御守りをサロンエプロンのポケットに入れた。





「にっ、24.000円(税抜)!」


インターネット検索で調べたところ、果林が宗介から贈られた口紅の商品名は小町紅の雪月花、半月形のコンパクトは24金メッキで雪と月、菊の細工が施されアワビの青貝が七色に輝いている。江戸時代から続く紅花の口紅、その価格は24.000円(税抜)、これはちょっとした土産物などでは無かった。


「そ、宗介さん、贈る相手を間違えていない!?」


 今頃、包みの取り違いだと慌てているのではないか、明日お返ししなければと果林は金色のコンパクトをもう一度白い箱に戻して包装し直した。


「あーーー、びっくりした!」


 そしてもうひとつ驚いた事は手渡された《《御守りの離婚届》》、果林自身もその選択肢も有りかと考えていた矢先の出来事で全てお見通しと言わんばかりで驚いた。


「市役所に取りに行く手間が省けたってーーー!そんな簡単に離婚なんて!」

「離婚がどうしたんだよ」

「あ、和寿、おかえり、遅かったね」

「残業だよ!誰かさんが仕込みを途中で放置して帰ったからな!」


 今日の仕込み担当は杉野恵美だ。


「今日は杉野さんが仕込みをする日でしょう!」

「うるせえ!恵美だって忙しいんだよ!」

(ーーなにに忙しいんだか!)

「なんだその目は、なんか文句あるのか!」


 果林は和寿と杉野恵美の不倫について問い正すべきか悩んだが機嫌の悪い夫にそんな事を言おうものならソファーの上の雑誌が飛んで来るに違いなかった。


(我慢するしかないのかな)

「なんだよこれ!」

「あっ!」


 テーブルの上に開いたままの離婚届を見付けた和寿は激昂し「離婚したいならしてやるよ!」と緑の枠内に住所氏名両親の名前と続柄を記入し本籍に至っては免許証を財布から取り出していた。


「ほら!いつでも出せよ!」

「和寿、印鑑押してないよ」

「印鑑な!」


 半ば冗談で果林が印鑑に言及すると実印を取り出し捺印した。


「え、これ提出していいの?」

「明日にでも出して来い!」


 丁度良い事に明日は遅番の日だ。


「分かった」


 これも人生のタイミングなのか。


「風呂は!」

「沸いてるよ」

「飯は!」

「青椒肉絲」


 果林の足は市役所へと向かったが住民戸籍課の窓口で首を項垂れた。


「えっ」

「出来れば証人の方のサインを頂いて下さい」

「だっ、誰でも良いですか」

「はい、ただ印鑑にシャチハタ印は使えませんのでご注意下さい」


 和寿が冷静になる前に離婚届を提出し、実家の両親にも事後報告で済ませようと考えていた。モラルハラスメントにドメスティックバイオレンス紛いの扱い、不倫と三拍子揃えば誰もが離婚を勧めるだろう。


(この数年間はなに!)


 バスの車窓から眺める景色は色付いて鮮やかだった。スクランブル交差点を行き交う人の波、その中には手を繋ぎ仲睦まじくベビーカーを押す夫婦や恋人たちの姿があった。


(前世の私はなにか物凄い大罪でも冒した訳!?)


 理不尽で色褪せたこれ迄の結婚生活に沸々と怒りが込み上げた。然し乍らその中にひと匙の切なさも残った。


(和寿ご飯作れないしなぁ、如何するのかなぁ)


 たった1枚の紙で解消される結婚生活、その|呆気《あっけ》なさを少し寂しく感じ果林は微妙な面持ちになった。


(って!この仏心が不幸への第一歩!)


 思い切り首を左右に振って降車ブザーのボタンを押した。そしてそれが正しい事を目の当たりにする。


(ーーーお客さまがいない)


 昼休憩にも関わらず店内は閑散としていた。にも関わらず他人事の様に菓子工房の中で艶めいた会話を楽しむお花畑なパティシエとブーランシェリー、我が物顔で無銭飲食を楽しむ自称|chez tsujisaki《しぇ つじさき》オーナー菊代。


(この店は終わりだ)


 果林は今、まさに沈んでゆく泥舟に乗っている。


(これは明日にでも離婚届を提出せねば!)


 ただ離婚届の証人になって貰えそうな友人知人は和寿に付き合うなと言われ音信不通状態、いきなり頼んだところで「はいそうですか」と印鑑を捺してくれる筈もなく果林は途方に暮れた。


「おい!果林!」

「あ、はい」

「ダスターまとめて洗濯しとけ!」

(なんで私が!)


 果林は洗い物を籠に入れバックヤードの奥に向かった。中は相変わらず雑然として整頓するどころか杉野恵美が採用されて以来、様々な意味で混沌としている。2人がバックヤードでお楽しみの時間を過ごしていると思うと吐き気がした。


(もう地獄でしかない)


 洗濯機を回していると和寿の愚痴が始まった。


「なんだよ、トンテンカンテンうるせぇんだよ」

「なに作ってるのかなぁ」

「くっそ、《《上》》に営業妨害だって言ってやる!」


 如何やら向かいの工事の音が|五月蝿《うるさ》くて客足が遠のいているのだと思ったらしい。勘違いも甚だしく思わず失笑してしまった。


「あ、果林さぁん」

「なんでしょうか!」

「窓際のイケメンがお呼びですよぉ」

「かしこまりました!」


「なんだよ、イケメンって」

「うっそ、和寿の方がぁ、い・け・め・ん」

(がぁがぁアヒルですか!)


 手指の消毒を済ませてサロンエプロンを着ければ営業スマイル。14:00、|欅《けやき》の樹の席で宗介が微笑んでいた。


「いらっしゃいませ」

「お邪魔します」


 2人の口元が同時に綻んだ。


「あ、宗介さん。昨日のお土産なんですが取り違えていませんか?」

「なにか不具合でもありましたか」

「いえ、金色のコンパクトを頂いたのですが調べたらとても高価で、どなたかのお土産と間違えていらっしゃるのではないかと思って持って来ました」


 果林は丁寧に梱包し直した包みをテーブルに置いた。


「いえ、それは果林さんの為に買いました」


「はぁ」


「今度、《《私に付けて下さい》》」

(私に、とは。なになになに、宗介さんって女装派なの!?)

「いつか付けて下さいね」

「ーーーーはぁ」


 宗介は自身の唇に指を当てながら、疑問符を頭に乗せた果林を見上げた。そして御守りは如何なったかと尋ねられ、果林は事の顛末を話した。


「果林さん、御守りは持っていますか?」

「あ、はい」

「貸して下さい」


 果林がサロンエプロンから白い封筒に入った離婚届を取り出すと宗介は席を立ち上がって窓際の席へと向かった。


(ーーーん?)


 そこには甘党の総務課部長と人事課部長がマチュドニア(フルーツケーキ)にナイフとフォークを入れているところだった。宗介は隣の椅子に腰掛け離婚届をテーブルに広げると果林を指差した。2人は二つ返事で頷くとポケットからボールペンと印鑑を取り出した。


(高そうなボールペン、いやいやいや、そこじゃないでしょ!)


 果林の悩み事はものの5分も掛からず解消した。


「はい、これで提出出来ますよ」


(部長のサイン、初めて見たわってそこじゃなーーーい!)


「ありがとうございます」

「善は急げです、今から市役所に行きましょう」

「え、私、勤務中ですが」

「車で送りますから」

「そ、そうではなくて」


 背後には鬼の形相の和寿、訝しげな面持ちの菊代、この状態で店を抜け出せる訳が無い。すると胸ポケットから名刺入れを取り出した宗介は和寿にそれを手渡した。


(ーーー和寿がお辞儀をしている!)


 あの高慢な和寿の意外な一面を垣間見たがそれに驚く間も無く果林は宗介に背中を押され、下降するエレベーターの中で戸惑っていた。


「車を回してくれ」

(くれ、くれ、とは命令口調のくれ、とは何者!)

「如何しましたか」

「いえ、ちょっと驚いているだけです」


ぽーーーん


「さぁ、行きましょうか」

「はい」

「乗って下さい」

「こ、この車に乗るんですか!」

「そうですよ」


 エントランスの車寄せには埃一つ付いていない最新モデルの黒のTOYOTAクラウンが停まっていた。


(た、タイヤでかっ!)


 そして黒いスーツに白い手袋の運転手が後部座席の扉を開けて待っていた。


「は、はぁ」

「どうぞ」


 運転手にお辞儀された果林はその異世界に目を白黒させた。後部座席のシートは程よい硬さで果林はその表面を指先で擦ってみた。それは合皮ではなく本革、確かにそれらしき匂いがした。車窓の景色はセピア色、遮光シートが貼られていた。


(ーーーえっと)


 隣でiPadの画面をスライドしている宗介の横顔はいつもと違って見えた。何処か厳しく張り詰めた雰囲気、近寄り難い存在だった。


「市役所まで行ってくれ」

「かしこまりました」


 運転席に座る初老の運転手の姿勢は良く、ハンドル捌きも滑らかだ。ウインカーが右折レーンで点滅し、果林を載せた|厳《いか》つい黒塗りの車は朝来た道を戻っている。


(えーーと、如何してこうなったのかな?ん?)


 果林は意を決して尋ねてみた。


「宗介さん」

「なんでしょうか」


 そう言って振り向いた面立ちは優しい笑顔で安堵した。


「あのー、お土産といい離婚届といい、何故、如何してという感じなのですが、宗介さんと私、以前何処かでお会いした事ありましたか?」


 宗介は片側三車線の大通りの中央を指差して懐かしそうに振り返った。


「あの辺りですよね、木古内洋菓子店」

「あ、はい」

「あれはーーー私がまだ本部長だった頃かな、よく通っていたんですよ」

「通っていた、お客様だったんですか」


 果林は通り過ぎる交差点で身を乗り出した。


「いや、新社屋ビルの建設が決定した頃、立ち退きをお願いしていたのですがその中の数軒が立ち退きを拒否したんです」

「ーーーーーーーーあ、うちですね」


(さすが強欲ババァ)


「それでよく通っていて、ある日突然アルバイトの女性が現れたんですよ」

「そんな話は聞いた事はありませんが」

「残念な事にその方がお嫁さんだとお聞きしてガッカリしました」

「ガッカリ」

「はい、ガッカリしました」


 何故自分が嫁だと宗介が肩を落としたのか意味が分からないでいるとレンガ造りの市役所が見えて来た。とうとう、とうとう晴れて自由な身になるんだと果林の胸は高鳴った。駐車場に到着すると運転席から流れるような動作で運転手が降りると後部座席の扉を開き|恭《うやうや》しく頭を下げた。


「すぐに戻る」

「かしこまりました」


「ありがとうございました」

「はい」


 宗介は脇目も振らず市役所の自動扉に足を踏み入れた。と、そこで果林は驚きの声を上げた。なにか忘れ物ですかと問われ首を左右に激しく振ったが先程の会話でとんでもない事を聞いた事に気が付いた。


《《本部長》》


代表取締役社長

専務取締役副社長

常務取締役

本部長


 以下、部長に次長と役職が続く。


(ーーーえ、本部長って宗介さんって偉い人なんじゃない!?)


 突然のカミングアウトに果林は慄いた。そして宗介は市役所のロビーでは浮いた存在だった。既製品ではない仕立てたスーツは上品な墨色、真っ白なカッターシャツに趣味の良い紺色のネクタイ、背筋は伸び上背もあり立ち居振る舞いに重みがあった。


(ーーー違和感しかないわ)


 果林が住民戸籍課の前で戸惑っていると宗介が屈んだ。


「お二人とも本籍地は金沢市ですか」

「はい」

「それならば戸籍謄本は不要ですね」

「そうなんですか」

「マイナンバーカードは持っていらっしゃいますか」

「はい」

「列に並べば手続きは終了です」

「お詳しいんですね」

「一度経験していますから」

「はぁ」


 宗介は如何やら離婚経験者の様だった。


「それでは書類とマイナンバーカードをお預かりします」

「はい、お願いします」


 手続きを待っている間、宗介は欲しいものがありますからと隣の席に座っていた。


「はい、これで手続きは終了です」

「ありがとうございます!」


 果林は目を輝かせて椅子から立ち上がった。


「おめでとうございます」

「離婚しておめでとうございますはちょっと違うような気がしますが」

「おめでとうございます」

「あ、はい。ありがとうございます」


 この後菓子工房で一悶着あるのだがそれよりももっと驚きの真実が果林を待ち受けていた。


「おまえ今まで何処行ってたんだよ!」

「何処って市役所」

「市役所って、なに、俺の自動車税払って来たのか」

「そんなものコンビニエンスストアでも払えるわよ!」


 |乳母日傘《おんばひがさ》で育った和寿は30歳になっても自分で税金を払いに行った事が無い。これは菊代の甘やかしが原因だが果林もその行動に片目を瞑って来た、いわば同罪だ。


(ーーーーーーーーはぁ)


 果林はサロンエプロンを取りに行こうとバックヤードに向かった。


「ちょっと待てよ」

「なに」


 すれ違い様に腕を掴まれ引き止められたがその部分から広がる気味の悪さで全身が鳥肌立った。果林は離婚して正解だと思った。


「で、市役所になにをしに行ったんだよ」

「離婚届を出して来た」

「はぁ?」

「離婚届を出して来たの!」

「はぁ?なに勝手な事やってんだよ!」

「和寿が出して来いって言ったじゃない!」

「言ってねぇよ!」

「青椒肉絲、昨日の夜の事も忘れたの!」


 和寿はようやく思い出し、あぁあれか、あれの事かと間抜けな顔をした。そして次の瞬間、銀色のボウルが宙を飛び果林の頭に命中し金属音を立て床に転がった。


「い、痛い」

「馬鹿か!冗談も分かんねぇのかよ!取り返して来いよ!」

「無理だからね!」

「このくそ|女《あま》!」

「裁判になったらこれを出すからね!」


 果林はポケットから人差し指大のボイスレコーダーを取り出した。このボイスレコーダーは数日前、宗介が果林に手渡した物だ。それを見た和寿の顔色が変わり右手を大きく振りかぶった。杉野恵美が小さな悲鳴を上げて立ちすくみ、振り下ろされた手が果林の左頬を激しく叩いた。


「ざけんじゃねえよ!」


 これまで物を投げられる事はあっても手を出される事はなかった。痛みと衝撃で我慢していた涙が溢れた。


「女は泣けば良いと思ってるんだろ!それ出せよ!」


 和寿はボイスレコーダーを果林の手から取り上げようと激しく争った。その間も録音機能は作動し赤いランプが点灯していた。


「なにをしているんだ!」


 突然、菓子工房に赤茶の革靴が飛び込んだ。


「お客様もいるんだぞ!良い加減にしろ!」

「ーーーーえっ、あっ」


 床に倒れ込んだ果林、その上に馬乗りになった和寿、それを見下ろした宗介の形相は鬼の様だった。宗介は杉野恵美を振り払うと和寿を果林から引き剥がした。


「おまえ、後悔させてやる」

「えっ、ふ、副社長」

「ーーーえっ!」


 肘を突いて起きあがろうとした果林はとんでもない言葉を耳にした。


(ふ、副社長!?)


 宗介は果林に手を伸ばすと軽々と抱き上げもう一度和寿に言い放った。


「後悔しても遅い!覚えておけ!」


 その怒りに満ちた面持ちに和寿は恐怖を覚えた。


「この社員は俺が預かる!2度とこの店には来ない!分かったな!」

「えっ、は、はい!」


 果林はシダーウッドの香りに包まれて|chez tsujisaki《しぇ つじさき》を後にした。

不倫され妻の復讐は溺愛 冷徹なあなたに溺れて幸せになります

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