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一人暮らしで自ら動かなければ何も進まない環境下で培われた習慣が休暇を利用して実家に帰省している朝でも発揮されてしまい、いつもと同じ時間に目を覚ましたリアムは、何も考えずに部屋を出て階段を下り、店の厨房とは別のキッチンに入る。
キッチンは自宅と比べれば古くて使い勝手が良いとは決して言えないものだったが、ここで日々食事を作っている母や祖母にとっては馴染みの場所らしく、既にエプロンを着けた祖母が鍋で何かを煮込みながら火の当番をするように新聞を読んでいた。
「Grüß Gott、ばあちゃん」
「おはよう、リアム。よく寝たかい?」
リアムの声に新聞から顔を上げて笑う祖母の頬にキスをし、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出したリアムにクララが昨日はエリアスと彼女と一緒に披露宴の店に行ったそうだがどうだったと問いかけ、グラスの牛乳を飲み干したリアムが少し考え込むように天井を見上げる。
「うん、美味かった」
「そうかい」
「気さくな店で、スタッフも皆親切だった」
シンクに腰を預けて笑うリアムにクララがそれは良かったと笑ったが、常連客らしき人がポメスを頼んでいて、驚いたことにばあちゃんが作ってくれたものと同じだったと懐かしそうに目を細める。
「ええ? ポメスにみじん切りをしたタマネギを載せてたのかい?」
「そう。アレを見て食いたくなった。ばあちゃん、作ってくれ」
シドニーの家では当然ながら料理を作ってくれと言える相手もおらず、つい冗談めかして祖母に強請ったリアムだったが、仕方がない子だねぇと笑いながらクララが立ち上がり、ジャガイモの用意をしてくれと言いながらタマネギを取り出す。
クララにとっては幼い頃に離れ離れになってしまった孫が食べたいと言ったのだから作るのは当たり前だった。だが孫にしてみればそうではなかったようで、グラスをシンクに置いたかと思うと、クララを背後から抱きしめる。
「どうしたんだい?」
「……料理を作ってくれる人がいるのは本当に幸せだな」
祖母を抱きしめながら感謝の気持ちで呟いた言葉に驚く気配が伝わるが、料理が好きな恋人を早く作れば良いと腕を撫でられて祖母から顔を上げたリアムは、恋人はいるけど料理は絶対に無理だなと、天井に少し前まで気まずい雰囲気だった恋人の顔を思い描く。
昨日、エリアスとその彼女のアグネスと一緒に食事をしているとき、今日も一日働いたから寝るという半ばヤケクソ気味なメッセージが過激なイラストとともに届き、一瞬己に対して腹を立てているのかと不安を覚えたリアムが今日もお疲れ様だったなと返すと、疲れているのに美味い飯がないなんて最悪だとも返されて呆然としてしまったのだ。
付き合った当初から食に興味の薄い人だと分かっていたが、付き合いだして三年が経過した今、劇的ではないがゆっくりと変化していることをそのメッセージから読み取ったリアムは、うん、悪いと返すがそれに返ってきたのはいつもの一言だった。
だからその言葉はナシだと笑いながら返したリアムだったが、そろそろ寝る時間だろう、お休みと返し、言葉にはならない何かが胸の奥に火を灯したような気分になったのだ。
だが祖母にとっては寝耳に水の事だったようで、恋人がいるのかと素っ頓狂な声で問い詰められて思わず祖母から距離を取ってしまう。
「い、いるよ」
「いつ出来たんだい?」
前回帰国したときはそれはそれは今にも死にそうな顔をしていたのにと、前回の帰国時の様子を思い出したクララが心配そうな顔になるが、あの後シドニーに帰った時に知り合った人だと告げ、慶一朗と初めて出会った時のことを思い出す。
二人の初対面はお気に入りのパン屋さんだったが、リアムが慶一朗に一目惚れをしたのは−そう間違いなくアレは一目惚れだ−店の前に停車した車の中で慶一朗が心底嬉しそうな顔で笑っているのを見たからだった。
これほどまで嬉しそうな顔で笑う男がいるのかと、まだ気分が半分やさぐれていたリアムにはその笑顔が純粋に眩しくて、つい目で追いかけてしまうほどだった。
その笑顔を持つ男がまさか当時隣の部屋に暮らすだけではなく、同じ病院で勤務しているドクターだとは想像もしなかった事を思い出し、自然と笑みを浮かべてしまう。
初めて出会った時や職場での意外な再会時にも穏やかな笑みを浮かべていた慶一朗だったが、紆余曲折を経て付き合うようになって分かったのは、あの笑顔をあの日見ることが出来たのは本当に奇跡のようなものだという事実だった。
表情も言葉数も少ない、どちらかと言えばいつも己が呼びかけそれに返事をする事が多く、今まで付き合ってきた彼女たちとは全く違うそれに少し戸惑いを覚えもしたが、リビングのソファで慶一朗を後ろから抱えながらテレビを見ているときも時折思い出したように呟く言葉に返すだけだった。
だが、その空気が齎すものは居心地の良さで、言葉数が少なかろうが表情が薄かろうが、己をクッション代わりに寄りかかってくる慶一朗を抱きしめていられるだけで満足していたのだ。
それがこの三ヶ月の間微妙な空気になったために失われていたことを思い出し、苦く笑ったリアムをじっと見つめていたクララは、本当に好きな人が出来たんだねぇとしみじみと告げて驚く孫の頬を撫でる。
「ポメスを食べるんだろう?」
「う、うん」
祖母の温かな手が奇妙に気恥ずかしさを覚えさせて少し頬を赤らめてしまったリアムだったが、幸せそうな顔をしていて安心したと笑われて目を瞬かせる。
「幸せそうな顔?」
「そう。今あんたすごく幸せそうな顔をしていたよ」
その恋人がよほど好きなんだろう、良いことだと笑うクララに限界まで目を見張ったリアムだったが、自然と握った拳を開いてもう一度握りしめた後、タマネギを刻み始めたクララの横に並んでジャガイモの皮を剥き始める。
「ばあちゃん……今俺が付き合ってるのは……年上の男の人だ」
「ふぅん……!?」
ジャガイモの皮を剥いている時の話題にはなり得ない唐突な告白にクララが聞き流しそうになってしまうが、年上の男との言葉が耳から脳味噌に到達した瞬間、手が滑って危うくタマネギのみじん切りを赤く染めてしまいそうになる。
「ばあちゃん、危ない!」
「危ないのはあんただよ! いきなり何を言うかと思ったら……!」
そんな冗談は刃物を持っているときに言うものじゃないと笑うクララにリアムが向き直り、冗談じゃないと穏やかな声で本当なんだと伝えると、ナイフをそっと置いたクララがリアムの真剣な顔を見上げて一度口を開き、そして閉じてきつく目を閉じる。
久し振りに帰省した孫から恋人はいるが男だと知らされた祖母の気持ちを思うと普段同性と付き合っていることを特に意識しないリアムでさえも罪悪感を覚えてしまい、何と言葉を掛ければ良いのかが分からなかったが、エプロンをきゅっと握りしめた祖母の手を見た瞬間、同じようにナイフを置いてクララを抱きしめる。
祖母ほどの年の人達に同性同士の関係を理解しろと言っても難しく、こうして抱きしめても拒絶されない事に胸をなで下ろせるものの、いつものように背中を抱きしめる手は無くて少し寂寥感を覚えてしまう。
拒絶はされないが受け入れられない、そんな感じかと祖母の心の内を思ったリアムが、ばあちゃんが幸せそうな顔をしていると言ってくれた人と今一緒に暮らしている、毎日本当に幸せだと本心を伝えると、腕の中でクララが何やら躊躇している気配を滲ませリアムがそっと離れる。
「……ばあちゃん」
「……い、きなりそんな事を言われると、こっちも困っちゃうだろ」
大切な話をするときはちゃんとそんな雰囲気を出してからにしなさいとリアムと視線を合わせること無く何かを取り繕う様に口早に告げたクララだったが、うん、突然に悪かったと謝られて意を決したように顔を上げると、そこには幼い頃手を離さざるを得なかった時と同じ顔で見下ろしてくるリアムがいて、握りしめていた手をエプロンから離すと、今ではすっかり立派になって抱き上げることなど出来なくなった孫をぎゅっと抱きしめる。
「ばあちゃんは古い人間なんだ、いきなりそんな事を言われると驚いて心臓が止まってしまうだろ?」
「……うん」
「と、にかく、今はその人と一緒に暮らしてるんだね?」
「うん」
いつだったか事故に巻き込まれたときもずっと世話をしてくれたと、祖母の小さくなった背中を抱きしめながら伝えると、エリアスは知っているのかと問われて無言で頷く。
「そうかい」
あの時、あんたの様子を教えてくれたエリアスからはそんな事は一言も聞かなかったから驚いたと苦笑するクララにうんとだけ返したリアムだったが、そういえば朝食をまだ食べていないだろう、ポメスも作るから一緒に食べようかと笑いかけ、俯いたままのリアムの頭にそっと手を乗せて髪を撫でる。
「――!」
大人になって頭を撫でられる事など滅多になく、それを当たり前の顔で出来る存在がいる事が不意にリアムの胸郭を軋ませ、その手を握って温かな良い匂いのする祖母の肩に額を押し当てる。
もし、今の恋人が女性だったら祖母にこんな顔をさせなかったのではないのか。
そう考えた途端、己が途轍もない罪を犯し祖母を苦しめているのだと気付き、きつく奥歯を噛みしめる。
生まれ育った街でただ日常生活を送っているだけで命の危機に曝される、それを逃れるために一家揃って街を離れてここへ引っ越し、それだけでは不安だからと見ず知らずの遠縁の男に預けられて言語も習慣も何もかもが違う国へと移住しなければならなくなったのはリアムが十歳の時だった。
もしもあの時、川に入ろうとするエリアスを何が何でも止めていればこんなことにはならなかったのだろうか。
今でも自分はあの街でエリアスと他の同級生達と一緒に楽しく、時には思うようにならない苛立ちを抱えながら日々過ごせたのだろうか。
そして、そんな日の中で好きになった女性と交際し、周囲の同年代の人達と同じように子供を抱き、祖母に顔を見せたりしていたのだろうか。
そう考えると、慶一朗以外の男女と付き合うつもりなどないリアムが子供を作り、祖母や両親に抱かせることなどほぼ絶望的な事だった。
あの日、軽い気持ちで川に入った自分たちだが、あの川はいつも見慣れていたものではなく自分たちを地獄へと運んでいく川で、己を愛してくれる人に苦痛を与えるものだったと苦く笑うと、塊のような息を吐く。
「……ばあちゃん、ごめん」
思わず出た謝罪の言葉にクララも咄嗟に何も返せず、己の手を握って何度も謝罪を繰り返すリアムを抱きしめることも突き放すことも出来ずただ見守ることしか出来ないのだった。
おい、クララばあさんと誰かに呼ばれて我に返ったクララは、一体どうした、何か悩み事かと常連客に苦笑されて引きつったような笑みを浮かべてしまう。
今朝思いもかけない孫の告白を受けて混乱していたのだが、客商売でそれを出してしまうのはいけないと気付き、生きていると色々あるねぇと笑うと常連客もそりゃそうだと肩を竦める。
そんなクララの様子を厨房の中からフリーダとマリウスが心配げに見つめているが、クララを気遣った常連客が昼からの仕事に戻ると店を出るのを見送り、今日の最後のランチの客が帰ったからとドアにクローズの札をぶら下げる。
「母さん、大丈夫?」
今朝、いつものように起きて家のキッチンに下りたフリーダとマリウスだったが、そこに広がっていたのは思い詰めたような顔で座り込むクララと、何かを作りかけていたように食材とナイフが放置されている光景だった。
母の様子がおかしいことにどうしたとその顔を覗き込むが、いつもは快活なクララの口からは明瞭な言葉が流れ出してくることは無く、ただただリアムの名前を呼び続けるだけだった。
朝から母の様子がおかしいこと、いくら呼びかけても部屋から出てこない息子の様子も気になっていたが、今日はまだ店を開けなければならないため、二人は母と息子の様子を気にかけつつも仕込み作業などをしていたのだ。
そして、ランチの客が帰ったのを機に母に大丈夫かと声をかけたフリーダは、ラドラーをくれと言われて目を見張る。
仕事終わりに酒を飲むことに反対するつもりは無かったが、飲めば眠くなるからと滅多に飲まない母が酒を欲しがる理由を知りたいと思いつつもラドラーを用意すると、同じように驚いている二人の前でクララが一息に飲み干してしまう。
「母さん、どうしたのよ」
一体何があったと母に椅子を勧めてその横に腰を下ろしたフリーダは、リアムのことだと切り出されて何かあったのかと天井を見上げつつ問いかける。
「……あの子をユーリに預けなければ、こんなことにはならなかったのかねぇ」
クララの口から流れ出すのは悔恨の言葉で、母の珍しく弱気なその言葉に目を丸くしたフリーダが、リアムに何かあったのかと母の顔を覗き込む。
「ユーリは最近どうしてるんだい?」
「え? 連絡は無いわよ。リアムが医師の試験を受かった年にもう一人前だから僕を自由にしてくれと言って何処かに行ったってリアムが前に言ってたわ」
あの子が働くまで世話をしてくれたことは嬉しいがと、従兄弟の子供の無責任さに忌々しそうに呟いたフリーダだったが、預けなければってどういうことと聞き返し、思いも掛けない言葉を聞かされてその表情のまま石化したようになってしまう。
「え?」
「……あの子、今恋人と一緒に住んでるらしいけど、その恋人は年上の男だそうだよ」
「リアムに、男の恋人……?」
あの子、ゲイだったのかと母が呟くと父がそっと席を立って厨房に入り、二人分のラドラーを持って戻ってくる。
「前回帰ってきた時は彼女に振られたと言ってなかったか?」
ラドラーに口を付けて溜息を吐いたマリウスが息子の帰省の様子を思い出して首を傾げたとき、店とプライベートエリアを区切っているドアが開き、スーツケースを持ったリアムが入ってくる。
「リアム? 何処かに行くの?」
「……少し、考えたい」
息子の様子に母が立ち上がってその前に駆け寄り、父も椅子の上で身体を捻ってどうしたんだと眉を顰めるが、祖母のクララが俯いてしまう。
そんな祖母の様子に気付いたリアムが唇を噛み、ばあちゃんに余計な心配を掛けてしまった、悪かったと俯き謝罪をするが、その声に被さるようにテーブルを殴る音が響き、音の発生源に三人が驚愕の顔を向ける。
そこには握りしめた手をテーブルに叩き付けたクララがいて、母さんとフリーダが恐る恐る声をかけると、あんたが考える以上に私が考えたいことだ、何処に行くと毅然と顔を上げてリアムを睨む。
「ばあちゃん……」
「いきなりあんなこと言われたら誰でも驚くだろ!? さっきも言ったけどね、あたしは古い人間なんだよ!」
あんたが年上の男と同棲している、その現実を受け入れるのにも時間が掛かるんだと、今までリアムが見た事がないような顔でクララが怒鳴り、その声に三人が首を竦めてしまう。
「何も出て行くことは無いだろう!? それとも何かい、あんたはその恋人と付き合っていることが悪いとか申し訳ないとか思ってるのかい!?」
祖母の啖呵としか言えない言葉に飲まれて何も言えなかったリアムだったが、腿の横でグッと拳を握ると祖母譲りの表情を浮かべた顔を上げる。
「思ってない。――ケイさんと付き合っていることは、俺の誇りだ」
あんなにも人として懐の深い人など見た事が無いと、共通の友人達が耳にすれば幻聴を聞いたのではと疑いかねない言葉を口にしたリアムが己の言葉に我に返り、うん、あんな人他にはいないと、そっとそっと何よりも大切な感情を思い出した顔で呟き、呆然と見つめてくる両親に顔を向けるとその大切な人が何よりも望んでいる笑みを浮かべて大きく頷く。
「父さん、母さん、俺が今交際している人は年上の男の人だ」
「!!」
「ばあちゃん――ダンケ」
「まったく。その人と一緒にいると幸せなんだろう?」
「うん」
祖母の言葉に衒うこと無く素直に頷いたリアムだったが、祖母の目に微かに涙が滲んでいることに気付き、そっと手を伸ばそうとすると逆にその手を掴まれて祖母の小さいが大きな身体に受け止められる。
「まったく――あんたが幸せならそれでいいよ」
年上の同じ医者なんだろうと笑うクララにリアムがその腕の中で頷き、すごく腕の良い医者で職場でも皆から頼りにされていると返し、祖母の頬にキスをする。
「ばあちゃんが受け入れてくれて良かった」
「前に帰ってきた時は死にそうな顔をしていたからねぇ」
女に振られて懲りて男が好きになった訳じゃ無いだろうと問われてもちろんと返したリアムは、まだ呆然としている両親に向けて肩を竦め、ちゃんと話をしたいから座って欲しいと椅子を勧めるが、皆がラドラーを飲んでいることに気付いて自分も飲むと厨房から父と同じようにラドラーのボトルを手に戻ってくる。
ラドラーで喉を潤して緊張感を和らげたリアムが固唾を飲んで見守る三人をゆっくりと見た後、今己が交際している人だと告げてスマホを取り出すと、二人で行ったキャンプでの写真を見せ、同じように固唾を飲んで反応を見守ってしまう。
「これが、俺が付き合っている人」
スマホの中からこちらに向けて穏やかな笑みを浮かべる、一見すればリアムより年下にも見える男の顔を穴が開くほど見つめた三人だったが、クララが綺麗な顔をしている男だと感心したように呟き、父がアジア系かと問いかけ、母は自分が知るアジア系の人達とはまた何かが違うと眉を寄せるが、祖父母と父がドイツ人で母が日本人だと伝えると、祖父母は何処の出身なんだと問われて首を傾げる。
「生まれ育ったのは日本だって言ってたから、日本に移住した人達かな?」
色々事情がある人だから詳しい話は聞いていない、だから良く知らないとリアムが肩を竦めると、恋人のことなのに知らないのかと父が目を細めて問いかける。
「そうじゃない。――家庭の事情が複雑で、家族の話をすればケイさんが精神的に不安定になる」
だから無理矢理聞き出していないがある程度の過去は知っていると、ここにはいない恋人の過去を思って痛みを堪えるような顔になってしまったリアムを父が黙って見つめているが、母が何かに気付いたようにスマホから顔を上げる。
「リアム、彼の名前は?」
「ああ、名前が長くて言いづらいから皆ケイって呼んでるけど、パスポートには杠慶一朗と書いてあった」
「ユ、ユズ……?」
「うん。発音しにくいから職場ではドクター・ユズと呼ばれてる」
「そうなのか。……ドイツ語名やミドルネームは無いのか?」
「それは聞いてないなぁ」
ドイツでは結婚した夫婦のどちらかの姓を名乗る事も元々の姓を名乗る事も出来るが、日本の場合は夫婦どちらかの姓になるはずで、日本語名ということはドイツ人の父親の姓は何だろうなと今更覚えた疑問に首を傾げたリアムだったが、腹の辺りから盛大な音が響いたことに気付き、さっきとは違った顔で三人が顔を見合わせて誰からとも無く笑い出してしまう。
「ランチにしようかね」
「今日のランチはもう無いけど、シュニッツェルを作ろうか」
テーブルからよいしょと声をかけながら立ち上がるクララにフリーダも同じように立ち上がり、家族のためのランチ作りを始めようとするが、マリウスが良く似てきた息子の肩をぽんと叩いて目を細める。
「リアム、その人と一緒で幸せか?」
その疑問は先程祖母にも投げかけられたもので、さっきとは違って一も二も無く頷いたリアムだったが、うん、その人といれば何が起きても乗り越えたいと思うし幸せだし何よりも俺の誇りだと少しの照れを覚えつつしっかりと父の顔を見つめれば、父が黙ってひとつ頷く。
「――いつかその人を紹介してくれ」
「ああ、紹介する」
だから今はランチの準備をしよう、お前も荷物を部屋に戻してこいと父に笑われて頷いたリアムは、ぽつんと取り残されていたスーツケースへ顔を向け、部屋に戻ろうと笑いかけて階段を上るドアを開けて出て行く。
リアムが出て行ったのに気付いた三人が顔を見合わせるが、私たちはあの子の選択を尊重しなければならない、例えそれが自分たちの理解の範囲外であってもとフリーダが寂しそうに呟きクララも同意するように頷くが、リアムが己の恋人を誇りとまで言うような相手なのだ、きっとその選択は間違っていないとマリウスが二人の肩を抱き、さあ、腹を空かせた熊のような息子に美味い飯を食わせようと努めて明るい声を出すのだった。