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久しぶりに抱いたミシェルは暖かくて小さくて、でもとても大きく感じたレイラは、その後新たな主治医となったバロウズからのアドバイスをしっかりと脳裏に刻み、病院から先日とは全く違った気持ちで帰宅する事ができたが、まだ心のどこかではケヴィンを信じたい気持ちもあった為、落としたタバコとその中に入っていたドラッグらしきものについて問いただすのはどうしようかと思案していた。
ミシェルをアナに預けてバロウズと一緒に別室に入った後、バロウズとはまた違う穏やかな笑顔を浮かべ、レイラの身を案じるように優しい言葉で迎えてくれた男性がいたが、その人とバロウズと三人でミシェルの容体について少し語り、悪化する原因について教えてくれたのだ。
表情だけを見れば胡散臭さすら感じるバロウズと男性だったが、言葉は丁寧で分かりやすく、またミシェルの回復を第一に考えてくれていることがレイラにも分かった為、全て任せると頷き、明日ミシェルが飲んでいたミルクを持ってくることを再度約束したのだ。
病院側としてはやはりケヴィンが面会に来た後に容体が悪化していることから彼が何かしているのではと疑っていたようで、それを確かめるためにもミシェルとケヴィンの接触をさせないようにとICUへの移動を提案したそうだった。
ケヴィンが定期的に病院に来ていた事すら知らなかったレイラは、信じられないが自宅でのあの嘆く顔も言葉も嘘だったのかと呟くと、残念ながらそのようですと教えられて己が信じていた世界に亀裂が入った気がし、ふらつきそうになった時、ふと昨日から今朝にかけての体の不調について思い出す。
生理前でもないのに、昨日はどれだけ寝ても眠気が取れず、靄がかかった世界で一日が過ぎたようなぼんやりとした一日で、食事をしたのか、シャワーを浴びたのかすらも思い出せず、その間ケヴィンが何をしていたのか、そもそも家にいたのかすらも思い出せなかった。
原因がわからないぼんやりとした時間は今朝まで続いていたが、面会に来るために頭をすっきりさせようとシャワーを浴びた時もまだ頭はぼんやりとしていた。
何故こんなにもぼんやりしてしまうのか。今までこんな事など経験がなかった。
ミシェルの事で疲れていたからとケヴィンに優しく囁かれて納得していたが、果たして本当にそうなのか。
幼い娘-しかも自身と血の繋がりのある娘の治療を妨害するような男-最早夫ともパートナーとも呼びたくなかったが、同居している娘の母親、つまりはレイラに何もしない可能性はあるのかと、己のことながら少し距離を置くように呟いたとき、暴力的な言動や暴力そのものの後、いつも反省している顔で抱きしめてキスをしてきたが、もしもそれらがすべて計算ずくのものだとすれば。
そこまで考えた瞬間、今己が向かっている自宅がまるで底なしの闇が口を開いて待っている場所に思え、足が進まなくなってしまう。
頭に靄がかかってしまったのはタバコのボックスに一緒に入れていたドラッグを飲ませたからではないのか。
あの日リアムと病院で口論になった興奮のままケヴィンに訴えたが、弁護士のジョーイに話しているとは聞かされた覚えがあったが、主治医の変更を願い出たことは今日病院に行って初めて分かったことだった。
それ以前に、ミシェルの前の主治医がリアムだとはっきり知ったのは先日病院の廊下で再会した時だった。
ミシェルに面会させてもらえないとは聞かされたが、主治医が誰で誰がその指示をしているのかまで教えられていなかった事に今更ながら気付き、膝が震えるほどの衝撃を受ける。
ケヴィンに全て任せていたが、もしもそれが、リアムを貶める為の行動だとすれば。
病院でもバロウズがあまり考えたくはないがそれしか思い浮かばないと言い、同席した男性も重々しく頷いたのは、ケヴィンがタバコの中に入れていたドラッグをミシェルに飲ませていたという事実を口にしたときだったが、そんな暴挙にも思える危険な行為を行ったのが、端的に言えばリアムに対する嫌がらせだとすれば、レイラには思い当たる節があった。
それは、ケヴィンが付き合いだした当時から酷く酒に酔った時に口に出していた、リアムと己を比べて秘かに嘲っているのだろうという言葉だった。
リアムに対する劣等感とそんな劣等感を抱く相手から好きになった女を奪い取ったという優越感があり、その複雑に入り混じった感情がリアムに対する嫌がらせじみた行動にケヴィンを走らせたのだとしたら。
リアムが小児科医であることは知っていたため、彼を貶めるためにミシェルを利用しているのだとすればと、突飛なことを思い浮かべる己の頭にそんな筈がないと否定してしまうが、前日までレイラ自身が手に負えないと感じるほどよく泣きよくミルクを飲んだミシェルが突然ミルクを吐きホームドクターにかかっても原因がわからないと言われるほど急激に容体が悪化するだろうか。
悪化するというよりは、病院で言われたように彼が手を出して悪化させているのではないのか。
その思いが脳味噌にこびりつき、今まで己が信じていた男が実は自分にも娘にもただ危害を加えるだけの存在だったのではないかと、出会いのころまで記憶が遡っていき、思い出されるすべてがレイラに威圧的な言動をとり、実際に気に食わないことがあれば暴言を吐き壁を殴ったり物を投げつけたりという、よく語られる典型的なDVの行動だった。
知らず知らずのうちに自分はケヴィンからDVを受けていたのではないか。
その考えに到達した彼女の足は力を抜いてしまい、その場に座り込んでしまう。
自分一人がDVを受けているだけならばまだ自身を馬鹿な女だと嘲笑うだけで済ませられるが、幼いミシェルには何の関係もないことだった。
自分よりも立場も実力も経済力も何もかもが上のリアムに対して抱く劣等感。それを反発心に変えることなく、ただ弱い存在であるレイラやミシェルにぶつけることで憂さ晴らしをしていたのだとすれば最低な男だった。
最低という単語が脳裏に浮かんだ時、リアムとの別れの日が蘇り、自嘲に肩を揺らしてしまう。
あの時もしもこの未来が見えていれば、子供が欲しいというただその一心で彼をあんなにも手酷く振っただろうか。
自分にもほかの人にも平等に優しいリアムを、いつ頃からただ優しいだけの人だと思うようになったのか。
付き合っていた当初は優しい人だと、一緒にいて安心できると思っていたはずなのに、その安心がいつしか物足りなさへと変化をし、子供が欲しいという彼女の願いを聞き入れてもらえない事への反発から連絡を絶ち、その間はまるでパートナー募集中の女の顔で飲み歩いていたのだ。
そんな中で出会ったケヴィンの本性まで見抜けず、お前は俺の言葉だけを聞いていればいいというような強い言葉でリードしてくれる男に惹かれてしまったのだ。
その男が念願叶って生まれた娘や己に虐待をするような最低な男だと見抜けもせずに、物足りなさすら感じたリアムを捨ててケヴィンへと走った自身を今頃嘲笑しても仕方がなかった。
通行人に訝る目で見つめられている事に気付いた彼女は何とかその場で立ち上がり、駅から自宅への道すがら、あのままリアムと付き合っていればこんな事にはならなかったのだろうかと考えるが、当然ながら今とは違う未来が訪れていたはずだと自嘲するが、ケヴィンにはリアムにない良い面もあると無理矢理己を納得させる言葉を呟きつつ何とか自宅へと到着する。
ドアを開けて中に入ればいつものように薄暗い室内で、ケヴィンの名を呼びながらリビングに入ったレイラだったが、キッチンのテーブルで何か作業をしていたらしいラップトップが開いたままで、その横には真新しいタバコのパッケージが封を切られて二本程減っていた。
ラップトップの横にはウィスキーのボトルとグラスがあり、氷が解けたのか水滴をテーブルに染み込ませていた。
病院から帰宅後、気分が悪いから酒を飲みタバコを吸ってネットでも見ていたかゲームでもしていたのかだろうと予測をし、そんなことをしている暇があるのなら働けばいいのにと、今までは自宅で詳しくは分からないが仕事をしていつも傍にいてくれる安心感を与えてくれたケヴィンの存在が急に疎ましく感じるようになり、溜息一つでグラスを片付けようとした時、ラップトップに手が触れて幾何学模様が不規則に動いていた画面が止まり、一瞬目を疑うような画像が彼女の目に飛び込んでくる。
「何、これ…?」
モニターにはいくつかの画像や書類が開いていて、開いているメールアプリには振込終了と書かれた未開封のメールがずらりと並んでいた。
その下に半分ほど見えている画像は男女の裸が見えていて、何をしている最中なのかが一目で理解できてしまうものだった。
ケヴィンがこの手の動画を見ていることも知っていたし、こちらの体調などお構いなしに関係を持ちたがることも分かっていたが、その画像の女性はどう見てもレイラ自身だった。
髪の色も顔の特徴も、意識が朦朧としているように焦点の合っていない目の色も、全て彼女が自分自身だと認識しているものと同じだった。
「まさか…っ」
震える手でマウスを握り画像を前面に表示すると、どうやらそれは動画を一時停止していたもののようで、クリックすると同時に動画の再生が始まり、止まっていた音声も再生されてしまう。
ラップトップのスピーカーから流れだしたのはいつ録画していたのかも覚えていない、ケヴィンとのセックスの最中の動画で、さっきとは比べられない程の震えが彼女の体を襲う。
その場にへたり込んで込み上げてくる吐き気を何とか掌で抑えていたが、その時、動画の中にケヴィンとは違う男の足が映り、斜め後ろの角度でその顔が少しだけ見えるが、それがケヴィンの友人でありミシェルの件について病院に直談判をしてくれると言っていた弁護士のジョーイ・エヴァンスだと気付いた瞬間、彼女はシンクに駆け寄ってその場に胃液を吐いてしまう。
「────!!」
彼女が苦しそうに嘔吐している背中に、記憶にない彼女の生体反応的な喘ぎ声と男二人の下卑た笑い声や濡れた音が聞こえ、頭がくらくらとしてしまう。
今己が目にしたものは現実なのか。これは夢か何かで、目を覚ませば言葉は乱暴でもそれでもミシェルを可愛がり己を愛してくれているケヴィンがいるのではないのか。
そんな思いから水で口を漱いでタオルで拭った彼女は、冷蔵庫からビールを取り出して栓を抜くとボトルのまま飲み干す。
これは悪い夢だ、早く目を覚まさないとミシェルがミルクを欲しがって泣くと、記憶が混濁しているような言葉を呟くが、スピーカーから聞こえてくる喘ぎ声が不愉快で、動画を止めようとマウスを再度握って停止ボタンを押す。
その時、まだ手が震えている為にマウスが他の隠れていたウィンドウに触れ、メールアプリが前面に出てくるが、動画の代金を振り込んだ、続きを見るためのパスワードを教えてくれというメッセージがいくつも目に飛び込んでくる。
ケヴィンはもしかしてこの動画をネットで部分的に配信し、全てを見たい人から金を受け取っていたのではないのかという、彼女にとっては到底信じたくない想像が脳裏を過り、まさかと思いつつもケヴィンが返信したらしいメッセージに記されているURLをクリックすると動画閲覧ソフトが立ち上がり、完全に意識を喪失しているレイラが全裸で映し出され思わず悲鳴を上げてしまう。
「い、や…いやぁあああ!」
その悲鳴は家中に響き渡り、頭を抱えてその場に蹲った彼女だったが、背後から聞こえてきた何だという不機嫌な声にキッと目を吊り上げて立ち上がる。
「何だ、帰ってきてた…って何勝手に人のパソコン見てんだよ!」
どうやらケヴィンは出て行っていた訳ではなくベッドで寝ていただけのようで、レイラの悲鳴で目を覚ましてキッチンにやってきたが、まさかPCを見られているとは思わなかったのか、彼女の蒼白な顔と震える体から動画を見たことに気付き、勝手に見るなと叫んでラップトップを乱暴に閉じる。
「今のはなに!? ねえ、何なの!?」
「は? 何のことだよ、知るかよ」
俺はミシェルに面会できなくて腹が立っているんだ、ジョーイに頼んであの病院を訴えてやる、その準備をしていたんだと言い放った後、レイラの背筋にいやな汗が流れ落ちそうな笑みを浮かべ、お前の娘のせいで金がかかる、だから母親が金を稼ぐのが当たり前だろうとも言い放つ。
「な、によ、それ…っ!」
お前の娘ってあなたの娘でもあるでしょうと、ぐっと拳を握って真っ直ぐにいつかのようにケヴィンを睨んだレイラだったが、あの時と同じようにケヴィンが大声でレイラを威圧するように怒鳴り、腕をつかんでリビングのソファに投げ出す。
あの時は首を絞められ窒息しかけた彼女だったが、あの後、苦しむレイラに泣きながら悪かったと謝罪をしたケヴィンの涙も言葉もすべてが嘘であり、自分の思うように操るためのものだと気付いていた今、本気で抵抗し手足をばたつかせてケヴィンの体の下から何とか抜け出すと、悪魔のような笑みを浮かべたケヴィンが手を伸ばしてくる。
「いや! やめて!」
悲鳴を上げ床の上を後退った彼女だったが、ケヴィンの手が足首を掴んで力いっぱい引っ張られた結果、反動でソファに体を強かにぶつけてしまう。
その痛みに悲鳴を上げることもできなかった彼女は、腹を踏みつけられる痛みに体を折り曲げるが、見上げたケヴィンの顔に残忍としか言えない笑みが浮かんでいる事に気付き、ああ、本当に己は何と愚かな選択をしてしまったのだろうと後悔の言葉を脳裏に浮かべ、その中心に優しく見守りいつでも抱きしめてくれていたリアムの顔も浮かべると、下腹部を中心に感じる激痛にただ悲鳴を上げ続けるのだった。
全身がズキズキと痛む中で意識を取り戻したレイラは、痛みを覚えているということは生きていることだとぼんやりと考えるが、少し離れた所から苛立っているようなケヴィンの声が聞こえてくることに気付き、何とか寝返りを打って己がリビングの床に寝ていた事を知る。
ケヴィンの声は途切れ途切れだったが、ミシェルの事を言っているのか、あのガキだの入院費がどうのと乱暴な言葉が聞こえ、次いで保険金の請求が出来るのか、書類の方はどうなっているといった、己の予想通りに進まない事態に苛立ちを覚えているように何度も舌打ちをしていた。
会話の断片からも彼女がああと思わず呟いてしまう事実が判明し、本当に過去の己に対してどれ程男を見る目がなかったのかと怒鳴りたくなってしまう。
昼夜関係なく良く泣くミシェルだったが、ある日突然ミルクを飲んで吐くようになってしまい、ホームドクターの紹介状から今入院している病院へとケヴィンが連れて行ってくれたのだが、それらすべてはミシェルが生まれてすぐにレイラが加入した彼女の保険金目当てだったのだ。
保険金を得るためにミシェルを殺すのではなく治療の妨害をし、入院期間を長引かせて支給される金額を増やそうとしたのか、それとも弁護士のジョーイと共謀してあの病院から慰謝料でもふんだくろうとしていたのだろうか。
入院費や治療費を支払えば保険金などほとんど手元に残らない上、病院を訴え慰謝料を手に入れるためには裁判をしなければならず、その費用だけで保険金などあっという間に消えてしまうだろうに、何故かそれを入手できると思い込んでいるケヴィンが哀れだった。
だが、その愚かで哀れな男に命よりも大切なミシェルを苦しめられている現実が許せなかった。
己にもっと人を見る目があれば。優しいだけの人は退屈だからと刺激を求めて強引な男に走ったが、その結果がこの様だと小さく肩を揺らした彼女だったが、自分自身が痛めつけられる事については文句を言うつもりもなかったが、ミシェルを苦しめている事だけは許せなかった。
「…ミシェル…馬鹿なママでごめんね」
今はここにいない愛娘に小さく謝罪をしたレイラだったが、あの動画の配信で予想以上に金を稼げた、次も考えているがさっき反抗的な態度を取ったから軽く殴った、全身痣だらけで見栄えが悪い、痣が薄くなったら次の動画を取ろうと下卑た笑い声交じりのそれに耳を塞ぎたくなるが、ふと視線を上げた先にリビングのテーブルで作業していたらしいラップトップがあり、これがある限り薬物で意識を失っている間に撮影されたケヴィンとその友人で弁護士のジョーイの二人が己を凌辱している動画が売られ、二人の懐を温めるのだろう。
最低な男二人の小遣い稼ぎにこれ以上利用されるのは真っ平だったし、何よりもミシェルへの虐待も許せなかった。
ジョーイはどうすることも出来ないが、ケヴィンはそこにいるのだ。
己に反抗的な態度を取ったという理由で激高し好き放題殴る蹴るの暴行を加えたレイラが意識を取り戻した事に気付いていないだろう。
だから彼女は最後の力を振り絞るように立ち上がり、何やら口早に捲し立てながらリビングに戻ってきたケヴィン目掛けてラップトップを頭上高く持ち上げると、そのまま渾身の力で振り下ろす。
ケヴィンの驚きに見開かれる双眸に悪魔のような形相の女が映っていたが、ああ、自分もこの男と同じ悪魔になってしまった、そんな女にミシェルを育てる資格などないと笑い、頭から顔へと血を流しつつ驚きの顔のままスローモーションのように床に倒れるケヴィンを無表情に見下ろしたレイラは、ケヴィンに叩きつけたことで真っ二つになったラップトップを片手にキッチンに向かい、小さな食器棚を開けてミシェルが飲んでいるミルクの缶を取り出す。
虐待の果てにパートナーを殴り殺した母親の存在は、ミシェルがこの先幸せになるのに不必要なものだろう。
そしてそれと同じだけ、今己が殴った父親の存在も不要だった。
ミシェルのミルクにドラッグを混ぜて入院を長引かせた目的が保険金で、その根本に存在しているのがリアムに対する劣等感であることも知らせる為にはこのミルクを調べてもらい、新しい主治医になったバロウズに預けたものと同一の成分が検出されるのを確かめてもらわなければならなかった。
椅子の背に引っかけてあった袋にミルクの缶を詰め、ラップトップの残骸をテーブルに投げ捨ててベッドルームへと向かったレイラは、小さなベッドからミシェルがいつも機嫌の良さそうな声を上げて手にしていた小さなぬいぐるみを手に取ると記憶に刻むように頬を摺り寄せ、同じようにもう一つのぬいぐるみも手に取ってベッドルームを飛び出す。
再度キッチンに戻って袋に理由は分からないがラップトップの残骸とぬいぐるみを突っ込んだ彼女は、頭から血を流したままのケヴィンを一瞥して動かない事を確かめると、彼の手から離れた床に転がっているスマホを素早く拾い上げて袋に突っ込み、己の財布やスマホを手に、暴行の痕跡が激しく残る己の顔を意識することなく家を飛び出す。
アパートの階段を駆け降りてくる顔中にアザのある女性の姿に通りすがりの人たちがギョッとしてレイラをまじまじと見つめてしまうが、そんな視線にも目もくれずに大通りに裸足のまま飛び出すと、偶然通りかかったタクシーを停めて驚くドライバーにミシェルが入院している病院の名前を告げて助手席に乗り込む。
「お願い、急いで病院に行って!」
ドライバーが鬼気迫るレイラの言葉に無言で頷き、体が痛くなければシートベルトをしてくれと頼むと、レイラが無言でベルトを引っ張る。
彼女が乗ったタクシーが車の流れに乗って病院へと向かったのを確かめた時、レイラの口からようやく安堵のため息がこぼれ落ちるのだった。
リアムが用意をした晩御飯を、自宅で食べるときの習慣になっている、ダイニングテーブルに二人肩を並べて食べ終えた慶一朗は、リアムが希望したことから庭に置いたテーブルにコーヒーとビールのボトルを置き、リアムにハイバックチェアを薦めて自らはハンモックチェアに腰を下ろしてゆらゆらと揺れながら夜空を見上げる。
「・・・ケイ」
「どうした?」
「うん・・・ドクター・バロウズは、快く、引き受けて・・・」
「ああ、安心しろ。あいつは癖の強い奴だけど、友人を見捨てたりするような癖は持っていない」
ミシェルの主治医をバロウズに依頼する事をリアムに提案したとき、彼の為人を良く知らないが慶一朗が推薦してくれるのだから大丈夫だろうと、よく知らない同僚のバロウズよりは慶一朗を信じていると納得した顔で頷いたリアムに安心させるように笑みを浮かべつつハンモックチェアを揺らし、良かったと安堵の声と溜息を聞いてそちらへと顔を向ける。
ハイバックのチェアでゆったりと同じように夜空を見上げながら、これでミシェルの治療が進む、アダムスと面会させなければ原因がはっきりすると、まだ掠れて途切れる声で良かったと呟くリアムに慶一朗が悔しくないのかと小さく問えば、不思議そうに首を傾げられるが、ミシェルの容体が良くなるのなら構わないと目を伏せられる。
その、自己主張のなさにも感じるそれに慶一朗が瞬間的に苛立ちを覚え、ゆらゆら揺れていたチェアから飛び降りリアムの膝の上に飛び乗って愛嬌のある顔を両手で挟んで至近距離で睨みつける。
「お前は・・・っ!」
どうしてそんなに自分を押し殺し、もしかするとお前を貶めようとしている人に対しても優しい顔を見せるんだと、自分では考えられないと歯痒そうに吐き捨てると、ヘイゼル色の双眸がゆっくりと姿を見せ、お前には呆れられるかもしれないけれど、これが俺だからと、さっきとは違う自然な強さの声でリアムが答えると、慶一朗が盛大な溜息を吐いて肩に額を押し当てるように体を丸める。
「・・・バカ」
「うん。俺も、そう思う」
「お人好し」
「・・・うん」
「自分よりも人のことばかり考えて・・・それでも笑ってられるなんてバカだ」
「うん」
丸められた背中にそっと手を宛てがい、バカとお人好しを繰り返す恋人をそっと抱きしめると、額に褒め称えるようなキスが落とされる。
「────そんなバカが・・・好き、な俺も、多分バカなんだろうな」
二人揃ってバカかと笑う慶一朗の背中を抱きしめ、鼻先にキスをしたリアムは、言葉の割には優しい目で見つめてくる恋人に他意のない笑みを見せると、不満を訴える形に開く唇にキスをする。
「・・・後二日、我慢してくれ」
その言葉は慶一朗のものだったが、リアムに宥めるように言われて背中を撫でられ不満そうに唇を歪めた慶一朗は、ふんと鼻息で返事をすると、リアムの分厚い胸に寄りかかり、テーブルに置いたビールを取ってもらう。
「ケイ、重い」
「お前より軽いからガマンしろ」
どういう理屈だと一瞬驚いたように目を見張った後、楽しそうに肩を揺らして笑うリアムに慶一朗も次第におかしみを感じ始めたのか、ビールを一口飲んでテーブルに戻すと、頭を抱き寄せるように腕を回して身を寄せる。
「・・・今回の件が終わればキャンプに行こうって言ったのを覚えているか?」
「もちろん」
「二人きりになれる場所がいい」
「・・・キャンプ場を調べておこうかな」
慶一朗の口から出たその言葉の裏にある思いを間違わず読み取ったリアムは、慶一朗の腰に腕を回して肩に顔を寄せ、二人きりになれるキャンプ場を探そうかと、昨日よりもさっきよりもはっきりと出るようになった声で約束をし、慶一朗の手がやんわりを頭を撫でてくれる心地よさに目を閉じるのだった。
レイラがケヴィンが今までミシェルや己に対して働いていた虐待の証拠になる品々を詰めた袋を片手に、救急救命外来に駆け込んだ後、ミシェルに飲ませていた粉ミルクを調べてほしい事、ケヴィンをこのラップトップで殴ってしまい、血を流して自宅で倒れている、殺してしまったかもしれない事を、主治医のバロウズや警察に必ず伝えてほしいとドクターの手を掴んで視線を合わせると、リアムに、ここの病院で働くリアム・フーバーに随分と迷惑をかけた、レイラが謝っていたことも伝えてほしいと訴える。
彼女のその訴えに治療の手を一瞬だけ止めたドクターが頷き、今の言葉は全てバロウズ医師やフーバー医師に伝えるから安心しろと彼女の手を撫でると、心底安心したようにレイラの口元に笑みが浮かぶが、ドクターの手からするりと彼女の手がシーツの上に落ちる。
「!!」
「バイタルチェック!」
レイラの指先に付けられた心拍数を計測する機器へ素早く目をやり、心拍数や脈拍が低くなっているがそれでも落ち着いている事を伝えると、伝えたい事を全て伝えた安心から失神したのかと判断したドクターは、今出来る限りの治療を行い、意識を取り戻した時に詳しい話を聞こうと周囲のスタッフに伝えるが、メモと呟いてタブレットに殴り書きをする。
「ドクター?」
「この患者が言った事だ────フーバー医師に謝っておいてほしいってことは、最近問題になっていたあの乳児の関係者だろうな」
「そうですね・・・荷物の中に身分証明書がありました」
袋に入っていたのがモニター部分が折れてキーボードだけになったラップトップと、残り少なくなった粉ミルクの缶、二台のスマホと身分証明書が入った財布だと伝えると、警察に通報するべきだなと別のスタッフが頷き、そちらの手配は任せる、フーバー医師には明日伝えること、今は彼女の治療を優先することを指示し、意識を失ったレイラの治療を始めるのだった。