「……わあ」
思わず声が漏れる。
天井から吊り下げられている100を超えるワイングラスにピンク色の照明が当たっている。
篠崎は慣れた様子でカウンターに座ると、隣に由樹を座らせた。
「岬君。いらっしゃい。2軒目?」
40代くらいのマスターが、篠崎を見ながら両手をカウンター裏のシンクに付いている。
「ああ。軽めで頼むわ」
篠崎が言うと、
「了解」
と言って今度は由樹を覗き込む。
「かわいいね。後輩?」
「そ」
言いながら横目で由樹を見る。
「こいつはソフトでいいや」
言われたマスターは視線を由樹に戻す。
「本当にソフトでいい?」
「あ、はい。お願いします」
マスターがグラスを取りに移動すると、篠崎は耳の上あたりをかきながら、欠伸をした。
「……お疲れのところ、今日は、ありがとうございました」
改めてお礼を言うと、カウンターに肘をかけながら、少し覗き込むように距離を詰めた。
「酔い、さめてきたか?」
「……あ、はい!」
苦笑いして頷くと、篠崎はふっと鼻から息を抜くように頬杖をついた。
「この位置関係も、あと数日だな」
「……あ」
確かに篠崎が自分の右側にいる、事務所の席順と同じだ。
「そう、ですね」
途端に切なくなって、胸の奥がどんよりと痛む。
「まあ、別に」
言いながら篠崎が軽く座り直す。
「湿っぽくするつもりで呼んだんじゃねえんだよ」
そうだ。自分にも、しなければいけないことがある。
「あ、あの、篠崎さ―――」
「はい。岬君。オーガスタセブンでよかった?そっちの彼にはパッソアオレンジとレモンのフルーツジュースにしたから」
言いながらマスターが濃いオレンジ色のカクテルを篠崎に、薄いオレンジ色のジュースを由樹に渡す。
「そんじゃ、まあ」
篠崎がグラスを軽く持ち上げる。
由樹は両手でグラスを持った。
「はい、乾杯」
グラスとグラスが合わさり、高い音がする。
由樹は焦点が回らないことを確かめると、気持ちを引き締めるために、冷たいジュースを一気に喉に流し込んだ。
いつどうやって切り出すか。
由樹はそのことばかりを考えていた。
篠崎は篠崎で、由樹を誘ったものの、カウンターの中にいる随分仲がよさそうなマスターを交えて雑談ばかりしていて、仕事のことも、今後のことも、そして由樹自身のことも、特別な話があるわけでもなさそうだ。
でも……。
言わなければ。
紫雨との約束でもある。
ここで振られなければ、自分は前に進めない。
篠崎を忘れられないどころか、千晶とも向き合えない。
次の人生に、進めない。
「…………」
由樹は息を吸い込んだ。
「しの………」
「今日は来ないの?」
意を決して言おうとしたところで、マスターがコンマの差で早く口を開いた。
「誰?」
「佳織(かおり)ちゃん」
(………え)
突然でた固有名詞、しかも女性の名前に、由樹は凍り付いた。
「あー、呼べば来るけど?」
篠崎は少しだけ面倒くさそうに言った。
「呼ぶ?」
「あ、いや、別に俺はどちらでも」
マスターが胸の前で手を振る。
「いいよ。どうせこの後泊まることになってるから、呼ぶか」
篠崎がポケットから携帯電話を取り出す。
「………っ」
(なに、この展開……)
由樹は焦って篠崎を見た。
その視線に気づいた彼は、由樹に向かって微笑んだ。
「怯えんなよ。取って食うような女じゃないから」
「…………」
由樹は理解した。
今、自分は、篠崎に直接振られるのではなく……
物理的に振られようとしている。
ドアに取り付けられたベルを鳴らしながら入ってきた女性は、下手したら由樹よりも背が高いかもしれなかった。
ヒールの踵をコツコツと鳴らしながら彼女が入ってくると、テーブル席の男性グループから口笛が飛んできた。
そうされるのが自然なほど、彼女は美人だった。
「佳織ちゃん」
マスターが声をかけなくても分かった。
(これが、佳織さん。篠崎さんの、彼女………)
佳織は篠崎の肩にふわっと手を掛けると、隣に座る由樹を覗き込んだ。
「あら、この子は?」
年齢は篠崎と同じくらいか少し下、というところだろうか。オレンジのカラーコンタクトをしている切れ長の目は、少し怖く感じた。
「俺の後輩。ほら新谷、挨拶」
「あ、はい!」
慌てて姿勢を正す。
「時庭展示場、営業の新谷と申します。篠崎マネージャーには、いつも大変お世話になっております!」
言うと彼女は少し馬鹿にしたように篠崎を振り返った。
「だって。ちゃんとお世話してんの?」
篠崎も笑う。
「してるわ!」
「へえ……」
佳織は笑うと、「よろしくね」と言って、篠崎の脇にではなく、なぜか由樹の隣に座った。
「おい」
それを見て篠崎が呆れたように笑う。
「さっきそいつに『取って食うような女じゃないから安心しろ』って言ったばかりなんだよ。あんまりちょっかいかけてくれるなよ」
「あーら、失礼しちゃうわ」
由樹は左に視線を戻した。
「いいじゃんねぇ?普段こんなおっさんしか相手にしてんだから、若くてかわいい子を試したくなるのも、わかってもらわないと」
(…………)
いきなり始まったアダルトな会話に、由樹は高身長な二人に挟まれながらますます小さくなった。
(これ、さすがに……告白とか無理です。紫雨リーダー…)
心の拠り所が無くなり、ひと月前には考えられなかった相手にすがり涙目になる。
(てか、これ、告白する必要ないんじゃ…。もう振られてるんじゃ…。)
ジュースを飲むふりをして、左側に座る彼女を見る。
背中の半分ほどを覆っている髪の毛は、茶色でサラサラのストレートだ。
女性にしては少し色素が濃い肌は、若々しく光を跳ね返していて、ばっちり施しているアイメイクとの相性がいい。
ピンクベージュのリップは控えめで、彼女が身に着けている黒いタンクトップとロングスカートによく似合っている。
一見して“イイ女”である彼女は、篠崎と並んで歩けば、道行く人たちの嫉妬と羨望を一気に集めることになるだろう。
(お、お似合いです……)
由樹は心の中で敗北宣言をしながら、足元に置いてあったバッグを手繰り寄せた。
(ある意味、言葉で振られるよりも、ずっとずっと説得力ありました……)
すると、由樹の動きに気づいた篠崎が、由樹の頭を越えて、佳織に話しかける。
「お前の家に俺のワイシャツあるか?」
すると佳織も由樹の頭上を越えて言葉を返す。
「そりゃあもう、たくさん」
「新品の下着も?」
「この間大量買いしたじゃない」
(……もう、限界だ……)
由樹は今にも泣きだしそうになりながら、高いカウンターチェアから飛び降りるように着地した。
「じゃあ、俺はこの辺で。篠崎さんご馳走……」
篠崎が由樹の腕を掴む。
「あ、あの?」
「お前、今の会話聞いてなかったのか?」
「……?」
(聞いてたから退散しようと思ったんですけど)
困惑して掴まれた腕を見ていると、篠崎はこともなげに言った。
「今からタクシーとか日曜の夜だからなかなか捕まらないし、明日の朝の足もないだろ。佳織に展示場まで送らせるから」
「……え?」
由樹は硬直した。
由樹は目を見開いて篠崎を見た。
そしてそのまま首を捻って佳織を見た。
(……ま、マジ?)
カウンターの上では、フルーツジュースの中の氷が、溶けてバランスを崩し、カランと音を立てた。
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