竹輪。私は竹輪が大好きだ。これはあくまで個人論、世間一般的に「竹輪」とはどういった存在にあるのだろうか。
ー竹輪は、魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて整形後に加熱した加工食品であり、魚肉練り製品の一つである。ー
成程、検索をかけたらこのように出てくるらしい。インターネットという、この世における最大の情報発信源にある内容は、それはある意味でその存在への「定義」、言い換えれば「公式」となっているかもしれない。ここで言えば、この世における竹輪の「公式」は、竹に巻き付けて焼いた魚肉練り製品、という事になる。それで良いのだろうか。いや良い訳がない。そんな事を言っても誰の得にもならない。今回は、私が見つけた「竹輪」に関する新たな価値観、そして定義について話していきたいと思う。どんな内容でも公式に沿っていなければ不正解だって?途中式の部分点で満点を超える、見ていなさい。
云々を語る前に、私はまず「竹輪」という名前を気に入ってない。これは竹輪は全く悪くない、諸悪の根源はこれの名付け親である。「切り口が竹の輪の形に似ているから」という事からだそう。実に可哀想だ。人間は細長い物体だから、という理由で我々が「細棒」という名前を付けられたら嫌だろう。竹の輪から形容された名前なんて…まあ、この話は始めると霧がない。ここいらにしておこう。…おや、竹輪が冷蔵庫に入っていないね。少し調達するとしよう。
ああ、只今戻った。気にしないでくれ。うむ、いつ見ても素晴らしい形だ。貴方は、竹輪を深く観た事があるだろうか。我1番に、と争うことも無くぴしっと背丈の揃った面構え。こんがりとした焼き色。その色のグラデーション。嗚呼、全てが美しい。まるで1つの芸術だ。これほどの素晴らしさを誇っておりながら、実はこれは魚の練り物らしい。紛い物のそれとは思えない程忠実かつ上品な香が鼻を包む。こんなはずでは無かったが…失礼、箸を取ってくる。
皿に盛って、準備は万端である。箸で竹輪の中点を摘む。 これより少しくびれた姿は可愛らしく、また趣がある。箸を口に近づくにつれ、顔もまた箸に近づく。近づいてくる香に、鼻がやられたらしい。なんだ、そこいらの磁石より相思相愛じゃないか。いよいよ到達、歯が竹輪にそっと接吻する。柔らかな口当たり、すぐに潰れてしまいそうだ。ここで躊躇うは素人、勢いに身を任せる。クッという微かな音と共に、それまで個体として生きてきた1つの芸術品は、呆気なく私の体の一部となるのであった。
嗚呼、実に有意義な時間であった。もう皿は空であり、若干の罪悪感を感じながら、徒然なるままに楊枝を走らせる。これほどの幸福を与えてくれる存在を、我々は「魚肉練り製品」などと淡白に定義付けて終わらせていいのだろうか。外観を楽しみ、本質に触れ、内面まで愛する。幸福を与えてくれる存在、まさに伴侶。従って、竹輪は何物にも変え難い芸術品である。これに勝る証明など存在するだろうか。単なる練り物ではない。物事は本質を見極めなさいとやら、世の中に蔓延る綺麗事もたまにはいい結果を導くものだ。
今日も一日疲れて帰路につく。財布を見ると、小さなポッケに150円。予算は十分。帰りに、駅のコンビニで芸術鑑賞といこうか。
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