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「ああ、お帰りなさい。お仕事お疲れ様」
そう言って微笑んでくれる妻の顔を直視出来なかった。台所で、おれが帰ってくるタイミングを見計らって、わざわざシチューを温めなおしてくれている妻の顔を。
「うん。……母さんは、なんだって?」
電子レンジからピーと音が聞こえる。冷凍ご飯が温まった合図だ。
「ええ。運動会楽しみって言ってたわよ」
ずきりと、胸が痛む。
おれが帰ったら真っ先にすることは、手を洗うことでもトイレに行くことでもなんでもなく――。
「美夏。学校どうだった?」
娘の部屋に直行し話しかけるのだ。
「ああ……まぁ、ぼちぼち」
「そんなもんか!」
「そんなもんです」ベッドのうえに膝を立てて座り、立てた膝をタブレット置きにしてタブレットをいじる娘は、おれが部屋を開けると一応見はするものの、興味はない、とでも言いたげにさっさとタブレットへと目を戻す。こっからおれがいくら話しかけようが、ああ、うん、と生返事が返ってくる。
滑った芸人みたい。ただ、今日は、そんな娘の塩対応が有難かった。……娘の目が見られない。
ついさっきまで、他の女とベッドに入っていたと知ったら……娘はどれほど悲しむか。
いくら普段は、パパへの愛情を態度に出さない娘であっても、ちゃんとおれの話を聞いてくれるし、休みの日は一緒に出掛けるくらいに仲がいい。……そんな、最愛の娘を裏切ってしまったのだ。
「……ご飯、置いておくから食べてね」
仕事が出来て手際のいい妻は用意した夕食を置いて、自分は部屋へと戻る。
おれたち家族は三人で一緒に住んでいるとはいえ、過ごす部屋は別々だ。おれはリビングと寝室、妻は妻の部屋、娘には娘の部屋がある。4LDKという間取りは、世間的には結構広いほうに入るらしいが、おれにとってはまだまだ物足りない。集めたいフィギュアがあるのだ。
飾るところのない行き場を無くしたフィギュアの箱が空き部屋にどんどん積み重ねられていく。飾りたいなと、という願望も虚しく、欲ばかりが勝ってから周りする。今度、ショーケースをもう一つ買って自分の部屋に飾りたい。
テレビをつけながら妻の気配が消えることを確認し、ダイニングテーブルに置かれたシチューと白飯のセットをリビングのセンターテーブルのうえに置き、いつも通り、テレビで大西の試合を見ながらイヌ娘のアプリを起動し、ログインボーナスをゲットする。
うちの娘はどういうわけだがくじ運がよく、ただタブレットをタップするだけなのに。おれが押しても外れしか当たらないのに、娘といったら星3を引きまくる。なので時々娘をこっちに呼んでタブレットをタップさせる。
おれと二人で水族館に行ったときなんざ、どでかいイルカのぬいぐるみを一発で引き当てた。
帰りの電車では巨大な袋に入れたイルカのぬいぐるみをじろじろと見られ、世間様はこう思ったことだろう。あの親父、イタいと。娘にぬいぐるみを買ってやるためにいくらはたいたのか。
違う。娘はくじ一発、三百円でこの子をゲットした。まともに買えば三千円はくだらない品を。
おれと妻はくじ運は並みで、家電量販店に行ってくじを引けばだいたい、うまい棒かティッシュを貰うがせいぜいだ。だから、どんなに誘われてもくじは引かなくなった。
妻の作った飯を掻きこみ思う。……おれはいったい、どうすればいいんだ。
* * *
おれの年収は八桁を超えるが、税金は六桁を超える。つまり、そのくらい搾り取られている。
闇バイトに手を染めて強盗殺人を犯した若者の記事へと目をやる。一年前、世間を震撼させた事件の裁判がとうとう始まった。――他人目線で見るとなんて野郎だと思うのだが、親目線で見るとなんとも辛い。彼には情報も知恵もなく、そうするしか道がなかった、そう思い込んでいたのだ。哀れな若者よ。
NPO法人が十五歳から二十五歳の若者四二〇人にアンケートをとったところ、およそ三分の一に借金の経験があることが分かったという。……確かに、おれの同期でも、飲み会に行く前に消費者金融のATMで金を下ろす男がいた。当時は笑って見ていられたが、……いまでは……。
山下。あいつは、いま、なにをしているのだろうか。既に退職し、音信不通となったいまとなっては分からない。あいつが何故、同じ初任給二十万を貰っていたのに、消費者金融で金なんか借りるしかない生活をしていたのか。
ある日突然、こうして買った新聞で山下の行方が出てくる可能性だってあるのだ。そう思うと怖気がする。
誰でもふと階段を踏み外すように、犯罪に手を染めてしまうことがあるという。犯罪とは、遠い国で行われる戦争などではなく、もっと身近なもの……。
「胸が痛みますね。その記事」
背後からふわりと、花のような香りがする。――後ろ髪を引かれたかのような強烈な感覚。
振り返れば、彼女がいた。
「あ、あ……おはよう」
「おはようございます新崎課長」職場であることを流石に意識してか、おれの斜め後方へと移動する。「闇バイトなんて、募集するほうもするほうですよね。無知な若者を餌にしているとしか思えない……」
そうやって自分のからだを守るように抱き締める所作。――あの、寝顔が思い出された。
こんな顔ではなく、もっと無防備な。
限られた男にだけ許される特権。
不本意なかたちで受けたおれはいったいどうすればいいのだろう?
「新崎課長は現金派ですよね。……わたしはキャッシュレスで育った世代なので、お金を遣うという感覚に疎いのだと思います」
犯人と同世代の篠山さんはそのように語る。憂い気な眼差しで紙面へと目を落とし、「……わたしは親に大学まで出して貰えて、留学経験もあるので、いまのような豊かな暮らしを出来ておりますが。もし、お金に恵まれておらず、両親にも知識がなかったとしたら。同じ過ちを絶対にしない、だなんて言いきれません」
篠山さんはその気になればいくらだって稼げるだろう。その美貌を生かせばなんとでも。
しかし、そんな発言はセクハラになるので控えておく。
彼女は生まれ持ったその美貌に頼るのではなく、実力で勝負している。
「ぼくも親だから、見ていて怖いものがあるね。……軽い気持ちで金を借りて。年十八パーセントの金利で借金がどんどん膨れ上がって、気がついたら何百万もの借金を背負う。なんとなくスマホをいじっていてバイトの募集に目が留まる。個人情報さえ貸せば、簡単に稼げる。一日五万円。会社の資材を調達する仕事だけで三十五万円。金を稼ぎ、簡単に稼げる感覚に常識が欠落し、また稼ぎ、金を遣う。やがては強盗にまで手を染めるとは……おやおや。胸が痛いね」
「親が言えばいいというものでもありませんものね。……新崎課長の娘さんは、そろそろ反抗期ではありませんか?」
待ち受けを娘にしているのを篠山さんは知っている。「いや、本人曰く、二三年生の頃がピークだったらしい。妻は手を焼いているが」
妻、という単語に、篠山さんの美しく描かれた眉が歪んだように思えた。
それが気のせいかのように、ふっ、と彼女は笑う。やはり、美しい。
「そうですか。子育ては終わりが見えませんね」
「本当に」そして会話は打ち切りとでも言いたげに、篠山さんは自席へと向かい、おれはそろそろ新聞を畳み、パソコンにIDとパスワードを打ち込み、ログインする。
Windowsのパスワードは二〇一六年頃から、二ヶ月に一回更新が必須となった。同じパスワードは二度と使えない。
また、自分の氏名を入れたパスワードはNG。記号か大文字を入れるかしなければならず、うちの年寄りたちはパスワード管理に泣いたものだ。
そんななか、うちの部署で、新しく入ったひとの導入教育を担当する篠山さんは毎度こう言う。
「いいですか。自分の氏名を入れたものだとはじかれます。また、後ろに『0926』のように、日付四桁だとパスワードが重複して入れられないリスクがあります。
なので、例えば、『Yama240926』のような。頭に推しの名前を入れて、最初のアルファベットを必ず大文字。後ろに、西暦年月日を六桁でつけるようにしましょう。西暦を入れればパスワードが被ることはありません。
うちの会社ではソフトを最低五つは使いこなす必要がありますが。パスワードはすべてひとつに統一してください。ニーズもZoomもソフィスもPCも、パスワード更新は二ヶ月に一度が必須。また、Windowsのパソコンの場合はパスワードは最低六桁である必要があり、うちの会社では八桁以上を推奨しております。
頭につける文字数が二文字以上であれば後ろに西暦年月日を入れれば必ず八桁を超えます。
また、パスワードはこのように。自分のPCのローカルに、テキストファイル形式で『IDPW.txt』を入れておき、そのテキストファイルにIDとパスワードを入れるようにしてください。慣れるまではノートに書いても構いません」
うちの妻も導入教育をやっていると聞いたが、果たして篠山さんのように上手くやれているだろうか。おっと。時間だ。
一日に来るメールは三千通を超え、ニーズという、社内での連絡ツールでも通知が五千。まともに通知の相手をしていたら下手をすれば日が暮れる。
なので、素早く、急ぎであるもの、重要性が高いものを頭に叩き込み、後は流す。
本当にやばければ社内の相手であれば勝手に向こうから声をかける。そういうものだ。
ロレックスの腕時計で時間を確かめる。九時二十五分。BP《ビーピー》さんの到着する時間だ。
* * *
「おはよう」
挨拶をし、課長席へと向かうおれは、席に篠山さんがいないことを確かめて安堵する。
……いま、最も顔を合わせたくない相手だ。
なにも言わずホテルを出た。残された篠山さんがどんな気持ちでいるのか。想像してみようとしても本能が拒否した。――おれが服を脱がせた? 馬鹿な。生まれてこのかた、浮気なんざ一度たりともしたことがない。興味がないのだ。
職場の諸先輩方の話を聞く限り、浮気や不倫は珍しいものではなかったが、よくもそんな面倒くさいことが出来るものだと逆に感心した。配偶者の目を盗んで、約束を取り付けて。メールのやりとりをすぐ削除し、通知が妻に見られないようにオフにして。
そんな金と労力があるのならもっと別のことに費やせばいいのに。
パソコンを立ち上げる時間も惜しいので買ってきた新聞に目を通す。……お、株価また下がったな。
日本の円安はどんどん進み、輸入大国である日本は益々物価高で苦しむばかり。
最低賃金が千五百円。だからといってどうということはない。
うちの会社の初任給はおれが入社した二十年前と変わらず二十万円。IT系なので比較的高い。
そして積み重なるミルフィーユみたいに残業を重ねて、鬱で道を外す連中の屍を超えて生き延びる。そうするしかなかった。
持つ人間は持たざる人間の気持ちが分からない。おれだって努力をしてきた。いまだってずっと。
おれの年収は八桁を超えるが、税金は六桁を超える。つまり、そのくらい搾り取られている。
闇バイトに手を染めて強盗殺人を犯した若者の記事へと目をやる。一年前、世間を震撼させた事件の裁判がとうとう始まった。――他人目線で見るとなんて野郎だと思うのだが、親目線で見るとなんとも辛い。彼には情報も知恵もなく、そうするしか道がなかった、そう思い込んでいたのだ。哀れな若者よ。
NPO法人が十五歳から二十五歳の若者四二〇人にアンケートをとったところ、およそ三分の一に借金の経験があることが分かったという。……確かに、おれの同期でも、飲み会に行く前に消費者金融のATMで金を下ろす男がいた。当時は笑って見ていられたが、……いまでは……。
山下。あいつは、いま、なにをしているのだろうか。既に退職し、音信不通となったいまとなっては分からない。あいつが何故、同じ初任給二十万を貰っていたのに、消費者金融で金なんか借りるしかない生活をしていたのか。
ある日突然、こうして買った新聞で山下の行方が出てくる可能性だってあるのだ。そう思うと怖気がする。
誰でもふと階段を踏み外すように、犯罪に手を染めてしまうことがあるという。犯罪とは、遠い国で行われる戦争などではなく、もっと身近なもの……。
「胸が痛みますね。その記事」
背後からふわりと、花のような香りがする。――後ろ髪を引かれたかのような強烈な感覚。
振り返れば、彼女がいた。
「あ、あ……おはよう」
「おはようございます新崎課長」職場であることを流石に意識してか、おれの斜め後方へと移動する。「闇バイトなんて、募集するほうもするほうですよね。無知な若者を餌にしているとしか思えない……」
そうやって自分のからだを守るように抱き締める所作。――あの、寝顔が思い出された。
こんな顔ではなく、もっと無防備な。
限られた男にだけ許される特権。
不本意なかたちで受けたおれはいったいどうすればいいのだろう?
「新崎課長は現金派ですよね。……わたしはキャッシュレスで育った世代なので、お金を遣うという感覚に疎いのだと思います」
犯人と同世代の篠山さんはそのように語る。憂い気な眼差しで紙面へと目を落とし、「……わたしは親に大学まで出して貰えて、留学経験もあるので、いまのような豊かな暮らしを出来ておりますが。もし、お金に恵まれておらず、両親にも知識がなかったとしたら。同じ過ちを絶対にしない、だなんて言いきれません」
篠山さんはその気になればいくらだって稼げるだろう。その美貌を生かせばなんとでも。
しかし、そんな発言はセクハラになるので控えておく。
彼女は生まれ持ったその美貌に頼るのではなく、実力で勝負している。
「ぼくも親だから、見ていて怖いものがあるね。……軽い気持ちで金を借りて。年十八パーセントの金利で借金がどんどん膨れ上がって、気がついたら何百万もの借金を背負う。なんとなくスマホをいじっていてバイトの募集に目が留まる。個人情報さえ貸せば、簡単に稼げる。一日五万円。会社の資材を調達する仕事だけで三十五万円。金を稼ぎ、簡単に稼げる感覚に常識が欠落し、また稼ぎ、金を遣う。やがては強盗にまで手を染めるとは……おやおや。胸が痛いね」
「親が言えばいいというものでもありませんものね。……新崎課長の娘さんは、そろそろ反抗期ではありませんか?」
待ち受けを娘にしているのを篠山さんは知っている。「いや、本人曰く、二三年生の頃がピークだったらしい。妻は手を焼いているが」
妻、という単語に、篠山さんの美しく描かれた眉が歪んだように思えた。
それが気のせいかのように、ふっ、と彼女は笑う。やはり、美しい。
「そうですか。子育ては終わりが見えませんね」
「本当に」そして会話は打ち切りとでも言いたげに、篠山さんは自席へと向かい、おれはそろそろ新聞を畳み、パソコンにIDとパスワードを打ち込み、ログインする。
Windowsのパスワードは二〇一六年頃から、二ヶ月に一回更新が必須となった。同じパスワードは二度と使えない。
また、自分の氏名を入れたパスワードはNG。記号か大文字を入れるかしなければならず、うちの年寄りたちはパスワード管理に泣いたものだ。
そんななか、うちの部署で、新しく入ったひとの導入教育を担当する篠山さんは毎度こう言う。
「いいですか。自分の氏名を入れたものだとはじかれます。また、後ろに『0926』のように、日付四桁だとパスワードが重複して入れられないリスクがあります。
なので、例えば、『Yama240926』のような。頭に推しの名前を入れて、最初のアルファベットを必ず大文字。後ろに、西暦年月日を六桁でつけるようにしましょう。西暦を入れればパスワードが被ることはありません。
うちの会社ではソフトを最低五つは使いこなす必要がありますが。パスワードはすべてひとつに統一してください。ニーズもZoomもソフィスもPCも、パスワード更新は二ヶ月に一度が必須。また、Windowsのパソコンの場合はパスワードは最低六桁である必要があり、うちの会社では八桁以上を推奨しております。
頭につける文字数が二文字以上であれば後ろに西暦年月日を入れれば必ず八桁を超えます。
また、パスワードはこのように。自分のPCのローカルに、テキストファイル形式で『IDPW.txt』を入れておき、そのテキストファイルにIDとパスワードを入れるようにしてください。慣れるまではノートに書いても構いません」
うちの妻も導入教育をやっていると聞いたが、果たして篠山さんのように上手くやれているだろうか。おっと。時間だ。
一日に来るメールは三千通を超え、ニーズという、社内での連絡ツールでも通知が五千。まともに通知の相手をしていたら下手をすれば日が暮れる。
なので、素早く、急ぎであるもの、重要性が高いものを頭に叩き込み、後は流す。
本当にやばければ社内の相手であれば勝手に向こうから声をかける。そういうものだ。
ロレックスの腕時計で時間を確かめる。九時二十五分。BP《ビーピー》さんの到着する時間だ。
システム開発を受注する形態としてはふたつの形態があり、ひとつは一括請負契約。これは一度に数百万から数千万円でシステム開発を請け負う方式で予め、パソコンやサーバなどのPCが何十台必要でセッティングを含めたお客様環境でのシステム構築、それに係る人員がどれくらい必要なのかを見積もったうえでこちらの利益分を上乗せして請求する。
一方、準委任契約とは、契約した一定期間、工程ごとに開発が行われるのが特徴である。要点定義、基本設計、システム開発、運用テストの各段階で費用が発生するので、総額いくらの予算がかかるのかが見えにくいという難点がある。
おれが入社した頃は一括請負契約が主流で準委任契約が少ない傾向にあったが、いまは準委任契約も増えつつある。二〇二〇年四月一日に法改正があり、準委任契約はそれまでは労働に対して報酬を支払う「履行割合型」が主流だった。人員が増えればそれだけコストがかさみ、お客様に請求する額が増す。ただしプロジェクトの全工程に大人数が必要となるのではなく、システム開発の初期の段階は比較的人員は少な目でまかなえる。人員が最も必要となるのはプログラムを書く、システム開発のタイミングである。
おれが入社して最初に入ったプロジェクトは一括請負契約で要件定義のフェーズから入った。当時は、開発をするのが花形で、みんな開発をやりたい、上流工程をやりたいと言っていた。システム開発は川の流れに例えられ、どんなシステムを作るのか、要件定義や基本設計――どんなシステムを設計するのか。具体的に何の言語やソフトを使って開発するか詰める――の上流工程が、建築家で言うと設計図を描く段階に相当する。高いスキルが必要とされ、そのフェーズをやりたがる人間は多かった。
一方、システム開発から、運用、受け入れ試験のフェーズは下流とされ、特にシステムが実際に上手く動くかの試験――受け入れ試験のフェーズはなにかと若手のやつらには馬鹿にされがちな段階だった。仕様書設計、開発がIT系の花形であり、実際、新卒が配属されるのは上流工程から行う部署、一方高卒が配属されるのがテストや保守運用を行う部署と住みわけがされていた。
話を戻すと準委任契約で二〇二〇年の法改正で「成果完成型」が追加された。実際の労働量や予算で請求するのではなく、期日までに成果物を納品する方式だ。それまで、「履行割合型」のやり方だと、納期に成果物が間に合わない場合であってもお客様は支払う義務が発生する。「成果完成型」はそれら一連の問題を解決するやり方だ。
さておれが主に監督の役目を務めるプロジェクトはすべて一括請負契約である。つまり、お客さんと契約をする前に、こちらから、いくらかかりますよと提案書を出し、コンペに挑み、他社とのコンペに勝ち取って得た案件である。
システムアイは中堅の独立系SI《エスアイ》ベンダーで(システム開発を行う企業を「SIベンダーと呼ぶ」)あり、大手のD社やN社と張り合うには、提示する予算を控えめにし、案件を勝ち取ったうえで、続いて保守運用、お客さんの要望に応えたシステムの変更等等をする段階で利益を得る。
そもそもうちの会社に入るのは、決してプログラミング能力に秀でた連中ではなく。おれの世代は超就職氷河期で、就職するために二十社三十社受けるのも珍しくはなかった。同期のなかには八十社受けてようやくシステムアイに受かった人間もいたくらいだ。
システムアイは特に社内に学閥のない独立系SIベンダーであるので、周りには知らないひとしかいなかった。巷で底辺だと揶揄されるFランクにすら届かないレベルの大学で、ただ、金持ちだけは多かった。OBOGなんて勿論いなかった。
今日来るBPさんは、おれの部下がプロジェクトマネージャーを務める案件に新しく入るメンバーだ。一括請負契約だと費用は安く抑えるに限るので、協力企業からひとを入れた。システムアイはプロジェクトに呼ぶビジネスパートナーの会社と数十社と契約を結んでおり、プロジェクトが火急なとき、急に人を入れたいときなどにパートナーさんから人を入れる。ビジネスパートナーからやってきたひとをBPさんと呼ぶ。
今回のBPさんはパートナー企業の更に下の企業に所属しており、いわゆる孫請けである。IT業界は建設業界と同じと例えられるが確かにからくりは同じだ。どの会社もマージンをとるため、お客さんがSEひとりに支払う額はおおよそ一ヶ月で百万円が相場。高いと思うかもしれないがそんなものである。孫請け企業に雇われた社員の手元に残るのはせいぜい三十万円といったところか。お客さん→システムアイ→協力企業→孫請け企業、各社を経るごとにマージンを奪われるから。
SEといっても正直に、何のスキルもない新卒がぽっと入る場合も多々。うちの会社は毎年新卒を百人採用しているから。プロジェクトで後輩を育てるのも先輩社員の大事な仕事なのである。
新卒、正社員であれば自社で教育する必要があるが、BPさんに関しては微妙なところである。システムアイは他のSEベンダーがするように、新卒はみっちり入社後に三ヶ月間研修を行うし、また、社内に階級制度があり、ひとつうえの階級にあがるには試験がある。毎年目標設定をし、上司と面談し、期末には上司からのフィードバックを受ける。賞与も入社して次の期末からは査定が入るので、よい成績を残した者にはプラスの賞与が入る。
つまり、BPさんは所詮他社の人間であるがゆえに育てるシステムは育っていない。ただ、プロジェクトに入って役割をこなしてもらう以上は、必要最低限のことを教える必要がある。
BPは言葉を選ばずに言えば人身売買で売られた奴隷のようなものなのかもしれない……。所属するうえのうえの会社に売られ、業務を担う。そこではなんの教育プランもないし、給与を決めるのはうちのプロジェクトリーダー(PL)とうえのうえの会社との契約次第……、なのである。昇給なんか滅多にしない。
BPを出迎えるのはおれがすると決めている。売られた可哀想な子牛には、自らが子牛であることを自覚せぬまま、素晴らしい環境に入った、と夢を見させる必要がある。
率直に言うと、BPにはそこまでのスキルは求めていない。しっかり教育したいのなら、自社のメンバーでまかなうなりするし、頼めばそれこそ他の部署からメンバーを入れることも可能だ。
何故BPを入れるのか。――金儲けのためである。
お客さんからひと月で百万を貰えるのなら二十万はうちのものとなる。BPを入れるにあたって協力企業への交渉、営業、BP本人との面談、見積もりを立てなおしたうえでのお客さんとの調整――おれも一介のSEだった頃は知らなかったが、PLや課長職ともなれば、裏で色々と動いているのである。一見すると、あのおっさんなにしてんだろ、と思われるのかもしれないが。陰で千以上のタスクをこなしている。
会社に受付があり、そこでおれの内線を呼び出して貰い、迎えに行く。ジャケットは社内に常備している。
にこやかに。爽やかな笑顔で、子牛を招き入れるのだ。売られた可哀想な子牛を。「そうですね。それで、パスワードとIDは……IDは毎回入力するので自然と覚えます。
パスワードに関しては先ほど述べた法則を守るようにしてください。
どのシステムにも、『Yama240925』の法則で同じパスワードを使う、と」
島の端で篠山さんが新しく入ったBPさんにレクチャーをしている。PWのことも、社内での過ごし方も、いつも通り。
篠山さんは転職でうちの会社に入った中途入社の社員で、去年入社したばかり。……がおれは、彼女の実力はプログラミング能力よりも、常に、周りのことに目が行く。全体を俯瞰する能力にあると感じている。
彼女は優秀なプログラマとしてうちの会社に入ったのだが、外部社内の電話対応、プリンタのトナーの交換や発注、コピー用紙の補充などの雑務を積極的に行っていた。分からないことはすぐに分かる総務辺りに聞いて、入社して一ヶ月で総務部のメンバーとは顔見知りになっていた。総務の局である春日《かすが》さんから飴ちゃんを貰っていたのには驚いた。
要するに、スキルはあるが、明らかに庶務総務的な仕事が向いているのである。そこで、彼女が入社して三ヶ月後には、彼女が、新しく入ったメンバーや、退場したメンバーの後処理をするように、配置換えをした。
どうやら彼女はプログラミングをするよりもひとと接しているほうがなんだか生き生きしている。
かつ、美人。そこらのモデルも顔負けの超美人。……であれば、入ったばかりの社員及びBPさん、或いは、会社に恨みを残して辞める人間であっても、システムアイに好印象を残すことが大事だと考えた。なにか、プロジェクトや仕事に不満があって辞める人間であっても、篠山さんのような、たおやかな花のようなひとによくして貰えれば、印象がひっくり返る。おれの元に退職の意向が届いた頃は不満顔で仕事をしていたはずが、最終日、やけに晴れがましい顔をする人間も多々。それはなにも、嫌な環境を抜け出せることへの喜びばかりではないだろう。
篠山さんのお陰である。
聞いていないように見えておれは案外ひとの話を聞いている。連日打ち合わせまみれで、リーダー会議に出席した後のほんの五分。自席で仕事をしながらも耳をそばだてる。
「村井《むらい》さん、覚えが早いですね。素晴らしいです!」
褒められたBPである村井さんは嬉しそうだ。飲み込みが早い。
どうやら抜けることはなさそうだ。おれは、のほほんとしているように見えて、こうして、初日でひとをジャッジしている。
勿論BPを入れる前におれと営業は面談をしている。だが、Zoomだと特に相手の空気感が分からない場合もある。履歴書や職務経歴書が立派であっても、蓋を開けて見ればとんでもな無能だった……なんてこともよくある話だ。営業と一緒になって、「よし、今度は大当たりだ!」なんてはしゃいで入れたBPが十日で辞めたこともあった。
初日の行動は大事だ。遅刻したり欠勤するひとは大概続かない。最初に躓いた時点で駄目なのだ。
自分が新しい環境に入ってお世話になるというのに。遅刻ぎりぎりだなんて見通しが甘いにもほどがある。最低でも駅に八時半に到着しておき、余裕をもって出社すべきである。初日ごときを見通しの甘さで遅刻する人間に、大事な仕事は任せられない。プロジェクトに配属されたなら、お客さんとの大事な会議、やりとりを任せる可能性だってあるのだ。
だから、BPから、電車遅延で遅れます、なんて連絡が入ったときには、もう、とっくにおれは諦めモードである。歓迎会もするつもりもない。
「あの。そのショートカットってどうやってされるんですか?」
「あ、これは、Cntl+Nです。フォルダを選択した状態でCntl+Nを押すと、ウィンドウがもう一つ同じのが開いて、パスをコピーする必要がないんです」
「すごい。ありがとうございます」
「村井さんこそ、タイピングめっちゃ早いですねー。一秒で何文字打てます?」
「七文字です」
「すごっ。一時間で二万五千字打てる計算じゃないですか」
「あいえ、流石にそこまでは」
村井さんは喋りながらもスピーディーなタイピングをしている。要領がいい。ノートにボールペンで書きこむのではなく、どうやら自身のWordかテキストファイルに教わったことをまとめているようだ。さっきちらっと村井さんのフォルダを見た。
いつもなら十日くらいは様子見をするのだが、篠山さんと村井さんの明るそうな様子を見る限りは大丈夫そうだ。新卒の今井《いまい》さんに、村井さんの歓迎会をセッティングするようにメールをしておこう。
「お疲れ。順調そうだね」
あくまで上司として、篠山さんに話しかける。彼女は喜びを隠しきれない表情で、はい、と答える。
「村井さんは、すごく仕事に熱心で職場や仕事のことを知ろうと一生懸命です。
……初日なのにプロジェクトの売り上げまで聞かれちゃって」
いいことだ。素直にそう思う。
初日の態度で人間性が出る。自分に自信がない人間は無駄に自己をひけらかそうと、穏やかな態度で接する篠山さんに強気に出て、下手したらマウントこいてる連中もいたりする。勿論そんなやつは職場に合わず半年以内で辞めていく。
篠山さんは、ひとのよさそうな顔をしていて、IT系のバリバリのリケジョにしては珍しく、なにを言われても怒らない。誰に対しても低姿勢で、年下の新卒相手に「申し訳ありません」なんて言っていて驚いた。
いまはそうでもないが、おれが入社したばかりの二十年前は、上司が男で部下が男なら部下を呼び捨てにするのも当たり前。飲み会の幹事、お会計や精算、翌日のうちにお礼メールと金の回収をするのもまとめて新人の役目だった。年下だからといって偉そうな態度をとる連中も珍しくはない。
篠山さんはアラサーのバリキャリで、隠しているだけであってC++《シープラプラ》もCOBOLもVBAもお手の物。
ただし、彼女は必ずしも完璧というわけでもなく。現在おれの指導で矯正している最中だ。
本人が自身の欠点を自覚しているかまでは知らないが。
「まぁ、知りたいのならいくらだって話してやるといいさ」とおれは椅子を引いて座り、パソコンのロックを解除しながら、「篠山さんも、いまが谷間の時期なんだからあまり遅くならないようにね」
どの口が言えるのか。
つい昨日、一緒に、いかがわしい場所のベッドに潜りこんでいたくせに。
不思議と職場にいると忙しさにかまけて罪悪が薄くなっていく。こうして上司の仮面を被っていれば、昨日のことなど、なかったことみたいだ。
「承知しました」相も変わらず、低姿勢の篠山さん。タイピングの手つきは見事だ。すべらかな打鍵音が心地よく響く。「決算期なので会社全体が慌ただしくなる時期ですよね。……了解です」
四月と十月が決算期で、総務部や人事部などのバックオフィス部門は、目の回るような忙しさであろう。
さりとて、プロジェクトの現場にいる人間はどこ吹く風。仕事があるときは忙しい。よく、飲食店が、二月と八月は暇になると聞くが、おれたちも似たり寄ったりなもので、その時期が谷間で、以外の時期は常に忙しい。お客さんは常に欲求不満でおれたちはお客さんの希望を満たす必要がある。
帰れるときは早く帰れるようにとは言っている。……が、物価高の進むこのご時世。かつ、残業が固定化している現状。
手取りが二十万円ぽっちでは足らず、残業をして倍稼ぐ生活が当たり前になっている状況では、こちらもなかなか言いづらい。おれも残業にまみれて育った世代だから気持ちはよく分かる。給与明細を見て、同期の女の子と、おっさんの給与じゃん! げらげら笑っていたのがつい最近の出来事のように感じる。
篠山さんは手際よく仕事を終えて、お疲れ様です、と言って帰っていった。安堵する。おれは、……彼女をこれ以上、見ていたくない。
なにも言われないのが怖い。あのとき、昨日……おれはどんな罪を犯したのか。
誰にも知られずに終わることが一番だというのに、現実は、おれの望まないほうへと動いていく。