「勘助、お前もいい加減にうろたえるの止めよ」
信繁の叱咤の声が隣にいる隻眼の軍師へと向けられた。
「お前は既に四郎の傅役 なのではない。軍配を預かる軍師であろうが。それも武田軍の軍師という役目すら超えて、ヴァルハラの軍団の軍師として、死者の軍勢及びムスペル共を討ち滅ぼす軍略を建てねばならぬ身なのだぞ」
「典厩様……」
勘助の独眼が今現在の主君と仰ぐ人物へと向けられる。しかしその瞳には常に宿っていたはずのまばゆいばかりの智謀と戦への渇望の光は失われたままであった。
「この戦が生まれ変わった神々の軍団の軍師として軍配を振るう初陣であろうが。それが何たるざまか!」
「……」
信繁の叱声に勘助は一言も無く、うなだれた。信繁は勘助がこのまま腑抜けのまま終わるはずが無く、すぐに立ち上がるだろうと期待した。
(勘助は情に流されるような男ではない)
信繁と義元が知る山本勘助道鬼という男はその名乗る号の通り、戦の鬼であった。
敵陣を破り、城を取り、領土を切り取ることに全てを捧げ、その為には人非人と罵倒されても仕方がないような悪辣な計略を立てることも珍しくは無かった。
恐らくは信繁が承知している以上に汚い仕事をいくつもこなしてきたに違いない。
あの時代の武士が武勲を欲するのは我が家を盛り立て、一族と子孫に栄誉をもたらすことが目的であったと言っていい。
だが勘助は、
「家の為、一族郎党の為などと考えたら、軍略を立てる為の我が脳漿が濁ってしまう」
と公言して妻をめとって家族を持とうともせず、独身を通していた。
肉欲とは一切無縁で、遊所に出向くことも衆道を求めることも一切しなかったようである。
行住坐臥、己の全てを戦に、軍略に捧げることに一切の躊躇も迷いもない生まれながらの軍師。
それが山本勘助道鬼という男のはずであった。
だが、そうした信繁の期待は完全に裏切られた。
「何卒お許しくだされ、典厩様……。それがし、今は、今だけは戦えませぬ……。我が脳に軍略が浮かんで来ませぬ……」
勘助はその浅黒い老顔を涙と鼻水で満たしながらあえぐように答えた。
「四郎様は再び仕えよと仰ってくださった。この勘助を、傅役としても、軍師としても役立たずであった、この勘助を必要だと仰ってくださった。何者からも愛されず、何者も愛さずに生きて来たこのそれがしを……」
「……」
「戦えませぬ。槍を向けることは出来ませぬ。四郎様には。四郎様だけには。四郎様は、この勘助にとって全てだったのです。何とぞお許しを、典厩様。どこまでも愚かで役立たずなこの勘助を……」
己の額を冷たい氷の床に額を打ちつけながら詫びる勘助を見て、信繁は言葉を失った。
(まさか、勘助が四郎にここまで情をよせていたとは)
全く想像もしていないことであった。
兄である信玄が四郎勝頼の傅役として山本勘助を選んだのは、左程深い考えがあった訳ではないだろう。
正妻の子ではない三男という身分でありながら幼い時点で傑出した武人としての片鱗を見せていた四郎に神算鬼謀を誇る勘助が養育にあたれば、智勇兼ね備えた武将に育ってくれるだろうと単純に考えたに違いない。
人としての情に欠けていると思われた勘助に武田家の跡取りとなる嫡男の教育を任せることは到底出来ないが、あくまで諏訪家の後継者であり、武田家を支える一武将になるべき身分に過ぎない四郎勝頼には充分だろうと信繁も思っていた。
勘助の気性からして、傅役という役目に情熱を傾けるとは思われず、あくまで主君信玄の命令故やむを得ずと割り切って淡々とこなすだろうと武田家の首脳陣は等しく考えていたと言っていい。
だが、ここまで固い主従の絆が結ばれ、父子以上の愛情を抱いていたとは、信繁は全く気付かなかった。
おそらく兄信玄も同様だろう。
「愚か者めが」
義元が吐き捨てるように言った。
「戦えぬというのなら、下がっておれ。目障りじゃ」
「申し訳ございませぬ……」
勘助は頭を垂れたままであった。このまま手討ちにされても構わない。いや、むしろこの苦しみと悲しみから逃れる為に殺してくれと言わんばかりであった。
「勘助よ」
信繁は勘助の嗚咽の為に微かに震える肩に手を置いた。
「此度だけは許そう。戦わぬで良いから、よく見ておけ。我らの戦いを」
「……」
勘助は未だ涙が尽きないまま信繁を見上げた。
「誰よりも優れた知恵を持つお前は分かっておるはずだ。ロキめは私の記憶を読んで兄信玄を、お前の記憶を読んで四郎を蘇らせた以上、我らがあの父子を滅ぼさねばならぬ責務があることを。そして我らの手で討つことこそが悪神の手によって魔道に堕ちた彼らの魂を救う唯一の方法だということを」
「……」
「我が軍師よ、私はお前は信じているぞ。今回は無理でも、いつか必ずお前が己の責務を果たすことを。今回の戦いを必ず生かし、次の戦では見事な軍略を立てて死者の軍勢を打ち破ることをな」
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