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天正十三年七月、次男信繁を上杉家に人質に送り、和睦することに成功した昌幸は、徳川家との戦の為の準備を始める。
翌月、昌幸が籠った上田城に侵攻してきた徳川軍は七千。一方、迎え撃つ真田の軍は千二百にすぎない。
羽柴の大軍を長久手にて破り、我らこそが日の本最強の兵と猛気をたぎらせる徳川の大軍と、武田家滅亡以来、息をひそめるように生きてきた小豪族の寡兵とではまるで勝負にもなるまいと誰もが思っただろう。
しかし結果は真田の圧勝であった。
この第一次上田城合戦における昌幸の神妙を極めた用兵は、戦国時代に行われた数限りない籠城戦の中でも、白眉と言っていいだろう。
徳川方は千二百もの死者を出す大敗であった。
こうして一躍その武名を天下に響かせた昌幸であったが、このまま正面きって徳川と戦い続けるのは至難であるのは否めない。
そこで昌幸は旭日昇天の威勢を誇る羽柴秀吉に臣従することを決意した。
小牧長久手で家康に敗れたとは言え、それはあくまで秀吉の別動隊が敗れたに過ぎない。
依然、徳川を遥かに上回る大軍を擁していたし、何より秀吉その人の英気と武略は家康を上回ると昌幸は踏んだのである。
今は停戦状態であるが、いずれ必ず再戦し、徳川を粉砕してくれるに違いない。
そう期待し、昌幸は上杉景勝の元にいた信繁を秀吉に人質として送った。
だが、そこで昌幸の計算が狂ってしまった。
秀吉は家康と決戦せず、外交でもってこれを従わせるという方針に舵を切ったのである。
結局、秀吉は実妹の朝日を嫁がせ、家康を「義弟」として我が政権に迎えるという破格の待遇をとった。
昌幸は忌々しさのあまり、心中で家康、秀吉の両人に罵倒の限りを尽くしたが、最早どうにもならない。
さらに情勢が進み、豊臣姓を名乗り、関白の座について位人臣を極めた秀吉は、いよいよ天下統一の総仕上げとして関八州の覇者北条家を攻めることとなった。
その軍議の席に呼ばれ、昌幸はついに秀吉、そして家康と対面することとなった。
「おう、そちが真田安房守か。噂は聞いておるぞ。大した知恵者らしいの」
きらびやかな陣羽織を纏った初老の男がにこやかに話しかけてきた。
(この男が秀吉か・・・・)
背の低い、ねずみのような顔をした男だと聞いていたが、成程まさにその通りである。
同じような貧相な体躯と異相を持つ昌幸は親近感を抱いた。
(このお方は下賤の身より己の才覚一つで這い上がり、天下の群雄をことごとく屈服させたのだ。到底わしの及ぶところではない)
昌幸は心中で冑を脱いだ。
そのような昌幸の心は秀吉にも伝わったのだろう。秀吉の昌幸を見る目は好意に満ちていた。
「その方の武略、調略の腕前はまったくもって見事なものよのう。よくも徳川、上杉、北条らの強剛と渡り合って家を守り通したものよ。まさに「表裏比興の者」と言うべきか。世の武士どもも見習うべきよな」
比興は後の世では「卑怯」の字に当てられるが、この時代にあっては「強者」「老獪」という意味が込められた褒め言葉である。
(ああ、やはりこのお方はわしの真価を分かっておられる)
士は己を知る者のために死すという唐土の言葉がある。そのようなことは戦国乱世においてはあり得ぬものと断じて生きてきた昌幸であったが、この時ばかりは秀吉の為ならば死んでも良いと思った。
そんな昌幸を冷ややかな眼で見ている男がいる。
小太りで猪首のいかにも朴訥そのものと言った印象の男である。
(ふん、こやつが家康か)
昌幸は家康を一切の遠慮も躊躇もなく凝視し、値踏みをした。
肉付きの良い顔に糸のように細い目をしている。
一見冷静を装っているが、その瞳の奥に怒りの炎が燃え盛っているのを昌幸は認めた。
織田家がどのような苦境に立たされようと、最後まで裏切らず同盟を固持し、天下一の律義者と称された家康である。
その家康からすれば、裏切りと変節を繰り返す昌幸などは最も許しがたく、唾棄すべき存在であるに違いない。
よりにもよってそのような男に我が配下が敗れ、徳川の旗が泥土にまみれたのだ。家康の怒りは凄まじいものがあっただろう。
しかし昌幸は家康の怒りに触れても恐れるどころか、逆に心地よく思った。
(我が武略を認めぬ愚か者めが。何なら直接貴様が兵を率いて我が領土にやって来るがいい。いつでも相手になってやるわ)
昌幸は嘲笑を露わにして家康を睨み付けた。
両者の剣呑な雰囲気を察した秀吉が苦笑を浮かべた。
「まあまあ、二人とも思うところはあるだろうが、これからは仲良くせよ。安房の智と三河殿(家康)の勇、どちらも天下の宝であるからな。そうじゃ、いっその事姻戚関係を結んではどうかな?確か安房の嫡男は武勇優れた凛々しい偉丈夫だと聞いておるぞ」
そう言って秀吉は強引に真田家と徳川家の間を取り持ったのである。
家康は養女の婿である実直な気性の信幸をいたく気に入り、なにかと目をかけているが、昌幸の家康に対する嫌悪と侮蔑の感情が薄れることはなかった。
そして、石田治部少輔からの書状である。昌幸は当然、石田の誘いに乗りたいが、事はそう単純にはいかない。
家康が嫌いだから石田方に付くでは、息子達も家臣も到底納得しないだろう。
「豆州(信幸)よ。そうは言うが、此度の治部少輔の軍略は実に見事なものよ。家康は会津征伐に気をとられ、治部が決起するなどとは夢にも思っとらんだろう。書状によれば、毛利、宇喜多の大大名を筆頭に西国の大名はこぞって石田に付くという。これで東西からの挟撃とあいなった。家康の敗北は決まったも同然ではないか?」
昌幸はあえて楽観論に徹して言った。
「これは父上とは思われぬ粗雑な物言いですな」
信幸は苦い顔で頭を振った。
「確かに内府様が不利やも知れませぬ。しかし、戦というものは全て大将の器量によって決するものというのは、他ならぬ父上の教えではありませんか。内府様はかつて太閤殿下すらも破った海内無双の弓取りにおわす。一方、石田方の総大将はあの毛利中納言殿がなるとのこと。かの御仁と内府様とでは器量の差は明らかではありませんか」
この信幸の反論は昌幸の予想通りであった。まさにこのことこそが昌幸にとって最大の懸念だった。
芸州の太守、毛利中納言輝元《もうりちゅうなごんてるもと》はかの毛利元就の嫡孫である。
謀略の限りを尽くして中国地方の覇王となった稀世の奸雄、元就の孫とは到底思えぬ温順な貴公子であるが、その才幹は凡庸そのものと言うしかない。
此度の戦は古今未曾有の大戦となるだろう。その戦に毛利の小せがれずれを総大将にかついで勝てるものだろうか。その不安はどうしてもぬぐい切れなかった。
「左衛門佐はどう思う?」
昌幸は嫡男の反論に応じず、次男に話を振った。
「徳川方が勝つでしょうね」
左衛門佐信繁は透き通るような笑みを浮かべながらあっさりと言った。
あまりにも確信に満ちた言いざまであったので、昌幸は一瞬絶句した。
「な・・・何故そうはっきり断言出来る?お前は分かっておるのか?石田方にはお前の舅である大谷刑部殿も付くのだぞ」
大谷刑部少輔吉継《おおたにぎょうぶしょうゆよしつぐ》は当初、親友である石田三成の決起を無謀であると再三にわたって制止したが、ついには折れて参戦を決意した。
信繁は豊臣家の人質時代に吉継の娘を正妻に迎えている。
「だから何だと言うのですか?」
信繁は小首をかしげながら不思議そうに言った。
「亡き太閤殿下は刑部殿に百万の大軍を授けて存分に指揮させてみたいと言ったそうですが、それは単なる戯れにすぎないでしょう。刑部殿にそれ程の将器はありませんな。それに刑部殿は業病に侵され、もはや明日をも知れぬ身。何程の働きもできないでしょう」
信繁はあくまで笑みを絶やさず言った。
(こやつ・・・・)
昌幸は内心でうめいた。
信繁は別に舅に悪意があって言っているのではない。思ったところは率直に語ったにすぎないのだろう。
信繁は天性、他者への憐憫や世の義理といったものが理解できない頭の仕組みであるらしい。
病を押して戦う舅の為、石田方に付くのが義であり、人の情であるという考えは微塵も湧いてこないのだ。
(流石は表裏比興の者の息子よな)
昌幸は苦々しい表情を浮かべながら思った。
(一応、世の義理や人の情を解しながら、あえてそれらを踏みつけて生きてきたこのわしと、それらのものを最初から解せぬ左衛門佐では、どちらがより外道なのか)
父の心中などは微塵も忖度することなく信繁は続けた。
「まあしかし、徳川方に付いて石田治部や毛利中納言と戦っても楽しめそうにありませんな。やはり私は徳川と戦がしてみたい。今の世にこれ程の愉快なことは他にないでしょうからな」
「愉快だと?このような大事に愚かなことを申すな」
信幸が厳しい表情で弟を叱りつけた。
「左衛門佐も父上も分かっておられるのか?此度の戦に真田家の命運がかかっておるのは当然として、それだけではないということが」
信幸はじっと信繁を見つめ、そして昌幸に視線を移した。
「もし万が一石田方が勝てばどうなるでしょう。未だ幼く賢愚定かではない秀頼公を道理を解せぬ小人である石田治部や毛利中納言が傀儡とし、天下を我が物とするでしょう。そうなれば世は乱れ、元亀天正の頃の戦国乱世へと逆戻りになるは必定。再び民草は塗炭の苦しみを味わうことになるのです」
「だから徳川方に付けと申すか」
昌幸は冷ややかに問い、信幸がうなづいた。
「いかにも。秀頼君を庇護し、武士達の下剋上の風を取り除き真の太平の世をもたらす器量人は内府様以外におられません。我ら真田は揃って内府様の馬前に馳せ参じるべきです」
常日頃は寡黙な信幸らしからぬ熱のこもった説得だったが、昌幸は何の感銘も受けなかった。
(豆州め。賢しらな物言いをしおるわ。大方家康の側におる何やらという学者の受け売りであろう)
家康が近頃、藤原惺窩という名の学者を招き、熱心にその講義を聞いていることは昌幸の耳にも入っている。
惺窩が説く学問は朱子学である。宋の時代の大学者、朱熹が大成した新儒教の学説に家康は心酔した。この異国の聖賢の教えによって下剋上の世を終わらせると息巻き、中庸、大学、論語といった儒教の経典の出版を行う程の熱の入れようである。
そんな家康を昌幸は心から軽蔑した。
(奴め、惰弱な異国人の世迷言をもって日の本武士を己の言いように飼いならそうと目論むか。どこまでも見下げ果てた男よ)
もし家康が天下人になってしまったら、やって来るのは仁だの義だのといった空虚な綺麗事が飛び交う堅苦しい窮屈な世であろう。
乱世を謳歌し生きてきた昌幸には耐えられない世である。
(わしは未だ乱世の楽しみを極めておらぬ)
心は決まった。
「わしは断じて家康には付かぬ」
「父上!」
信幸が悲痛な叫びを上げた。
「お前が何と言おうとわしの意思は変わらぬ。お前も室とは離縁し、徳川と手を切るがよい」
「出来ませぬ」
「父の言うことに従えぬと申すか」
「従えませぬ。私は父上とは違います。表裏比興には生きられませぬ。義を貫いて生きとうございます」
「こ奴・・・・」
我が嫡男の鋼の如き意思の強固さを知り抜いている昌幸は説得を断念するしかなかった。
「誰ぞある!この乱心者を・・・・」
「おやめなさい、父上」
家臣を呼ぼうとした昌幸を制したのは左衛門佐信繁である。
「兄上を捕らえようなど、この私が許しませぬ」
信繁の表情も声も静かではあったが、豪胆な昌幸が一瞬肝を冷やす程の冷たい刃のような殺気がはらんでいた。
「・・・・」
「良いではありませんか、それぞれの道を歩めば」
信繁は先程とは打って変わった駘蕩とした表情と声色で言った。
「父上は石田方に付き、兄上は徳川に付く。どちらが勝っても真田の御家は存続できます。このようなことは古来より珍しいことではありますまい」
「ふむ・・・・」
昌幸はうなずいた。信繁の言う通り、源平の合戦から南北朝の対立、応仁の乱から元亀天正に到るまで、当然行われてきた乱世の処世である。
「・・・・良いでしょう」
信幸もやむを得ないと言った表情でうなずいた。
「して、左衛門佐。お前はどちらの側に付くのだ?」
兄に問われ、信繁は少し考えたようだが、やがて晴れ晴れとした表情で答えた。
「やはり私は徳川と戦いたいと思います」
「左衛門佐・・・・」
信繁が悲しみと失望をあらわにした。
(ほう、こ奴がこのような顔をするとは)
昌幸には意外であった。
信幸は事の判断をとことん理詰めで考え、己の私情を差し挟むことを潔癖なまでに厭う男だと昌幸は見ていたのである。
しかし、弟の信繁に関しては例外であるらしい。
家臣達から
「人として大事な部分が欠けているのではないか」
とささやかれ、父の昌幸もそう思わぬでもない信繁を、信幸は幼いころから過剰なまでに可愛がっていた。
しかし、そのような兄の愛情も、信繁には届かなかったのだろうか。
「・・・・分かった」
しばし瞑目し、呟いたのち、信幸は決然として昌幸に向き合った。
その精悍な顔貌にはもはや迷いや憂いの色は微塵も無かった。
「では私は本田の義父上の元に参ります。父上、左衛門佐、御武運をお祈りいたす」
「お前もな、豆州よ。合戦の場で見えたならば、わしの首を獲る気で挑むがよい」