昭和三十一年。
西暦1956年。
第二次世界大戦の終戦の日から11年余り。
戦後の復興期は、朝鮮戦争による特需景気を機会に混乱から脱出する1950年頃から、1954年の高度経済成長期が始まる頃までの4年間。
血で血を争う時代の終わりを迎えた日本は、新たなる道として科学の時代へと移り込む。
その証を示すかの如く、首都・東京の一部では、日本一とされる電波塔が建造されている。
完成までの見込みは、後二年程と噂されているが、実際の所はまだ分からない。
「………」
時刻は夜の20時。
河川敷近くの道端で営業しているおでんの屋台から流れてくるのは、良い匂いを放つ具材のみ。
一応、店主はいるものの、いま現在訪れている客が不愛想のためか、特に何も語りかけることなく、ただ黙って己の仕事を黙々とこなす。
対する件の客人というのは、簡単に言えば何処にでもいる一端のサラリーマンであった。
「………はぁ………」
勤め先で嫌なことでもあったのか。
それとも別の何かを考えているのか。
店に来てからというもの、聞こえてくるのはため息ばかり。
他にあるとすれば、注文をする時くらいしかなかった。
余程、鬱憤でも溜まっているのかと考察するが自分には関係ないとばかりに、一仕事を終えた後に堂々と夕刊を読む。
「………」
黒のスーツを着込んでいる男は、豆電球に照らされている徳利を持ちながらお猪口の中に注ぎ込む。
既に二本目まで進んでいるものの、まだ飲み足りないらしく、傾けた際に丁度満杯になった所で切れたことに気づくと、淡々と声を掛ける。
「……おやじ……酒をくれ」
「……はいよ」
何度目か分からない質素なやり取り。
ほろ酔いのような感じではあったが、頼まれた以上、拒む訳にはいかない。
故に、三本目の熱燗を用意しようと準備を進める。
「ほらよ」
「………」
品を目の前に置いてもお礼の一つも言わない。
随分と失礼な奴だと思いつつも、改めて新聞紙に目を通す。
一方の彼は、出された酒に手を伸ばし、続けて飲もうとするが――――
「おやおや、随分と飲んでいるようだが……大丈夫か?」
「……あぁ?」
唐突に誰かに尋ねられる。
外から届いてきたため、自ずと振り向くと………暖簾をかき分けながら覗き込む者と目が合った。
「らっしゃい………客人で良いんだな?」
「あぁ。おやじさん、俺にも熱燗をくれ」
割り込むように入ってきたのは、自身よりも年上だと感じさせるほどの風貌をした男。
黒みがかった茶髪に整った顎髭を生やした日焼け肌の容姿。
着用している衣服は、上下揃って黒色の和装だったが、僧侶が掃除や薪割り、畑仕事など寺院を維持するための労働を行う時に使うあれと酷似していた。
所謂、作務衣のことを指す。
加えて草履という今となっては時代遅れの物を履いている。
後あるとすれば、身長が少し高く、体つきも見た目からしてかなりがっしりとした体格というくらいだろう。
でもって隣に座り込んできたことから、些か窮屈な感覚に陥る。
「おい……もう少しそっちに寄れよ」
「まぁ、そう冷たいこと言わさんな。あっ、あとおやじさん。大根と煮卵、それから……こんにゃくをくれ」
「はいよ」
馴れ馴れしく絡んでくることから鬱陶しさが増えつつも、せっかくの酔いしれている気分を害したくないため、黙って受け入れる。
そんなこととは露知らず、暫くして大将から注文の品を受け取るなり、意気揚々と割り箸を使いながら口の中に運んでいく。
良い具合に煮込まれていることもあってか、程よい旨味が広がっていく。
「ん~……良いねぇ。おやじさん。このおでん最高だよ」
「そうかい。そりゃあどうも」
「……な~んか連れないなぁ。そうは思わないか?」
「……何で俺に絡んでくるんだよ」
徐々に苛立ちが募る。
元々、一人で過ごすことが多いせいか、仕事関連ならまだしも、それ以外で特に接点も無い奴が何かと喋りかけてくることに腹立たしさが増す。
だからこそ、付きまとうのは止めてくれと遠回しに突き放そうとするも、関係ないとばかりに話しかけてくる。
「何で絡んでくるか……か………そうだな。一言で言うなら、お前さんと何か喋りたいから……かな」
「はぁ?」
極力どうでも良い理由だった。
なら俺ではなく、屋台の主とすればいいじゃないかと指摘するも、けんもほろろといった形で受け流される。
「いやさ。お前さん見た所、会社勤めのサラリーマンって所だろ?」
「……だったら何だ?」
「その様子だと、仕事先で何か嫌なことでもあったんじゃないか?」
「ッ……だからどうしたってんだ」
「いつまでも溜め込んでおくのは良くないって言いたいのさ」
「お前には関係ないだろ!」
卓上に拳を落とす。
鈍い音が響き渡り、しばし静まり返る。
無論、店の大将が注意をしようとするも、先に二番目の客が手で制止してきたため思いとどまる。
「確かにそうだな。けどな、俺はこう見えても、あんたよりも知らない所で色々と経験してきてるんでな。だから、今抱えている悩みを少しでも解消出来るんじゃないかと思ってな」
再び皿の上にあるおでんに箸を伸ばす。
大根を半分に割りながら口に運んでいくと、味の染み具合が丁度良かったのか、満足そうに頷く。
「ん………それに関係のない人間だからこそ、日頃の鬱憤をぶつけるには丁度良いんじゃないか?」
「はっ……よく言うぜ。俺のことを何も知らないくせに」
「まぁ、その点はあってるな。けど、せっかくの機会だ。これを機に少しでもすっきりした方が良いと思うぜ」
徳利を手に取り、お猪口に注いでいく。
身体も温まりかけてきたのか、自然と口角が吊り上がる。
「俺の名前は神谷って言うんだ。お前さんは?」
「……水木だ」
あれこれ反抗するも、一歩も譲らない姿勢で関わってくる。
不本意ではあるが、一番手っ取り早いのは相手が満足するまで言葉を交わすことに尽きる。
それに態々愚痴に付き合ってくれるのであれば猶更のこと。
渋々ながらも自己紹介を済ます。
――――
邂逅してから数十分後。
お互いに頬を紅く染めてはいたものの、口調は未だにはっきりとしている。
双方とも、どうやら酒には強い方らしい。
「ほ~……つまりお前さんは、今までの経験からそんな奴らを見返すために、誰からも踏みつけられない権力を手に入れようとしているのか?」
「……そんな所だ」
胸中に包み隠していた気持ちを次々と口にする。
思いをぶつけるかの如く、洗いざらい吐き出し続ける中、その全てを受け止めながらきちんと返していく。
時には同情したり、提案を持ちかけるなどの相槌を打ちながら、水木の話に耳を傾ける。
今までの所を要約すると、彼はかつての大戦にて玉砕命令を受けながらも生き残った復員兵であり、その後、紆余曲折はありながらも帝国血液銀行という職場に入社し、その内の龍賀製薬という担当部署で働いているとのこと。
(なるほどな……)
徴兵により参加した戦争の名残として左目に疵があるうえ、左耳の上部が少し欠落していることから合点する。
その上、これまでの経験から上に立つ者が苦しみを味わうことなく、のうのうと生き永らえていることに怒りを露にしていると把握する。
所詮、下っ端は使い捨ての駒扱いにしか過ぎないという点は、現在の社会における問題点の一つと言えるだろう。
「いや……もしかするとこれからもずっと続くんだろうな」
「はっ?」
「お前さんが言っていたことだよ。確かに今の世の中は、戦争が終わって平和な時を過ごすようになったが………その裏には苦しみを一切味わうことなく、只々己の野心のために弱きものをこき使う大馬鹿野郎がごまんといる。勤め先の会社も然り、未来永劫のためとほざきながら平気で外道に手を染める奴だって未だにいる」
「………」
「けどな、水木。そういう奴らは、大概ろくでもない死に方をするんだ。例えば、これまで積み重ねてきたものが暴落して、今まで虐めてきた者たちからの復讐に遭ったりとか、あるいは呪いに近い死よりも恐ろしい運命に落ちるか……いずれにしろ、甘い汁を吸い続ける奴は、大抵最後の辺りでツケが回ってくるんだよ」
「……つまり何か?お前は、俺にそんな奴らと同じようになるなとでも言いたいつもりか?」
「まぁ、そういう意味合いも兼ねてはいるな。それにもう一つ……人の真剣な気持ちを弄ぶのも良くない。それだけは絶対にしてはいけないことだ」
「……余計なお世話だ」
脳裏に蘇る数十年前の記憶。
銃器を持って死と隣り合わせの戦場を命からがらに駆け出し、仲間が殺されていく中、上層部は安全な場所で指示を出すのみ。
勝手な都合や面子のためだけに、理不尽に部下を打ち精を出す上官たち。
やがて夢にまで見た内地に戻ったのは良いものの、母親が死んだ父親の親戚連中に騙されて、なけなしの財産を失う始末。
街では、餓死や戦災孤児が溢れる一方、戦争を指導した連中は、隠匿節を横領して贅沢三昧。
「戦場も国家も関係ない。弱い者は食い物にされて馬鹿を見る………だからこそ俺は力が欲しいんだ。そのためなら………」
「何だってやる……か……お前さんの気持ちはよく分かった。だが、これだけは言っておく。人としての道を外したらその時点で終わりだ」
理解を示しつつも、そうならないよう釘を刺す。
勿論、納得できないと言わんばかりに胸倉を掴むが、当の本人はただ静かに見つめ返すだけ。
「ッ……」
憤怒の表情を浮かべていたものの、次第に落ち着きを取り戻す。
掴んでいた手にも力が入らなくなり、ゆっくりと離す。
「すまん。誤解しないでほしいが、決してお前さんの考えを否定した訳じゃない」
何も答えずに無言のまま再び酒を煽る。
様々な心情が渦巻いているのだろう。
これ以上追い詰めるのは野暮だと判断する。
「……偉そうにほざきやがって。何様のつもりだ?」
「俺か?俺は、そうだな………自由人ってところだな」
「はぁ?………まさか、お前職に就いてないのか?」
「う~ん……そうとも言うべきかな?」
「………はっ……ははははは!何だ、お前!散々言いたい放題言っておきながら、無職なのかよ!」
「無職という訳でもないが………さしずめ人助けを生業に生活する気ままな人生ってところかな」
またしても笑い声が響く。
酒の酔いも兼ねて声が大きくなるが、流石に疲れたのか、段々と息を整えていく。
「はぁ……ったく、人のことを言えないじゃないか」
「返す言葉がないな。だから、お詫びとして何か好きなものを頼んでも構わないぞ?奢ってやるからな」
「おいおい。なけなしの財産を使い切るつもりか?」
「そうは言うけどな、こう見えても意外と懐が温かいんだ」
証拠として懐からある物を取り出す。
出てきたのは、一丁前の巾着袋。
数回ほど軽く揺らしてから見せびらかす。
「この中には、お札を折りたたんだものがそれなりにある。だから問題ないぞ?」
「……言ったな?じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく注文するぞ?」
追加で幾つか頼む。
気を良くしたのかは定かではないが、いつの間にか笑顔が溢れていた。
――――
時が経ち、店を出る頃には酔いが大分回っていたのか、千鳥足になりながらも帰路に付く。
反対に、彼の分を含めたお代を払い終えるなり、屋台の暖簾を潜り抜けた神谷は空を見上げる。
そこには、雲一つない夜空に浮かぶ綺麗な満月があった。
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