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「ちっ」
紫雨は事務所に秋山がいないのを良いことに舌打ちをした。
(昨日飲み過ぎた。あの男、ちゃんぽんさせやがって!)
痛む頭を抱えながらなんとかパソコンのディスプレイを覗き込む。
システムを開くと、トップ画面に赤い文字が踊っていた。
【祝!耐震性でベストデザイン賞受賞!】
「………そりゃあまあ、結構なことで…」
鼻で笑いながらトピックを開く。
【セゾンエスペースの耐震実験の業績が認められ、今年度、ベストデザイン賞を受賞しました。つきましては、各展示場のマネージャー宛に、懸垂幕を送りますので、既存の懸垂幕との入れ替えをお願いします】
「げ」
言いながら首を長くして、郵便物受け渡しの棚を眺める。
「げー!来てんよ、懸垂幕。おい新谷、あれポールに設置し……」
言いながら左の席を見つめる。
「ーーー」
そこには何も置いていない無機質なデスクが、ただ持ち主の不在を悲しんでいるように、そこにあるだけだった。
紫雨は頬杖をつき、そのデスクをしばし見つめた。
「…………」
そしてきっと睨むと、その椅子を蹴飛ばした。
「……壊れますよ、椅子が」
斜め向かいから部下がパソコンのディスプレイから目を離さないまま言った。
「ねえねえ。新谷って薄情じゃない?」
「新谷君が?」
こちらをちらりと見ようともしない。
(こいつ。俺、一応上司なんだけど?)
「薄情とは感じたことはないですね。浅はかだとは日々感じていましたけど」
彼の言葉を聞きながら、紫雨は自分のリクライニング付き椅子を起こしたり倒したりし始めた。
「だってさぁ。夏からずっと面倒見てやったのに、篠崎さんに誘われたらコロッと……コロッとだぜ?八尾首展示場に乗り換えてやがんの」
「それはあなたが、“天賀谷展示場に人は足りてる”って言ったんでしょう?現に足りてますし」
「うっせえな」
紫雨は舌打ちをしながら、重い頭を振った。
「お前ってつくづくかわいくないね、林」
言うと、林はディスプレイから顔を上げないまま言った。
「おかげさまで」
紫雨は彼を睨みつけた後、立ち上がり、懸垂幕が入っているであろう段ボールを棚から下ろした。
「懸垂幕ですか?手伝いますよ。身長だけは紫雨マネージャーよりもあるんで」
カチンと来るようなことを言いながら、林も立ち上がる。
「いーよ。お前、なんかムカつくから」
言いながらカッターで箱を切る。
と、その手を林に掴まれた。
「……んだよ。離せよ」
「ハサミの方が良いですよ。中の幕まで切れますから」
「———」
紫雨は刃が出たままそれを林に差し向けた。
「っぶね…」
「ははは」
慌てて避けた林の顔を見て、紫雨は笑った。
「お前、そんな顔でそんな声も出んのな」
言いながらカッターで箱を開け続ける。
「カッターで幕まで切ったのって、誰だっけ。あ、そうだ。新谷だ。あんときは笑ったよな」
言いながら中から重量のある懸垂幕を持ち上げた。
「……手伝いますって」
林が少し怒ったようにこちらを見る。
「いいっつってんだよ。仕事しろ。お前、来月売れなかったらペナルティだぞ」
「…………」
紫雨は目を細めて林を睨むと、靴を履いて、ドアを懸垂幕で押し開けた。
自立懸垂幕装置の、滑車から垂れているロープの結び目を外し、ポールを下げる。
『これやってると、小学校の運動会を思い出すんですよ』
半年前の秋晴れの日、彼は笑った。
『俺、国旗掲揚係で。楽しかったな』
言いながら、小学生のような笑顔でこちらを見上げてきた。
自分は運動会にいい思い出なんてない。
楽しかった学校生活のワンシーンなんてない。
風でピンと張る国旗のように、まっすぐ生きてきたのであろう彼の眩しさに、そのとき紫雨は目を細めたのだった。
懸垂幕にポールを入れ固定すると、またロープを引っ張る。
【耐震性 ベストデザイン賞 受賞】
赤いゴシック体の文字が、風に煽られながら昇っていく。
ーーー今頃、八尾首展示場では、篠崎と新谷が、二人仲良くこの作業をしているだろうか。
「けっ」
ロープを固定し終わった紫雨は、砂利に唾を吐きかけた。
とビキッと腰に痛みが走った。
「……くっそ。あの男、激しくするから………」
昨夜の醜態を思い出し、鼻が引きつる。
紫雨は今年も猛暑を予想させる、5月の空を睨んだ。