金沢市の1等地、香林坊。その百万石大通りに面したビルに、きさらぎ広告代理店の事務所と、如月倫子の自宅があった。天井のクリスタルのシャンデリアが光を弾き、寒色から暖色へと織られたクラデーションが美しいペルシャ絨毯、そこにはマホガニーの応接セットが置かれていた。ビルを一棟所有する資産家、如月進次郎が如月倫子の夫だった。
「佐々木冬馬さん」
「はい」
「弁護士さんですか」
「はい、綾野住宅株式会社、顧問弁護士の佐々木と申します」
佐々木の前に、美濃焼のティーカップが置かれた。如月倫子の顔は青ざめ、指先が小刻みに震えていた。
「どういったご用件でしょうか?」
佐々木の厳しい目が如月倫子の姿を捉えた。
「奥さまにお話がございまして、お伺い致しました」
「家内に、ですか?」
「はい」
「なら、私は席を外しましょうか?」
「いえ、如月さまにも同席して頂きたい案件でございます」
「案件?」
佐々木は無言でアタッシュケースを開き、複数枚の写真をテーブルに並べた。
「如月さまにはこちらをご覧頂けたらと思いお持ち致しました」
「これ、は」
「奥さまがホテルの客室に入室された際に撮影された物です」
進次郎は写真を手に取り、目を凝らした。然し乍ら、写真に写るその横顔は、本人とは断定出来なかった。
「これは、この女性は」
「奥さまです」
「顔が見えない、間違いじゃないのか?」
佐々木は、菜月が撮ったニューグランドホテルロビーでの如月倫子の写真を取り出した。黒いワンピースに真珠のネックレス、如月倫子が身に着けたネックレスは、進次郎が結婚5周年の記念に妻に贈った物と酷似していた。
「これは・・倫子だ」
「はい」
次いで、佐々木は湊がBluetoothで撮影した写真を机に置いた。仲睦まじく腕を組む男女の姿、それは明らかに如月倫子だった。
「佐々木さん、この男は誰ですか?」
「お恥ずかしながら、当家、綾野住宅株式会社、社長の綾野賢治です」
「倫子が、綾野住宅の社長と」
「そのようです」
進次郎の隣に座る如月倫子の顔から血の気が引き、能面のように白く色を変えた。
「これは、1度の事ですか?」
佐々木は菜月が録音した2人の会話を進次郎に聞かせた。それは、3ヶ月前の高等学校の同窓会から不倫関係が始まっていた事、毎週金曜日に逢瀬を重ねていた事を指し示していた。
「り、倫子、おまえ」
「・・・・・」
如月倫子は金曜日になると、和装の着付けの手習いだと告げ、出掛けていた。進次郎は、よもや妻が不貞行為に耽っているとは疑いもせず、毎週、金曜日には笑顔で送り出していた。
「奥さまでお間違いないでしょうか」
視点が定まらず、項垂れた如月倫子を睨みつけた進次郎は、震える膝に握り拳を置き、深々と頭を下げた。
「はい、妻の倫子で間違いありません」
「間違いない、と」
「間違いありません」
佐々木は表情ひとつ変えずに複数枚の写真、SDカードを茶封筒に入れた。
「こ、この度は、妻がご迷惑をお掛け致しました。申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ申し訳ございませんでした」
「この責任はどう、どのようなお詫びをすれば」
「慰謝料300万円」
「さ、300万円」
「はい」
「一括でお支払い頂ければ裁判には致しません」
「300万円一括で、分かりました」
佐々木は(公証役場)で綾野菜月と如月倫子で公的文書の”公正証書”を作成する旨を告げた。公正証書で交わした約束(債務)を履行しなかった場合、強制執行で資産の差押が可能となる。
「奥さまとご一緒に、公証役場での手続きにお立ち会い頂けますか?」
「は、はい」
進次郎は項垂れた。
「あと、こちらですが」
気の毒に思った佐々木は茶封筒を進次郎の前に差し出した。
「ご入用ならばこれらの”資料”をお渡し致します」
「そ、それはどういう意味でしょうか」
「協議離婚のお手続きに必要ではありませんか?」
「そ、そう、ですね」
そして佐々木は、仕様がないといった表情で大きな溜め息を吐いた。
「如月さま」
「はい」
「当家の綾野賢治への慰謝料請求もお願い致します」
「は?」
「もう直に、四島賢治となりますので、四島賢治への慰謝料の請求をお勧めします」
「はぁ」
「よろしくお願い致します」
進次郎は不可思議な面持ちをしたが、これは「菜月からの慰謝料請求に加え、如月進次郎からの慰謝料請求で、賢治が金銭的に苦しめば良い」という、綾野郷士の策略だった。
「それでは南町の公証役場の受付でお待ち致しております」
「はい」
「お忘れ無きようにお願い致します」
「はい」
「内容証明郵便はご入用ですか」
「結構です」
佐々木はアタッシュケースを手にソファから立ち上がった。如月倫子は、スプリングの軋む音にすら怯え。肩を震わせた。その隣に座っていた進次郎は、佐々木を玄関先まで見送ると、重厚なマホガニーの扉を閉めた。
「・・・・・・」
背後で如月倫子の悲鳴が上がり、家具が倒れ、物が割れる音がした。
(あぁ、カップが割れたようですね。勿体無い)
佐々木はエレベーターのボタンを押した。
コメント
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不倫はねぇ。家庭を壊してしまうよね。