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湊は綾野住宅株式会社の事務所で、施設管理の不備についての報告書を確認していた。
「・・・・っ」
数ページ書類を捲った時、鳩尾に鈍い痛みを感じた。腹を押さえて屈み込む姿に気付いた女性事務社員の久保が、心配そうに声を掛けて来た。
「部長、具合悪いんですか」
「ちょっと胃が痛くてね」
「お薬、お持ちしましょうか」
「ありがとう、でも良いよ。精神的なものだから」
「精神的、ですか」
「うん、色々とあってね」
菜月と賢治の離婚問題について社員には一切伝えていない。会社社長の不貞行為が詳らかとなれば幸せな家庭を謳い文句にしている綾野住宅グループ全体のイメージが損なわれる事は必至だった。その気遣いが原因なのか、湊は度々、胃痛に苛まれた。
「綾野部長」
久保は一通の水色の封筒を手にして周囲を見回すと、湊の座るデスクの脇に身を潜めた。
「どうしたの」
「あの、私、社長宛の封書を間違えて開いてしまって」
「あぁまた封をすれば良いじゃない、そんなに酷く破いてしまったの」
「いえ、それは大丈夫なのですが」
手渡された封筒を裏返して見ると四島工業株式会社 四島 忠信の印が押されていた。賢治の父親から賢治個人に宛てた郵便物だった。
「これがどうしたの?」
久保が中身を改めてくれないかと指差した。
「それが」
その言い淀む雰囲気に尋常では無い事を察した湊は慎重にその封を開いた。 水色の封筒にはA5版の白いコピー用紙に折り込まれた一枚の請求書が入っていた。それは綾野建設株式会社が四島工業に発注したコンクリートの代金に対するものだったが請求金額が空欄、空からの請求書だった。
「これ、は」
「私もこれまで気が付きませんでした申し訳ありません」
「いや、気付かなくて当然だよ」
請求書の空欄部分には誰かが正規とは異なる金額を書き込み、その代金を綾野住宅株式会社が四島工業に支払っていた事になる。
(横領だ)
存在しない金額を書き込んだ人物、それは請求書を白紙の状態で受け取っていた賢治以外に考えられなかった。
「それで、僭越ながら2年分の請求書を調べてみました」
「はい」
「こちらになります」
「ありがとう」
ファイルに綴られた1年前半までの請求書の金額は、パソコンで打ち込まれたものだった。ところが、1年前からの請求書は全て手書きに変更されていた。それは賢治が婿入り後に社長に就任した時期と重なり、コンクリートの代金は1回の請求額で数10万円上乗せされていた。
「あと、この数字なのですが」
「数字?」
更に久保は字体に癖があると言い、数字の八の字が”だるま”のように丸が二つ積み重なっていた。まるで絵文字のような8だった。
「どの八の字も同じだね」
「そうです」
「ありがとう、この事は誰かに話した?」
「話していません」
久保は湊の隣に立つと力強い口調で断言した。
「代表取締役郷士には僕から報告するよ」
「はい」
「ありがとう、助かったよ」
久保は何事もなかったようにデスクへと戻った。
「八の字」
懸念した通り、賢治の筆跡を確認したところ、八の字の8は”ダルマ”を描いていた。そして、湊は請求書の額面とコンクリートの市場価格を比較しその差額を弾き出して愕然とした。
(1,200万円、これだけの金額が四島工業に不正に支払われていた)
これは菜月と賢治の離婚問題だけではなく、横領の疑いで、綾野住宅株式会社が四島工業株式会社と四島忠信、綾野賢治に対し、刑事告訴を視野に入れて対処する必要があった。
(賢治!)
これでまた1枚、復讐に最適なカードが揃った。
「湊さん」
ちょうどそこへ、佐々木が1枚のファイルを手に事務所を訪れた。2人は2階の会議室へ移動し、ドアノブに鍵を掛けた。パイプ椅子が軋む、長机の上には数枚の書類と拡大した写真がタロットカードのように並べられた。その写真は、到底、直視出来るものではなかったが、賢治と女性社員の面立ちは鮮明に見て取れた。
「ありがとう、それで?」
「この女性の名前は吉田美希、22歳で、以前、賢治さまの秘書をしていました」
「賢治さんの」
「はい、四島工業にお勤めされていた時期です」
湊は、佐々木を凝視し、佐々木はゆっくりと頷いた。
「当時、四島忠信氏、四島工業社長公認のお付き合いでした」
「じゃあ、菜月と見合いをした頃は?」
「関係が続いていたようです」
「・・・・!」
湊は怒りに任せて机を拳骨で叩いた。
「どうして分からなかったんだ!」
「結納が決まり、四島氏が女性に金銭を支払って関係を清算したとの事でしたが」
「関係は続いていたんだな!」
「はい」
湊の横顔は怒りで歪んだ。
「佐々木、車を出してくれないか」
「どこへ行かれるのですか?」
「可愛らしいお嬢さんに会いに行くんだよ」
「・・・・でも、まだ!」
「会うだけだよ。なにもしないよ」
「はい」
四島工業株式会社とのアポイントメントでは「日頃の挨拶も兼ねて社長とお会いしたい」と四島 忠信との面談を希望した。然し乍ら色々と思い当たる節があるのかそれは渋々という雰囲気だった。
キッ
仰ぎ見た黒煉瓦の5階建て社屋には圧倒される。駐車場でブレーキを踏んだ佐々木は、車で待機するように言い付けられた。
「それにしても、いつ来てもデカいな」
広大な駐車場には樫の木が根を張り、高価な庭石が絶妙なバランスで置かれていた。建設資材卸売最大手 四島工業株式会社 四島忠信の面構えは一代で財を成し遂げた剛健さが滲み出ており、柔和な湊の父親とは正反対だった。
「綾野住宅株式会社の綾野湊ですが」
1階受付ロビーで内線の受話器を持ち上げる女性社員は、夜の職場に従事しているような風貌で、プアゾンの香水の香りを振り撒いていた。
(悪趣味だな)
「今、秘書がお迎えに上がりますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」
「ありがとうございます」
黒革のソファはゆったりと湊をホールドし、階段の吹き抜けに吊り下げられた、螺旋を描く金のシャンデリアは眩しく、白い大理石の床を照らしている。
コツコツコツ
数分も待たぬうちに、ハイヒールの音が近付いて来た。
「お待たせ致しました、綾野さま」
甘い蜂蜜を垂らしたような声色。
「はい」
「こちらへどうぞ」
湊の顔色が変わった。
四島工業株式会社、社長秘書の顔には見覚えがあった。
(賢治さんの、不倫相手だ)
湊がその面差しに釘付けになっていると、白桃のような白い頬、淡い桜のチークをふんわりと乗せた笑顔が首を傾げた。
「あ、すみません、失礼しました」
「どうされました?」
「あ、あまりに可愛らしくて。お名前は」
吉田美希は胸のネームタグを桜貝のようなネイルで摘むと軽くお辞儀をした。
「吉田美希です」
「吉田さん」
「はい」
「私は綾野湊と言います。名刺を頂戴しても宜しいですか」
「はい♡」
満面の笑みの吉田美希、2人は名刺を交換した。
「ありがとうございます」
「いつでもご連絡下さいね♡」
「こちらのメールアドレスと携帯電話番号は吉田さんのものですか?」
「はい!個人用です♡」
吉田美希はまさかこの携帯電話番号に、弁護士から高額の慰謝料を求める連絡が入り、綾野菜月からその支払いを命ずる内容証明郵便が自宅に届くなど、思いも依らないだろう。
(これで一人目)
吉田美希の名刺をスーツジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ湊の美しい口元は第一の復讐の完遂に醜く歪んだ。