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夏の雲が悠然と空を流れる十二月の午後、授業を終えた小学校のスクールバスが、住宅街に停車する。
週末ということもあり、子供たちの顔には明日からの休みで何をしようか、家族とどこに遊びに行こうかという期待が浮かんでいて、スクールバスの中でもその話で盛り上がっていた。
バスの運転手であり、数年前まで自らの子供も同じ小学校に通わせていたブレンダが、元気いっぱいに挨拶をしてバスを降りていく子ども達を笑顔で見送り、次の住宅街の入口に向けてバスを移動させようと車内から運転席へと移動しようとしたが、その時彼女が目にしたのは、斜め前方からバスに向けて突っ込んでくるトラックと、その運転席で意識を失っているようにハンドルに突っ伏している人の姿だった。
「────!!」
どうしてトラックが突っ込んでくるの、運転手はどうしたのという疑問が瞬間的に脳内を駆け巡り、次いで浮かんだのは、思春期を迎えている為に今朝もちょっとした言い争いになってしまった、顔にそばかすが少しある息子の笑顔だった。
ランチタイムも終わり、小腹が空くような午後の時間、外来の診察を終えて大きく伸びをしたのは、今日も今日とて子ども達に大人気のドクター・フーバーこと、リアム・フーバーだった。
ナースと事務方のスタッフがお茶にしましょうと笑顔で提案し、それは良いと同じく笑顔で頷いたリアムだったが、内線電話がけたたましく鳴り響き、その音に思わず飛び上がりそうになる。
「ハロー」
『ああ、リアム、まだ診察室にいるのか!?』
内線をかけてきたのはリアムのキャリアに大きく傷がつきかねない事件の際に親しくなり、それ以来ランチを一緒に食べたり仕事終わりに一緒に飲みにいったりするようになったミシェル・バロウズで、珍しく慌てている様子にああ、まだいるけどと返しながらナースを見れば何事だと首を傾げられてしまう。
『今警察から、スクールバスにトラックが突っ込んだという情報が入った』
負傷者多数、しかもその大半が授業を終えて帰宅しようとしていた小学生だと教えられ、思わず椅子から立ち上がったリアムは、間もなく搬送されてくるはずだから救急外来に行ってくれ、僕も今から行くといつになく真剣な声で頼まれて受話器を戻し、事情を何も知らないスタッフが戻ってくるが、スクールバスにトラックが衝突する事故が発生、子ども達が負傷している、こちらに運ばれてくるそうだと診察室を飛び出しながら説明をし、それを聞いた事務員とナースの顔が蒼白になる。
リアムのその言葉が季節外れのエイプリルフールではない事を証明するように救急車やパトカーのサイレンが徐々に大きく聞こえ出し、複数の救急車が救急外来の入口に停車する。
その様子は外来診察を終えて病院を出ようとしていた人たちの耳目を奪い、何事だと野次馬のように人が集まり始めるが、事務方の責任者であるカーターが部下のサミ・ヴィッタネンと共に蒼白な顔で飛び出してくると、正面玄関に回ったらしい警察官の元に駆け寄り、身振り手振りを交えて事情の説明を受ける。
病院内が一気に騒然とした中を救急外来に到着したリアムが見たのは、ストレッチャーに乗せられて痛いと泣く少女や、両親を呼び続ける少年たちの痛ましい姿だった。
救急外来担当のドクターやナースらは次から次へと運ばれてくる患者に慌てる事なく的確に指示を与えていく。
その様子をただ頼もしいと思いながら見つめていたリアムだったが、我に返って比較的負傷の程度が軽い子供達が座っているソファの前に向かい、痛みに涙を流す少女の手をそっと取る。
「痛かったなぁ。今どこが一番痛いか教えてくれないか?」
見た限りでは切り傷や擦り傷が多いが、腕が痛いとか足が痛いとかはないかと問いかけ、しゃくり上げながらも痛みを訴える少女を安心させるように頷き、そうか、痛かった、でももう大丈夫だ、すぐにパパやママが来るから安心しろと、言葉のみで安心させることはなかなか難しいのにそれを難なくやってのけながら少女の腕を撫でて触診をしていく。
リアムの大きな手に腕を撫でられた時は最初は驚いていたが、その手が優しくて痛みを与えないことに気付いたらしく、ドライバーのブレンダがねと、新たな涙を目に浮かべながら幼い少女が目撃してしまった事を話し始める。
「ブレンダ?」
「うん・・・バスの運転手さん・・・運転席にね、座ろうとしていたの」
その時トラックが彼女の方へと突っ込んできたのと、堪えきれずに涙を流す少女の髪をそっと撫で、そうか、見てしまったんだなと痛ましげに呟いたリアムだったが、その肩に手が載せられて振り仰ぐと、そこに肩で息をするバロウズがいて、大惨事になったなと呟かれて頷く。
「負傷が軽度の子供たちの手当てをしよう」
「ああ、そうしよう」
トラックが突っ込んできた運転席に座っていたブレンダの容体が気になるが、今己にできることはまだまだ運ばれてくる子どもたちを触診し、骨折の疑いがあればレントゲンの撮影を技師に依頼し、それがなさそうな子どもたちには傷の手当てをしながらもう大丈夫だと子どもたちを安心させることに注力すべきだと言い聞かせる。
そんなリアムの横で同じように子どもたちの診察をしているバロウズだったが、リアムが診察をした子供たちの顔が次第に落ち着きと明るさを取り戻していくのを目の当たりにし、身体を鍛えるのが趣味と笑って自己紹介をしたこの男の本当の特技はこれなのだろうなと内心舌を巻くのだった。
負傷した子供たちが運び込まれ、重症の子供たちはオペ室へ、比較的軽症の子どもたちは救急外来で手当てを受けていた頃、頭部を負傷し、意識が無い状態のブレンダがオペ室へと搬送されていた。
交通事故で頭部損傷と救急隊員から通報を受けてオペの準備をしていた慶一朗とアンディだったが、彼女が運ばれてきたのを一目見た瞬間、時間との勝負であることに気付く。
彼女の命が、砂時計の砂がサラサラと落ちていくように彼女の体からこぼれ落ちていく。
そんなビジュアルが脳裏に浮かび、させるかと一声吼えた慶一朗に蒼白な顔のアンディが驚き、負傷の酷さに言葉を無くしていた他のスタッフらも紅潮している端正な横顔をまじまじと見つめる。
「────やるぞ」
その短い一言が慶一朗の気持ちを表していて、それに気付いたスタッフらが一斉に気持ちを切り替えたように精悍な顔つきになる。
「バスの運転席近くで立っていたところにトラックが突っ込んできたそうです」
バスの最前部にいたはずの彼女だったが、駆けつけた救急隊員に救出されたのは後部のベンチシートの足元だったと教えられ、スクールバスの中で吹っ飛ばされてしまったのかと誰かが呟く。
その際、シートに手足や頭をぶつけた結果、頭部に最も酷い損傷を受けたとレントゲンを見ながらオペの手伝いをするアンディの報告を聞き、とにかく出血を止めることを何よりも優先すると伝えてオペの準備に取り掛かるが、頭部の損傷だけでは無く全身の彼方此方が骨折したり内臓にも傷を負っているかもしれなかった。
「外科のドクターに連絡」
「はい!」
全身のレントゲンを撮っているはずだからオペの手順を考えておいてくれと外科のドクターに連絡をしろと言葉短く伝えた慶一朗だったが、仕事中に不幸な事故に巻き込まれてしまった彼女を何があっても助けるとマスクの中で呟き、隣に立って的確に手助けをしてくれるナースのそうですねという普段より少しだけ緊張している声にチラリと目を向け、頼むと短く伝えるのだった。
子どもたちが事故に遭ったとの連絡を受けたらしく血相を変えた家族が続々と病院に集まり始め、警官が名前と連絡先、子供の名前などを聞き出していく。
その作業を、オスカーと名乗った少年の腕に包帯を巻き、膝の擦り傷に消毒液を掛けられて痛みに飛び上がるのをそっと抱きしめながらもう少しだけ我慢だ、オスカー、君は強い子だと何とか治療の痛みから意識を外らせようとしていたリアムが顔だけを向けて見守るが、オスカーと息子の名を叫びながら駆け寄ってくる両親に気付き、もうすぐ治療が終わるのでそこで待っていてほしいと伝える。
半狂乱になっている両親にそれが伝わるか自信はなかったが、不思議なことにリアムの言葉はそんな彼女たちの耳にするりと入り込むようで、オロオロしながら治療を見守り、膝の傷を覆うパッドを当てて治療終わりと安堵の溜息を吐いたバロウズは、リアムにありがとうと礼を言い、オスカーの涙で滲む目を見つめてよく頑張ったと褒める。
「オスカー、よく頑張った。・・・ほら、パパとママが来ているよ」
「!!」
その声にオスカーがソファの上で跳び上がり、負傷した痛みなど忘れた顔で両親に駆け寄ると、母親が息子を抱きしめ、そんな二人を父親が抱きしめる。
「良かった・・・!」
事故に巻き込まれたと聞いた時は心臓が止まるかと思ったと、安堵に涙を滲ませた母にバロウズがオスカーの傷の具合を説明し始める。
その説明に両親が息子を抱きしめながら何度も頷き、ありがとうございますと頭を下げるのを見届けたリアムは、患者が運び込まれた慌ただしさがひと段落し、後は自宅での療養と経過観察の子どもたちと負傷が酷くオペを受けている子どもたちだけだと分かり、救急外来に少しだけ安堵したような空気が流れる。
そしてふと時計に目を向け、時刻がすでに夜中に近い時間である事に気付き、言葉は悪いが戦場のようだったと肩を回すバロウズの言葉に苦笑する。
「結局搬送されてきたのは何人だった?」
「・・・五人目までは覚えていたけど、それ以上は諦めたね」
一体何人の治療をしたのかもう覚えていないと深く溜息を吐いたバロウズだったが、救急外来を離れてももう大丈夫だと判断し、それでも念のため病院内にいるとスタッフに伝えると、二人揃って普段ならばこんな時間には静まり返っているが、今は事故にあった子どもたちの家族らがロビーで警官から事情を聞かれていて少しざわついているそこを通り過ぎ、さすがにもうスタッフが帰ってしまって自動販売機だけが灯りをつけているカフェに入ると、疲れた体が欲している糖分を摂取するために甘いミルクティーを購入し、無言で椅子に座って足を長く伸ばしてしまう。
「・・・疲れたな」
「そうだな・・・今日は患者数も少ないと話していた所だったのにな」
外来の診察室でお茶にしようと話していた所だったのにと天井を見上げたリアムにバロウズがご愁傷様と口の端を持ち上げる。
「・・・俺たちはまだマシだな」
子どもたちや運転手のオペを行なっているドクターらはもっと大変だろうとバロウズが呟くと、リアムが椅子から勢いよく身体を起こす。
「リアム?」
「・・・ケイもオペをしているんだろうな」
「そうだろうな」
再度椅子に深く腰掛けながら溜息を吐いたリアムは、今日は夜勤のドクターに加えて残った方がいいのかなとバロウズが呟き、どうだろうなと上の空で返してしまう。
「部長に確認するか」
「ああ、そうしよう」
買ったミルクティーを飲み干し、二人同時に甘いと舌を思わず出してしまうと緊張がほぐれたのか、二人同時に肩を揺らして笑い出す。
緊張が解れ気持ち的にホッとした二人は立ち上がり、それぞれ腕を突き上げて伸びをし、恐らく今後の対策を話している部長たちの指示を仰ごうと、他のドクターらも待っているだろうカンファレンスルームに向かうのだった。
「────終わった」
心電図やその他のブレンダの命を測っている機器が発する音がオペ室内に小さく響く中、終わったという声が血で汚れているタイルの上に落ちる。
その声に最初は誰も反応できずにいたが、声を発した慶一朗が天井を見上げてもう一度終わったと呟くと、隣で今日もいつものようにオペを支えてくれたナースの肩に手を乗せる。
「・・・サンクス、みんな」
みんなのおかげで俺に出来る全てのことを行えた、後は外科のドクターたちの出番だと大きく息を吐いて呟いた慶一朗に皆の視線が集中する。
手術台ではブレンダがまだ麻酔によって眠っていたが、彼女の心拍数や血圧を測っている機器に示される波長は命の危機を乗り越えつつあることを教えてくれていて、慶一朗が長く息を吐いた後、外科のスタッフらと交代するまでもう少し頑張ってくれと伝え、蒼白な顔で見つめてくるアンディに一つ肩を竦める。
「────お前も、お疲れ様、アンディ」
「いえ・・・っ」
あなたの評判の由来を目の当たりにできましたと頷いたアンディだったが、長時間の緊張を強いられたからか、ふらりと揺れたかと思うと、壁に背中をぶつけてそのままずるずると座り込んでしまう。
「・・・誰か、アンディのために車椅子を用意してやれ」
仕方がないと苦笑しつつ小さく欠伸をした慶一朗は、シャワーを浴びてくる、院内で仮眠をとっているから急変したら連絡をくれとスタッフに伝え、シャワー室へと向かう。
その際、壁に嵌め込まれたデジタル時計を目にした慶一朗は、もう真夜中すぎで何時間手術にかかっていたんだろうと溜息を吐くと、手術着を全て脱ぎ捨ててシャワーを頭から浴びる。
頭部損傷のブレンダのオペは半ば成功したが、全身の骨折や内臓の損傷については専門外のために詳しいことは何とも言えなかった。
ただ、手応えとして彼女の命は砂時計の砂のように零れ落ちていかなかった気がしていた。
助かってくれればと願いつつ、出来うる限りのことは行ったと自らのオペを振り返り、全力を出せたと小さく頷いた慶一朗は、熱い湯を顔から浴びて疲労感から高ぶる神経を宥めようとするが、そう言えばリアムはもう帰ったのだろうかとふと恋人のことを思い出す。
同じ病院で働くが二人が付き合っていることは数少ない人しか知らないことだった。
スマホになど目を向ける暇がなかったために放置していたが、何か連絡が入っているだろうかと思い出し、シャワーを止めて髪を乱雑に拭き、ロッカーから着替えを取り出して着替えを済ませた時、不意に足から力が抜けそうになる。
それを必死に押しとどめてタイル張りの壁に背中を預けるとスマホを取り出して電源を入れる。
途端にメッセージやメールが何件も入ってくるが、リアムからのメッセージはたった一件だけで、疲労感が増した気がしながらそのメッセージを開くと、終われば電話をしてこいという短い文面が目に飛び込んでくる。
ロッカールームを出て何処かで電話をかけようと左右を見回した慶一朗だったが、手術室近くの待合室のような場所から心配そうな声と落ち着かせようとする声が聞こえてきたことに気付き、そちらへと足を向ける。
そこにいたのは蒼白な顔に涙を浮かべた少年とそんな少年に良く似た男性で、少年の顔から何かに気づいた慶一朗は、ブレンダの家族ですかと呟くと、その声に二人が勢いよく顔を向ける。
「バ・・・ママは、ママの手術は・・・!?」
思春期真っ只中であることがわかるそばかすの浮いた顔を蒼白にし、ママの様子はと涙目で問いかけてくる少年と、そんな彼の肩に手を乗せてじっと見つめてくる彼女の夫にひとつ頷いた慶一朗は、ついさっき頭部のオペが終わったこと、次は骨折のオペがあるのでまだ時間がかかることを伝えると、二人の顔からさらに血の気がひいてしまい、力無くソファに座り込んでしまう。
「・・・今、外科のドクターたちが頑張っている。皆ブレンダを諦めていない」
だから彼女が最も信頼しているであろう家族のあなた達が真っ先に諦めないでくれとだけ伝えると、後のことは事務方が説明をするだろうから待っていてくれと伝え、失礼と会釈をして立ち去るが、背中に届く嗚咽の声に無意識に拳を握り締めてしまう。
そしてそのまま仮眠室へと向かおうとするが、人の気配がした為に入らずに非常出口から外に出る。
真夏の真夜中の空は星々が輝いていて賑やかだったが、その星の名前など慶一朗に分かるはずもなく、双子の兄ならば分かったのかなと呟きつつすぐ近くにあるベンチに腰を下ろすと、スマホを操作して耳にあてがう。
コールが5回を数えた頃、少し眠そうな声がどうしたと問い返してきて、聞こえてきた日本語に小さく息を吐いた慶一朗は、たった今オペを終えた、やりきったが助かるかどうかが分からないと本心を隠すこともせずに呟くと、そうかとだけ返ってくる。
「・・・疲れた、ソウ」
『ああ、お疲れさんだな、ケイ』
良くやったと双子の兄に褒められてもう一度溜息を吐いた慶一朗だったが、少しだけ気持ちが上向いたことに気づく。
「・・・変な時間に悪かった」
『気にするな』
こちらも真夜中だがちょうど観測していたから問題はないと笑われ、そうかと同じように小さく笑う。
「また、電話する」
『ああ。いつでもいいからかけてこい』
遠く離れた日本で暮らす兄だが、こうして時間を気にすることなく電話をかけても文句の一つも言わずに優しく受け止めてくれるが、それがただの優しさだけではないことに気づいていた慶一朗は、小さくうんと頷いた後通話を終えて星空を見上げる。
以前までならば疲れている時に双子の兄、総一朗の声を聞けば疲労感が拭えるはずだったのに、今それが出来ていない事に気付き、もう一度スマホを操作して耳に当てる。
今度はもう少しコール回数が多くなるが、ハロという慌てているような声が耳に流れ込む。
その瞬間、体の奥に居座っていた疲労感が霧散したような気持ちになる。
『ケイ? もうオペは終わったのか?』
その声に返事をしようと口を開くが喉が乾燥して声が張り付いてしまい、漸く掠れた声がさっき終わったと答える。
『そうか・・・疲れただろう、ケイ』
良く頑張ったと心底そう思っている声で労われて思わず慶一朗が呟いたのは、疲れたのにどうしてお前がいないんだという子供じみたワガママの声だった。
そのわがままをぶつけられた方もぶつけた方も驚きにすぐさま言葉が出なかったが、スマホの向こうから微苦笑混じりの声が返ってくる。
『・・・朝飯を何か作っていこうと思って家に帰ってきたんだ』
お前のことだ、きっと何も食べずに仮眠をとってそのまま朝になって仕事をするつもりだっただろうと苦笑されて素直に頷いた慶一朗の耳に朝飯に何が食べたいとの声が流れ込み、三度空を見上げて疲労から素直な言葉を伝えてしまう。
「・・・お前が作るものは何でも美味い」
だから何でもいいと続けてぼんやりと空を見上げていたが、じゃあ朝一番に仮眠室に向かうから起きてこいと、声だけでも男前な恋人の言葉に自然と笑みが浮かんでくる。
さっき兄に電話をかけた時はあまり疲労感が抜けなかったが、今恋人と話を少ししただけでこんなにも身軽に感じられるものなのだろうか。
不思議な気持ちで見上げていた空から視線を戻した慶一朗の口からあくびがこぼれ、電話の向こうにも伝わったようで、仮眠室に行かないのかと問われてもう一度欠伸をする。
「誰かが先に寝ていた」
だから仮眠室ではなく屋上で寝ていると、抑えることのできなくなったあくびを繰り返しながら非常口から中に入り、静まり返った廊下を通って屋上に出るためにエレベーターに乗り込む。
途中一度エレベーターが停まり、誰かが乗り込んでくるのかと思ってリアムと続けていた会話を止めるが、ボタンを押して力尽きたのか、壁に寄りかかって眠っているナースを発見する。
「みんな疲れてるな」
『そうだな、疲れただろうな』
もちろん、その筆頭はお前だけどと笑う恋人の労いの言葉に頷きながら屋上に出た慶一朗は、ヘリポートもあることから邪魔にならない場所に座り込むと、そのままゴロリと横になる。
「リアム」
『どうした?』
「・・・少し、寝る」
『ああ、お休み、今夜のヒーロー』
きっと今夜お前が救った命は脈々と後に続いていくきっかけになると褒め称えられるが、その声に何と返事をしたのか、それとも聞き間違いなのかも判断できずに慶一朗は失神するように眠ってしまうのだった。
夏の朝日が屋上のヘリポートを照らし始め、その眩しさに目を覚ました慶一朗は、寝転がっていたコンクリートの固さや冷たさではなく何か柔らかいものが身体の下にあることに気づき、眠い目を瞬かせながら座り込む。
「・・・Grüß Gott、ケイ」
日本語や英語よりも自然に理解できるドイツ語─しかもそれはドイツ南部の方言だった─に同じ言葉を口の中で返すが、一瞬で目を覚ましたように声のした方へと顔を向ける。
そこにいたのは朝から見るには眩しすぎる笑みを湛えた愛嬌のある男前の顔で、ぼんやりと見守っていると、どうしたと苦笑しつつ頬を撫でられて体が衝撃を受けたように跳ねてしまう。
「少し話を聞いた。昨日は本当によくやったな」
朝一番に約束通り朝食を作ってきたと笑って横に置いた見慣れたバスケット─これはリアムがキャンプに行くときにいつも持っていたもの─をポンと叩き、お前が淹れてくれるものとは比べられないがコーヒーも持ってきたとも笑うと、慶一朗の頭が下がった事に首を傾げる。
「どうした?」
その言葉に頭が俯いたまま左右に揺れ、大丈夫そうだと溜息を吐いてコーヒーを紙のカップに入れたその時、カップを奪われて背後に慶一朗が投げ捨ててさすがにリアムも驚いてしまうが、慶一朗の手がリアムの胸元を掴み、何かを言いたいが言葉が出てこないといった顔で睨むように見つめる。
「・・・ど、うして・・・」
全ての思いが込められたその言葉にリアムが肩を一つ竦めて小さく笑みを浮かべる。
「お前には元気に働いて欲しいからなぁ」
俺は昨日のような時にはいつも通りのことしかできないが、お前のこの手は誰かにとってかけがえのないものなんだと、己の胸ぐらを掴む手をそっと撫で、そんなお前が自慢だし外には出さないが俺の誇りでもある、そんなお前に俺が出来る事をしているだけだと笑い、世話焼きすぎるかも知れないなとも笑うと、胸ぐらを掴んでいた手が離れて今度は頭がぶつかって来る。
それを受け止めて髪を撫でて細い身体を抱きしめたリアムは、このままずっとハグしていたいが悲しいかな自分達はこの病院で働くドクターで、今日もいつも通りに診察をしなければならない、だからせめて美味いものを食べて今日を乗り切ろうと囁くと腕の中の頭が小さく上下に揺れる。
「チキンとサーモンサンド。どっちが食いたい?」
「・・・サーモン」
「コーヒーとお前が食いたいって言ったから今日はマンゴーを持ってきた」
リアムの甲斐甲斐しさを通り越した、まるで母親のようなその優しさ─実際慶一朗に母はおらず想像でしかなかった─に小さく笑った慶一朗は、顔を上げて照れたような笑みを浮かべつつコーヒーが飲みたいと呟き、己が座っているのがキャンプでよく使うマットの上だと気付くと、ここに寝かせてくれたのかとマットを撫でる。
「コンクリの上は身体が痛いだろう?」
「・・・いつもフローリングにタオル一枚だけ敷いて寝ていたから平気だ」
その言葉がいつのことを指すのかに気付いたリアムが朝食の準備をする手を止めマットを撫でる手を取ると、敬意を示すように手の甲に、ついでよく働く手だと褒めるように掌にキスをする。
「コーヒーとサーモンサンド。今日のランチはしっかり食べないとダメだな」
驚く端正な頬を撫でてさあ食べようと一つ手を打つとそれが慶一朗の気持ちを切り替えたようで、いただきますと小さく挨拶をするが、いつものように無意識に小さく口を開ける。
「もしかしてマスタードがキツイかな」
「・・・・・・いつもと同じで美味い」
二人で食べるときはまず慶一朗に食べさせてから。
その不文律が生まれたのはいつだったかもう忘れてしまった二人だったが、病院の屋上で朝日を浴びながらいつもと同じようにリアムが作る朝食を食べ、フルーツを食べてコーヒーを飲む。
昨日の事故の後のことを思えばこんなにも穏やかな朝を迎えられるなどどちらも想像できなかったが、後何時間か経てば二人ともドクターとして患者に向き合わなければならないのだ。
職場や同僚達には秘密の穏やかな時間は金よりも貴重だと気付いた慶一朗がマットの横をポンと叩き、向かい合っていたリアムが意を察してそこに座り直すと、広く誰の為にも優しい肩に今は自分だけのものだと言うように寄りかかる。
「・・・もう少しだけ、このままが良い」
「まだ時間に余裕はある」
だから気にするなと髪を撫でて昨日の勇者を讃えるように口付けたリアムの声に小さなありがとうが重なり、どういたしましてと笑みを浮かべつつ今日も暑くなると予感させる朝日を浴びながら目を細めたリアムは、肩から聞こえてくる穏やかな寝息に安堵し、小さく欠伸をするのだった。
二人が肩を並べてロッカールームへと向かっている時、すれ違うドクターやナース達から小さな拍手が起こり、慶一朗が優雅に一礼したりサムズアップを決めたりしつつも皆も同じく頑張ったと返していく。
それを横で見守っていたリアムだったが、眠そうなバロウズとばったり遭遇した時はどちらからともなく拳を握り、コツンとそれをぶつけて互いの健闘を讃えあう。
「・・・随分仲良くなったな、ミシェル」
「そうだね、君が言ってたみたいにリアムといると空気が気持ち良いんだ」
皮肉や嫌味を言わない、つまらない事だと腐る事もなく自分にできることをする、そんな当たり前のことを当たり前にやってのけられるすごい男だと分かったよと笑うバロウズの言葉に二人が顔を見合わせ、手放しで誉められたリアムが僅かに赤面する。
「俺の言った意味が分かっただろう?」
「ああ、良くわかった」
一癖も二癖もある友人が人をここまで褒めるなんて今まで聞いたことがなく、それが秘密にしている恋人だったことは慶一朗にとって何よりも嬉しく、力を沸き起こさせてくれるものだった。
だからニヤリと笑みを浮かべ、この空気清浄機は俺のものだからなとバロウズに釘を刺すと、あからさまにその顔が驚きに染まるが、僕は模型という空気清浄機があると笑い、俺は空気清浄機かと苦笑するリアムの腕を一つ叩く。
「今日仕事が終わったら飲みに行かないか?」
「悪くないな」
「ジョーイの店に行かないか、ミシェル」
昨日オペ中にメールが届いていて、珍しい模型が入荷したそうだとスマホを見ながら提案する慶一朗にミシェルが食いつき、二人の趣味が一致しているのをよく知るリアムが飲み会は延期だなと呆れた様に肩を竦め、ロッカールームに入って今日の仕事へと気分の切り替えを果たして出てくる。
カンファレンスが始まる時間が近づき三人並んで歩いていると、パタパタと忙しない足音が聞こえ、ふと足を止めた慶一朗は、背後からそばかす顔を紅潮させた少年が駆け寄ってきたことに気づく。
「ドクター!」
「ブレンダの息子だったな?」
呼び止められて向き合う様に振り返ると、ありがとうございましたと深く頭を下げられる。
その言葉と少年の顔から事態を察した三人は、ママの意識が戻りましたと教えられ二人が同時に慶一朗の横顔を見つめるが、その横顔をリアムは生涯の宝物の様に脳味噌に刻み込む。
「良かった」
ただその一言。
それでも少年にとっては何よりもの言葉になり、今父さんがそばについていますと照れた様に告げた後、もう一度頭を下げて踵を返していく。
その背中に良かったともう一度告げた慶一朗は、呆然とした様に見つめてくる二人の視線に気付き、何だと照れた様にそっぽを向く。
「別にぃー?」
「ああ、別に何もないぞ」
その二人の言葉に慶一朗の顔が赤くなり、次いでその口から出てきたのはお決まりといえばお決まりのドイツ語のあまり良くない言葉だった。
「Scheiße.」
「またそれを言う!」
「うるさい」
バロウズがそんな二人を笑いながらカンファレンスに遅れるぞと歩き出し、お前がそもそも悪いんだミシェルと慶一朗が叫び、リアムもそうだと同意をすると、先を行っていたバロウズが足を止めて舌戦に参加し始める。
そんな三人の横を呆れたり微笑ましかったりそれぞれの表情で同僚達が通り過ぎていく。
カンファレンスの部屋に入り、眠そうな顔のアンディの前に座った慶一朗は背後に顔を寄せると、昨日はご苦労様、よく頑張ったと部下を褒め、その言葉にアンディの目が一瞬で見開かれ、顔に生気が戻ってくる。
「今日も頑張れ」
「はい」
その会話を慶一朗の横の席で聞いていたリアムとバロウズだったが、部長達が入ってきてカンファレンスが始まると流石に気持ちを切り替えたように前を向く。
「まずは報告から」
昨日の事故の詳細が救急外来を統括する部長から報告があり、負傷者の数やオペの後入院している児童とブレンダが皆意識を取り戻したこと、残念ながら衝突したトラックの運転手は衝突した時には心不全で亡くなっていた事が報告される。
警察が調べているそうだが、勤務状態に問題があることも分かりつつあるとも報告され、カンファレンスルーム内がざわつく。
「昨日、オペや負傷の手当てに当たったドクターとナース、警察や家族との連絡を引き受けてくれた事務方に感謝する」
為すべきことを的確に行ってくれてありがとうと礼を言うと、慶一朗が小さく拍手をする。
その拍手に自然と周囲も同調し、昨夜のヒーロー達にと部長が締めの言葉を掛けると、さあ、今日もいつものように診察やオペをしようと皆がそれぞれの仕事を果たしてくれることを期待していると告げ、カンファレンスが終了する。
そして、それぞれの持ち場へと向かうドクターやナースらは、昨日の出来事を勲章のように思うのではなく、毎日続く仕事の一場面だと気持ちを切り替えて今日も自分たちを待っている患者の為に持てる技術を発揮するのだった。
大きな事故の翌日は、昨日と同じように暑く晴れた夏の一日だった。