4年ぶりに帰国した実家のある町は何もかもが変わっているというような劇的な変化はしないが、それでも見慣れないスーパーが出来ていたり、個人経営の小さな店が閉店していたりと、確実に時の流れを感じさせる変化をしていた。
エリアスが運転する車の助手席でシドニーとはまた違う空色を見上げたリアムだったが、その横顔は久しぶりの帰省に胸を躍らせているような浮かれた様子はなく、どちらかと言えば悩みを抱えたまま帰国したと言いたげな顔色だった。
運転しつつそれに気づいたエリアスが何を悩んでいる、話ができるのならしてくれと控えめに促してくれたため、三か月前の独り寝の発端から掻い摘んで事情を説明したが、運転席から返って来たのは呆れているのか感心しているのか良く分からない苦笑ひとつだった。
「……馬鹿だとは思うけどな」
お前の結婚式の招待状が届いたことが嬉しくて、もしかすると自分でも気付かない程浮かれていたのかもしれないと肩を竦めると、嬉しさと申し訳なさ半分の顔でエリアスが苦笑を深める。
「僕が原因でケンカなんて止めてくれよ」
「お前が原因じゃないから安心しろ」
幼馴染同士の気軽さで今回の口論について互いに苦笑し合うが、それでもまだ冷戦は継続中かとエリアスが苦笑交じりに問えば、リアムが一度停戦したと更に苦笑で返す。
「どういうこと?」
「ああ……誕生日の旅行の件についてはお互い納得したから問題は無いけど、ドイツに来る来ないでまたケンカをした」
「……仲がいいからケンカできるとは思うけど」
あまりケンカしすぎるのもよくないぞと、張本人よりも何故か心配げな顔になるエリアスに礼を言ったリアムは、確かになぁと溜息を吐いて窓枠に肘をつく。
「ドイツに来るのを嫌がっているとかなのか?」
「そんな感じはしなかったけど、もしかするとそうなのかもな」
ただ、旅行に行く事もようやく慣れてきたぐらいで、きっと長期間自宅を離れるという経験が無いから不安なんじゃないかと、己の恋人の不安そうな横顔を思い出して呟くと、その不安はリアムが解消してやらなければならないんじゃないかと笑われてもう一度ため息を吐く。
「だよな」
「うん、だと思う」
冷戦というほどではないがそれでも何だかぎくしゃくしている己と恋人の事を思い出しながら重苦しい息を吐いたリアムだったが、己の頬を片手で軽く叩き、気分転換だと声を弾ませる。
「うん、そうだね」
エリアスもその言葉に笑顔で返すが、車がリアムにとっては懐かしい町並みの中を走り始め、どちらも同時に口を閉ざしてしまう。
町の中央を南北に貫く通りを半ばまで進み、何軒かの商店などが集まっているエリアから一本奥の道路へ進んだ先に、こじんまりとした昔ながらの農家を連想させる建物が二人を出迎えてくれていた。
二階建てのその建物の二階テラスの手すりにはゼラニウムが植えられたバスケットが等間隔に並び、建物の横には店の目印にもなっている一本の菩提樹がまだ黄葉した葉を茂らせていた。
記憶の中ではもっと背丈の低い木だと思っていたそれが見上げても先端が見えない程大きく成長している事に思わず感嘆の声を上げてしまう。
「立派だよね」
「そうだな……」
黄色く色づく葉もそろそろ地面へと居場所を移してもおかしくない季節だが、帰国したリアムの目を楽しませるように残っていて、4年ぶりの帰国に少しだけ言葉を失ってしまう。
そんなリアムの荷物を車のトランクから出しながらエリアスが見守っているが、飾り窓が付いた木製の扉が勢い良く開いたかと思うと、中から女性の声が響き渡る。
「リアム! 私の小さな宝!! 良く帰って来たねぇ!」
「ばあちゃん!」
ドアを開け放って涙混じりの声でリアムを呼んだのはこの店の主でありリアムの祖母であるクララ・フーバーで、通りを行きかう人たちが何事だと二人を見るが、何だ、クララばあさんの孫が帰って来たのかと微笑ましい笑みを浮かべて通り過ぎていく。
気が付けば店の横の菩提樹のように大きく育った孫を抱きしめ、本当に良く帰って来たとその背中を撫でたクララは、荷物を持ったエリアスが車の傍で微苦笑している事に気付き、ああ、迎えに行ってくれたんだねと相好を崩してエリアスの手を取る。
「うん」
「ありがとうね、エリアス」
「ううん、大丈夫」
エリアスに己の荷物を持たせたままだと気付いたリアムが慌てて幼馴染の手から荷物を受け取り、開け放たれたままのドアへと目を向けると、クララと同じく目に涙を溜めた母、フリーダと、にこにこと嬉しそうに顔を笑み崩れさせている父、マリウスがいて、ああ、帰って来たんだなと思わず感慨深い溜息を吐いてしまう。
「疲れたんじゃないのかい?」
「うん、少し疲れたかな」
出迎えてくれる両親の頬にキスをし、やっと帰って来たと笑ったリアムだったが、エリアスがじゃあ僕は帰ると手を挙げた為に軽く驚いてしまう。
「もう帰るのか? 少し休んでいけばどうだ?」
「久しぶりに家族勢ぞろいなんだ、邪魔しちゃ悪いだろ」
エリアスの遠慮からくる言葉にリアムが目を丸くし、そんなこと気にすることじゃないと口を開こうとするが、そんな二人を交互に見たクララがお茶の一杯でも飲んでいきなさいと優しくその背中を押し、それじゃあと頷いたエリアスとリアムが夜の営業までの細やかな休憩を取るために閉めている店の中に入る。
店の中は外観と同じくこじんまりとしていて、思い切り深呼吸をしたリアムの鼻腔を懐かしいが何処か新鮮に感じる空気が通り抜ける。
「……久しぶりの家はやっぱり良いな」
ベンチソファに腰を下ろして安堵にも似た吐息を零すリアムにその横に座った父が腹は減ってないのかと問いかけ、今は大丈夫だと年々良く似てくる父に笑いかけたリアムは、祖母がコーヒーを持ってきてくれたことに気付いて立ち上がり祖母の手からトレイを受け取る。
「エリー、今日はこの後何か予定があるのか?」
ベンチソファに父と母と並んでリアムが座るとさすがに狭さを感じ、隣のテーブルから椅子を持ってきたリアムがそちらへと移動し、椅子の背もたれに肘をついてエリアスを見ると、ホッとしたような顔から疑問を浮かべて小首を傾げる。
「今日は何もないよ」
明日はアグネスとお前と一緒に披露宴をするレストランに行こうと思っていると返されてどこのレストランだとリアムが興味津々の顔で問いかける。
「うん。ゲートルートって店」
「え、あの店で披露宴をするの!? 良く押さえられたわねぇ」
エリアスの言葉にフリーダが目を丸くし、マリウスも同じように目を見張っているが、そんなに人気の店なのかとリアムが問いかけ何度も頷かれる。
「予約してもなかなかすぐには行けない店なんだ」
「そうなのか」
「うん。アグネスの職場に店長と親しい人がいるらしくて、その人に頼んでもらったら予約出来た」
人脈は作っておいて損はないと笑うエリアスにリアムも同じ顔で頷き楽しみだと笑うと、父と母が私たちは店があるから披露宴には出られない、だから思う存分食べておいでと笑われて今度はリアムが驚きに目を見張る。
「店は閉めないのか?」
「難しいねぇ」
エリアスには断りを入れたが、結婚式とその後の披露宴の様子がわかる写真を見せてくれるだけでも十分だとクララが笑い、エリアスの顔にさすがに寂しそうな色が浮かぶ。
「……でも、リアムだけでも参列してくれるのは嬉しい」
「ああ、もちろん」
お前の結婚式だから何があっても出席すると頷くリアムにエリアスも安堵の息を零し、とにかく明日最終的な打ち合わせも兼ねてゲートルートに行くと伝えるとコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「リアム、また明日!」
「ああ。気を付けて帰れよ」
わざわざ空港まで迎えに来てくれるだけではなく家にまで送ってくれてありがとうと礼を言ったリアムは、店先で幼馴染が帰っていくのを見送り、車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしているが、ドアを閉めて中に入るとほんの少しだけ空気が変わった事に気付く。
その異変が何に由来しているのかを薄々感じ取った孫息子が盛大な溜息を吐き、エリーの祝いなのにと呟くとクララが寂しそうな顔でリアムを手招きし、さっきよりは弱い力で抱きしめる。
「分かってるよ。あんたとあの子が仲良くするのは止めやしないさ。でも……」
あの子を見ているとどうしてもあんたの成長する姿を見たかったと思ってしまうんだと呟かれて何も返せなかったリアムだったが、その気持ちだけで嬉しいと伝えるように祖母の小さくなった背中をそっと抱きしめる。
「……ばあちゃん、久しぶりにばあちゃんのプファンクーヘンが食いたい」
「良いよ、すぐに焼こうかね」
久しぶりに祖母が焼くクレープのようなパンケーキが食いたいとリアムが子供の頃から何も変わっていない顔でクララに片目を閉じ、祖母も久しぶりに作ろうかと腕まくりをする。
その姿に父と母が何か言いたげだったが、ひとまずは祖母と孫が嬉しそうにしているのを見るだけで満足するのだった。
リアムが実家で祖母特製のプファンクーヘンに甘さ控えめのホイップクリームと手作りのジャムを載せたものを満喫していた頃、距離にして1万6千キロ、8時間の時差があるシドニー近郊の住宅街では、いつもと違って優しくないが聞き馴染んだ声がスマホから聞こえて目を覚ました男がいた。
「……ハロ」
『起きたか、ケイ』
広い広いベッドの端でうるさく鳴り続けるスマホを手に掠れた声で返事をしたのは、リアムと一緒にドイツに行く事を拒んだために一人きりになっていた慶一朗だった。
「今、起きた……」
電話の相手はこれもまた遠く離れた日本に暮らす双子の兄、総一朗で、一人で起きる自信が無いために時間になれば電話で起こしてくれと頼んでいた通りに朝が来たと起こしてくれたのだが、今頃実家に到着しただろうリアムとの起こし方の違いに盛大な溜息を零す。
『朝飯はどうするんだ?』
「ん? 食わなくても死なないから大丈夫だ」
ベッドに座り込んで床に落ちていたバスローブを着込んだ慶一朗は、心のどこかがざわめくような静けさに体を思わず震わせてしまい、朝飯を食わないのなら職場のカフェでしっかりと食べろと兄から忠告されて気が向けばと返す。
『ケイ』
「……分かってる」
昨日ドイツに向けて出発したリアムも同じように口を酸っぱくして忠告していたから分かっていると、苛立ちを隠さないで返すと微苦笑されて我に返る。
「……分かってる、ちゃんと、食べる」
『ああ。……リアムから連絡はないのか?』
「ん? ああ、無事に着いたらしい」
『そうか』
なら良かったと笑い、もう目が覚めたようだから大丈夫だな、そろそろ俺も起きると総一朗が苦笑し、ありがとうと礼を言いながらベッドルームから階段を下りてキッチンへと向かう。
いつものこの時間はリアムが朝食の用意をするために慌ただしく動き回るか、それとも朝食の仕上げに掛かっているのに、今は一人きりだと教えるように家じゅうが静まり返っていて、胃の辺りに不快感を覚えてしまう。
「ソウ」
『どうした?』
「……お前の父親の家ってドイツのどこだ?」
お前の母親の愛人の出身はケルンだと聞いたことがあったがどこだったと、慶一朗にしてみれば何も不思議はない疑問を投げかけるが、返って来たのはただの沈黙で、一瞬何故沈黙が産まれるのか理由が分からなかった慶一朗が首を傾げつつ冷蔵庫を開ける。
「ソウ?」
『……いや、何でもない。――あの人の出身は南部のベルンリートだな』
「ふぅん。初めて聞いたな」
『ああ……リアムの実家はどこだ?』
「ん? 忘れた」
冷蔵庫からいつの頃からか常備されるようになったグレープフルーツジュースをグラスに注いで飲み干した慶一朗が忘れたと返すと、電話の向こうから呆れたような吐息が伝わってくる。
『……とにかく、遅刻するなよ』
「ああ、大丈夫だ」
ダンケ、総一朗と礼を言って通話を終えた慶一朗は、カウンターの端に行儀悪く尻を乗せて庭を見つめ、一緒にドイツに行けばよかったのかと、ひと月以上葛藤し続けている悩みを思い出し、やるせない息を吐く。
先程総一朗の父親の出身地を聞き、リアムの実家がある町の名前を忘れたと言ったが、ドイツ南部の大きな町からの交通手段も調べ、何とか一人でもたどり着けると確信を抱いていたほどだから忘れるはずはなかった。
だが、何故リアムの帰省に合わせて一緒にドイツに行かなかったのかと朝一番に兄に問われることを避けたいがために忘れたふりをしてやり過ごしたのだ。
本当ならば、こんなだだっ広い家に一人きりでいたくなどなかった。
リアムがドイツ行きを誘ってくれた時、一も二もなく一緒に行きたかったが、総一朗の父の出身地とリアムの実家がある町が車で小一時間ほどしか離れていない事を調べているうちに知ってしまい、総一朗の父が成人するまでとはいえ日々過ごしていた町の近くに一人で向かいたくないとの思いが咄嗟に胸に溢れかえったのだ。
リアムがいれば平気だと思いたかったが、やはり幼い頃から骨の髄にまで染み込んだ孤独とそれを与えた大人達に所縁のある土地に近づきたくなかったのだ。
だからドイツ行きも躊躇し、断った結果が今ここで一人朝を迎えている現実にやるせない息を零した慶一朗は、スマホに届いたリアムからのメッセージにはちゃんと返事をしようと決め、画面を開いておはよう、今起きた、お前のいない朝は何だか変な感じがすると送ると、まるでリアムが傍にいるときのようにすぐに返事をくれる。
今はこれで我慢するしかないと己に言い聞かせた慶一朗は、エリアスの結婚式と披露宴の写真や動画を見せてくれと返し、出勤の準備に取り掛かるのだった。
素直になれない男と無理強いをさせたくない男のある意味意地の張り合いは、地球の南半球と北半球に渡って繰り広げられ、どちらもいつどのタイミングで折れようか、それとも相手が折れるのかと内心期待しつつ、一方はいつもと変わらない日常を、もう一方は実家に帰省といういつもとは違うがそれでも日常を送るのだった。
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