私と悠はいつも最寄りの桜舞駅から。電車で二駅先の金白駅で下車し、保育園まで歩いている。
通勤時間は四十分くらいだ。
自転車で行けなくもない距離なのだけど、雨が降った時に厄介だし、何より悠と待ち合わせして、通勤中に話す二人の時間が好きなので電車通勤をしている。
今日も、電車で隣に座り二人で話をしていた。
「悠、今週は週安書いた?それにもうすぐ誕生日会だったよね。出し物どうする?」
「げっ。週安なんも書いてない。誕生日会…、どうしよっか」
痛いところを突かれて苦い顔をした悠だが、すぐに「あ、今日の晴のシュシュ可愛い」と話題を変えてきたので、現実逃避をしようとしていると私は見抜いた。
逃がすわけがない。
「ただ忘れてただけでしょ」と、ちくりと刺すように言った。
「悠ってさ。なんでも手書きじゃん。そろそろパソコンで資料作ること覚えたほうがいいよ。作業もきっと今より早くなるし」
「えー。俺は人間味がある手書きが好きなんだよ」と言ったが、何か思い出した様子で「あ、でも、そうだった。晴ぅ、やっぱ悪いんだけどパソコン教えて」と頼んできた。
悠のほうから、パソコンを教えてほしいだなんて珍しい。
「わかった。今度、悠んち行った時、ノートパソコン持ってくからそれで教えるね」
「ありがとー。めっちゃ嬉しい!映画でも観る?なんか借りとこうか?」
私が家に行くと言った途端、うきうきしながら悠が喜び出した。
陽気に浮かれる彼に「目的は、パソコンで資料の作り方を教えに行くんだからね」と釘を刺した。
「うーーー。でも晴来てくれるの嬉しいもーん」と、悠が口を尖らす。
「ついでに、ご飯も作ってあげるよ」
「いえーい!晴の手料理が食べられるー」と、また浮かれ出した。
悠は専門学生の頃から一人暮らしなので、もうすぐ三年が経とうとしているのに料理が苦手で覚えようとしない。
普段も、よくコンビニ弁当やカップ麺で食事を済ませている。
そんな彼の食生活が心配で、たまに私が料理を作りに行ったり、うちの残ったおかずをタッパーに詰めて差し入れしにいくことがあるのだ。
最近、忙しくて悠の家に行ってないから、部屋も汚れているだろうし、まずは部屋の片付けからだろうな。
そう考えていると、電車が止まってドアから乗車する人が入ってきた。
悠の目がぱっと開く。
「ごめん、俺ちょっと席譲るわ」と、言って立ち上がると、すぐに「お母さんお母さん。この席使ってください」と、さっき乗車した赤ちゃんを抱っこ紐い入れている母親に声をかけた。
「あ、私すぐ降りるから大丈夫ですよ」
「でも、僕は次の駅で降りるんで使ってください。電車揺れるから危ないし、赤ちゃん抱っこしてると重くて腰も痛くなるでしょ」
「それなら、お言葉に甘えて」
母親はそう言って、悠が座っていた席にゆっくり腰を下ろす。
「これから、この子の検診で病院にいくんだけど、実は腰痛で困っていたの。本当にありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。困った時はお互い様ですよ」と、悠は笑って返した。
悠は困ってる人がいると、いてもたってもいられなくて誰にでも声をかけるような人なのだ。
一緒に電車に乗ってる時も、妊婦さん、子連れ、老人を、見かけるとすぐに席を譲る。
悠は不器用で要領の悪いところもあるけど、困ってる人に気づいて温かい優しさを素直に向けられる。
私は、彼のそんなところを尊敬しているし大好きだ。
そういえば以前、悠がまだ保育実習生の頃、おじいさんの道案内をして遅刻してきたことがあった。
その日は、保育園の芋掘り遠足の日で、当然、遅刻なんて許されない。
あの時の悠の焦った顔を思い出すと、笑いが込み上がる。
実に彼らしい出来事だったなぁ。
「もしかして彼女さん?」
隣の席で、悠と話しているのを見て母親が声をかけてきた。
「一応、そうです」と、少し照れながら応えた。
私の前で、吊り革に捕まって立っている悠がニヤニヤしている。
私が彼女です、と自己紹介したのが嬉しいのだろう。単純なやつだ。
「こんな気遣いできる彼、逃しちゃダメよ」
「えー。でも変に頑固なところあるし、忘れっぽいし、この前なんて忘れ物が多い彼にうんざりしてケンカしてしまったんですよ」
「ふふふ。男なんてそんなものよ。でもね、大事なのは、あなたを誠実に愛して大切にしてくれる人かどうかなのよ。彼はそれができる人だと思うの」と、悠に聞こえるか聞こえないかの小さい声で母親は言った。
「貴重なアドバイスありがとうございます」と、私も小声で応える。
「何、こそこそ話してんだよー」
「女同士の話ー」と、私は悠をあしらった。
金白駅に着いたので、私たちは母親に「お気をつけて」と会釈してから電車を降りた。
見ると窓から手を振ってくれていて、私たちも手を振って返す。
不意に、悠を逃げられなくしてしまってるのは私で、本当は、悠は私なんかと付き合っていないほうが幸せなんじゃないだろうか。
そんな考えが頭をよぎってしまい、心が沈み、私は俯いてずきんと痛む胸を抑えた。
「どうした晴?なんか顔色悪くない?大丈夫?」
心配そうに悠が私を覗き込む。
普段は能天気で鈍感なくせに、悠はこういう時にはすぐ気づく。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから。私なんかの心配しなくていいよ」と、適当に誤魔化して歩き出した。