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数日後、高山ジュスト右近は供も連れず、たった一人でノブナガの本陣にやって来た。
甲冑を纏わず、太刀も脇差も帯びず紙子と呼ばれる和紙で作った粗末な着物を身に着けるのみである。
常は西洋の装飾を取り入れたきらびやかな甲冑を纏って威風堂々としていた高山右近がまるで別人と言うしかないみすぼらしい姿であった。
ノブナガも諸将も唖然として言葉も無く、右近の悄然とした白い顔貌をただ見つめるしかなかった。
そして右近の口から出た言葉は、出家する故、降伏を認めていただきたいというものだった。
「それがしが賜った領地は全て返上致しまする。武人としての道もきっぱりと捨てまする。これからは唯一絶対の天の支配者、貴きデウスへの奉公にのみ尽くす所存」
「……」
ノブナガの双眸は天を切り裂く雷光の如き鮮烈な光を放っていた。戦場往来の猛者と言えどこのノブナガの眼光に射貫かれれば、たちまち震え上がるだろう。
だがジュスト右近はその眼光を真っ向から受け止めながら微塵も動ずることなく、淡々と己の欲するところを語った。
「それ故、何卒宣教師様方と高槻の信者の御命をお救いください。伏してお願い奉ります」
ジュスト右近は地に額づいて懇願した。
「右近よ……」
ノブナガは言葉をかけた。その声はわずかに震え、その顔貌は右近をいたわる愛情に満ちていた。
「よくぞ申した。お主のその高潔さ、見事な覚悟、深く感じ入ったぞ」
「それでは……」
「うむ。元より宣教師と信者を皆殺しにする云々はただの脅しに過ぎぬ。罪を犯したわけでもなく、清貧な生き方を貫こうとする彼らにこの信長が惨い仕打ちをする訳がなかろう」
「……」
「またお主も武人を辞める必要は無い。お主はあの恥じ知らずの村重とは縁を切ったのじゃ。改めてこの信長に仕えてくれ。高槻の領土は返上するには及ばぬ。その上加増することを約束しよう。お主は天下の武士共の手本となるべき男よ」
「何と勿体ない御言葉……」
ジュスト右近は感激に打ち震え、ノブナガへの忠誠を誓った。
全てを捨ててデウスへの信仰にのみ生きると誓った言葉に偽りは無い。だがまだ若く活力に満ちたジュスト右近の心底にはやはり武人として生きることに未練があったのだ。
そして覇王ノブナガにこうまで言われたのだから、まだまだ己は戦場を駆け巡り、武勲を立てねばと思った。そうすることによって、デウスの教えに懐疑的な天下の武士共の荒んだ心に真の信仰を呼び起こすことが出来るのではないか。
(当初の予定とは少し違ったが、宣教師達と我が高槻の信者達の命はこれで救われた。後は我が妹と息子の命を救うことが出来れば何も言うことは無い。父上、何卒お願いいたしますぞ)
ジュスト右近は十字を切り、有岡の荒木村重の元に向かった父、ダリオ友照にデウスの加護があるよう祈った。
同じ頃、有岡城の荒木村重は側近達を引き連れてやって来た高山飛騨守、ダリオ友照の前でその狒々を思わせる魁偉な顔貌を失意と憤怒で朱に染め上げていた。
「右近めが武士の身分を捨てて信長に降伏しただと!」
周囲の空気を震わすまでに怒号し、右近の父であるダリオの首をへし折ってくれようかとばかりに睨み付けた。
ダリオの側近達は震えあがり腰を浮かしたが、当のダリオは泰然としていた。
「いかにも。全く持って不肖の息子でござる。所詮あれは真の神への信仰と武人として主君への義を尽くすことを両立させることが出来る器ではなかったのでござる」
「……」
「だがこのダリオは違いまする。キリストの僕として、武士の道を貫くモノノフとしての手本を天下に示す為、荒木摂津守様の馬前にて命果てるまで戦い抜く所存でござる」
そう言ってうやうやしく頭を下げる高山飛騨守の白髪頭を睨み付けながら、村重は右近の白い顔貌を思い描いた。
(全てを捨ててでもこの儂に与したくない、謀反人にはなりたくないと言う事か。あの正義漢きどりめが)
そして人質である右近の妹と幼い息子のことを思った。
(その度が過ぎた潔癖、正義感、そして儂への忘恩への報いに首を刎ねて奴の元へ送りつけてくれようか)
その村重のどす黒い殺気に感応したように、高山飛騨守が頭を上げた。その双眸に瞋恚の炎が燃え盛っていた。
(いや、それをすれば流石にこの老いぼれは儂と刺し違えてでも報復しようとするであろうな。間もなく信長めが攻めてくるというのに、右近如きの為に判断を誤る訳にはいかぬ)
ダリオの洗礼名を持つ高山飛騨守は勇猛な武将であり、その清廉な生き方、古武士の風格を慕う兵はこの有岡にも多い。息子と縁を切ってまで馳せ参じたこの老武士を死なせたら、士気は大いに落ちるだろう。
逆に恩を与えたらこの愚直な飛騨守は感激し、また人質である娘、幼い孫を守りきる為に常よりも懸命に戦うであろう。
そう素早く計算し己に言い聞かせた村重であったが、どうも釈然としない部分があった。
(これはまさか、人質を救うために右近と飛騨守でうった芝居ではなかろうな)
村重は思った。信長の手に握られた宣教師と高槻の信者、そして村重に人質としてとられた右近の妹と幼い息子を守る為に右近は出家するふりをし、飛騨守は村重の元で戦い、隙を見て人質を奪還する。確かに最良の手と言うべきだろう。
(いや、しかしあの潔癖な右近や一徹な飛騨守ではこのような策、芝居を演ずることは思いつかぬか。仮に配下の者共が献策しても、右近はともかく飛騨守は受け入れぬであろうな)
村重は高山飛騨守に随身している側近達に視線を送った。いずれも武勇優れ主君に忠実無比な武者共であるが、人質を救う策を考え出したり、頑固な主君を説き伏せるような器量の持ち主ではない。
(やはり真実、この父子は己の信念に従って違う道を選んだと言う事か)
あの潔癖無比な正義感、小憎らしい高山右近を謀反人として共犯に仕立て上げることは断念するほかあるまい。
己の中にあった右近への執着、憎悪を断ち切ると村重の軍略家としての冷徹な思考が冴え始めた。
(考えてみれば、右近がやむを得ず儂に加担しても、あ奴のことであるから常程の働きは出来まい。だがこの飛騨守であれば、不義理な息子の汚名を晴らす為、また娘と孫を守る為にも死にもの狂いで戦うであろう。儂は結果として士気の低い切れ味の鈍った知将の代わりに極めて士気盛んで老練な猛将を手に入れたのだ)
この結果は良しとすべきであろう。村重はそう己に言い聞かせ、鷹揚な態度で老いたる猛将に言葉をかけた。
「あい分かった。右近の如き不忠者のことは忘れよう。飛騨守よ、お主の働きに期待したいと思う。よろしく頼むぞ」
「ははー。勿体なき御言葉……」
高山飛騨守は深々と平伏した。その為、村重は飛騨守の老顔に浮かんだ己を恥ずる表情を見ることが出来なかった。