コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
真夏の暑さが朝晩は控え目になり、空を流れゆく雲も秋の色へと染まりつつある初秋の午後、午前中にいつも以上に集中力を発揮しなければならないオペを無事に終わらせ、その安堵を胸に先日オペを終えた患者の容態を診るために病棟へと向かっていたのは、今日のオペもやはり素晴らしいという評判を己の世界の内外で噂されていたドクター・ユズこと杠慶一朗だった。
特別に親しい者の前では滅多に見せることのない、所謂取り繕った表情ー彼の場合は飄々とした捉えどころのない表情と良く評される笑み-を浮かべ、親しいスタッフからの挨拶に気軽に返事をし、あまり親しくないスタッフにはそれでも一礼する表面上の礼儀正しさを忘れずに見せていたが、病棟の廊下の角を曲がった時、少し先で数名の男女が事務長のカーターの案内の元歩いているのを発見し、息をするよりも早く踵を返す。
ちらりと見ただけだが、男女の身なりはどの人も上品なもので、持つものは持たざる者へ施しをするを当然と考えられる人達のように感じ、傍にいると碌なことにならないと本能が警告を発していた。
その警告の最奥ではそんな表面上の嫉妬などどうでも良いと思える、大げさに言えば命の危機に関わるような事態が起きる、だから逃げろと悲鳴じみた声を発していたが、慶一朗自身それに気づくことはなく、ただ慈善事業を本気で慈善だと感じられる人たちから逃れようと廊下を引き返していた。
そんな彼に前方からやってきた病院長のアーチボルドと己の上司のテイラーを発見し、虎と狼の口に飛び込むのならばどちらが良いと皮肉気に呟くと、前門の虎に感じていたテイラーが笑顔で手を挙げて名を呼んでくる。
「ケイ!」
「・・・無視したかったのになぁ」
上司が親しげに呼びかけるそれに肩を竦めつつ皮肉を口にすると、アーチボルドが己の友人とその友人の部下の顔を交互に見る。
「今日のオペも完ぺきだったらしいな」
「オペは完璧ですが、まあクランケ本人の生きたいという意思が強かったんじゃないですかね」
どれほどの名医であろうとも死にたいと思っている人を助けることは出来ないと、人が心の奥底に抱える強い意志を覆すことの難しさを感じてきていた慶一朗が肩を竦めると、二人の上司が顔を見合わせた後、理解できる気持ちとできない気持ちをそれぞれの顔に思い浮かべる。
「俺が思ってるだけなので、他の人がどう感じるかは分かりませんよ」
あくまでも俺が今まで経験してきた中で感じたことだと断り、それよりも先ほど見かけた集団は何だと声を潜めると、テイラーが何に気付いたのか目を細め、財界の慈善団体の人たちが視察に来たと返し、アーチボルドも仰々しく頷く。
「そうだ、ドクター・ユズの評判が彼らの耳にも入っているようで、会って挨拶をしたいと言っていたな」
「・・・忙しいので断ってください」
財界だろうが政界だろうが慈善団体の人たちとは会いたくないともう一度肩を竦めた慶一朗は、先日オペをした患者の様子が気になるので病室に行きますと二人に伝え、集団の横を通り抜ければ最短ルートで向かえるのを遠回りのルートへと顔を向けるが、立ち話をしている間に事務長の声がすぐ近くで聞こえてくる。
「ちょうどよかった、院長、テイラー部長」
皆さんが挨拶をしたいと言っていると二人に笑顔を向けたカーターだったがそこに慶一朗がいる事に気付き、彼がここで優秀なドクターの一人だと集団に慶一朗を紹介してしまう。
その紹介に、話には聞いていたらしい強欲さを上品なスーツに押し隠そうとしている初老の男が満面の笑みで手を差し出して慶一朗に握手を求めてくる。
こうなりたくなかったから早く離れたかったのにと内心で毒づきつつも飄々とした笑顔のままその手を握り、一秒でも早くその手を放して洗いたいと思った時、こちらは見るからに上品そうなスーツに身を包んだすらりとした長身の男が呆然と目を見張って己を見つめている事に気付き、何だと訝りつつその男を見るが、その瞬間、目の前で満面の笑みで己の自慢になると意味の分からない事を話す初老の男など眼中にないと言いたげに慶一朗の顔から表情が消え去ってしまう。
「・・・・・・どうしてお前がここにいるんだ」
「来てよかった」
慶一朗の口から流れ出したのは表情からは読み取れない感情に揺れるドイツ語で、同じくドイツ語が返されたことから集団の人達も何事だと二人の顔を見比べるが、その場にいた誰にも口出しさせないように男が一歩を踏み出して慶一朗の腕を掴むと、先日、総一朗にも会った、元気そうだったとその耳元で囁く。
「・・・っ!」
どうしてお前の口から総一朗の近況を聞かされなければならないんだと、色素の薄い双眸に怒りを浮かべて腕を振りほどいた慶一朗の様子から何かを感じ取ったテイラーが、こんな場所で立ち話もあれなので院長室に向かいましょうと声を掛け、それに気付いたカーターが集団をそちらに案内するためにどうぞと歩き出す。
「ドクター・ユズは一緒に来てくださらないの?」
あなたとゆっくり話をしてみたいのにと残念そうに視線を投げかける女性の声も慶一朗には届いておらず、テイラーが彼は今から患者の病室に向かう必要があるからと、己の部下を庇うように肩を竦めればその女性は他の人達と一緒に歩き出すが、慶一朗に腕を振り払われた男はその場を動こうとしなかった。
「失礼、ミスター・・・」
「・・・会えて良かった」
高校の卒業以来だから何年になるか分からないが二人とも元気に活躍していて良かったと、ナイフとフォーク以外持ったことがないのではないかと思える手が慶一朗の頬を撫で、他の人達に勘繰られるのも嫌だから私は行くと名残惜しそうな顔で慶一朗の耳に言葉を残すと、少し離れた場所で立ち止まっている集団に追いつくようにゆったりと歩いていく。
「ケイ、大丈夫か?」
慌てて戻ってきたテイラーの声も耳に入らないほど慶一朗はただただ茫然と立ち尽くしてしまうが、テイラーに強く肩を揺さぶられて息を吹き返した人のように胸を喘がせる。
「ケイ、大丈夫か?」
「・・・・・・ジャック・・・、悪い、今日は、帰る」
「え? 何だって?」
テイラーが心配そうに覗き込むのを遠くの世界のように感じつつ今日はもう仕事は出来ないから帰ると伝えるが、テイラーの耳には不明瞭なドイツ語が届いただけで、何だってと聞き返されたことで意識を取り戻したように色素の薄い目を限界まで見開く。
「・・・さっきの団体は・・・今日ここに来るだけ、か?」
「いや、詳しいことは僕も知らないな。後でカーターに確認するけど、さっきお前の手を掴んでいたのは・・・」
一体誰なんだと問いかけたテイラーの前には今まで見たこともない無表情さで前を見据える慶一朗の横顔があり、触れないほうがいい話題だろうかと危惧するが、あの男はライトマイヤーだと教えられてライトマイヤーと口の中で繰り返す。
「・・・・・・ドイツ出身の男だ」
「そうか」
「・・・Scheiße.」
くそったれとドイツ語で短く罵った慶一朗だったが、病室に向かうことを思い出し、心配そうに見送ってくるテイラーに手を上げて病棟へと向かう廊下に進んでいく。
その背中を溜息ひとつで送ったテイラーだったが、ライトマイヤーともう一度口の中で呟き、取り出したスマホのメモに、紳士的で上品な男の名前を入力するのだった。
院長室で上っ面だけの上品さで交わされる言葉を右から左に流していた男、ライトマイヤーは、久しぶりに再会できた慶一朗が日本を訪れた際に会えた双子の総一朗同様元気そうで良かったと胸の奥深くで安堵の息を吐く。
二人は己に会いたくなどなかっただろうが、それは彼も同じだった。
ただ彼には二人とは違い、彼の大切な人から頼まれたとの理由があった。
何を差し置いても、己の命を擲ってでも叶えたい、大切な人の願い。
それを胸に己を奮起させ、ちっぽけな極東の島国と人よりもカンガルーなどの野生動物の方が多く住んでいるようなオーストラリアにわざわざ出向いたが、こうして会えたのだから来て良かったと目を細めた時、先ほどのドクター・ユズの評判について他の同行者が口にする。
同行者が口にした話題を病院長が穏やかな口調で語り始め、遅れて合流した慶一朗の上司にあたる男が誇張しすぎない説明をする。
そのどちらの言葉からも嘘を感じ取ることはなく、己の大切な人の代わりに心底安堵したライトマイヤーは、帰国すれば真っ先にそれを伝えて安心して貰おうと決め、他の同行者とは少し違った面持ちで慶一朗の話に耳を傾けるのだった。
そんな様子をテイラーが視界の片隅に収めつつ、己の部下について仕事面での優秀さを強調するように話をするのだった。
今日は何故か患者が多く、院長のホーキンスをはじめとしたスタッフ一同、働きアリのようにひっきりなしに訪れる患者の応対に追われていた。
その為、このクリニックでは必須の午後のお茶の時間を取ることも出来ず、皆が一息ついた頃には窓の外には夕闇が迫っている時刻になっていた。
「・・・お疲れ様ね、リアム」
「ディアナも疲れたんじゃないのか?」
今日の最後の患者が受付で診察後の手続きをしているのを感じつつ、奥では繋がっている隣の診察室へと足を向けたリアム・フーバーは、椅子を回転させながら労いの言葉をかけてくれる
院長であり最近では尊敬できると思えるようになってきたホーキンスの言葉に一つ肩を竦め、あなたも疲れただろうと返しつつ彼女の背後にある診察台に腰を下ろす。
「今日は本当に患者が多かったわね」
ここを訪れるのは初診の患者よりもかかりつけ医として選んでいる人達が多く、その人達の不調を何とか取り除こうと親身になって診察していた二人だったが、さすがに今日は疲れたと二人同時に呟いてしまい、こんな日もあるかと顔を見合わせて笑いあう。
「お茶の時間も取れなかったわね」
「確かに」
今日はお菓子作りが趣味のミランダが自信作と朝一番に教えてくれたのにそれを食べられなかったと悔やむ言葉をリアムが口にすると、持ち帰り用に準備していると二人の話を聞いていたスタッフが笑顔で教えてくれる。
「良いな、それ」
腹が減ってきたから帰りの車の中で食べてしまいそうだと笑うリアムにそれも悪くないんじゃないかとホーキンスが賛同し、そろそろクリニックを閉める準備をしようと立ち上がる。
その時己の胸ポケットが振動したことに気付き、忙しさのあまりチェックできなかったスマホを取り出すと、大量にメッセージが届いている事を知らせるアイコンが目に入る。
その一つずつをチェックしていくが、そんなリアムの目と意識を奪ったメッセージが目に入り、慌てて壁の時計とスマホの画面を見比べてしまう。
「どうしたの?」
「いや、ケイからのメッセージが入っていたのに気付かなかった」
家に帰って事情を説明すれば許してくれるだろうかと思いつつメッセージに再度目を向けると、リアムの母国語であり慶一朗にとっても馴染み深いドイツ語でメッセージを送った時の心情を表す短い一言が書かれているだけだった。
『Scheiße.』
その一言はリアムがどれ程注意をしても慶一朗の口から流れ出さない時はなく秘かに頭を痛めていたが、いつもならばその言葉の後に何故その言葉を送ってきたのかの理由を探らせる言葉も続けられるが、今日は本当にその一言だけで、これを送ってきた時の慶一朗の心が一切読み取れず、またこの言葉を誰に向けて発しているのかも分からなかったリアムは、何があった、今から帰るとメッセージを送るが、帰り支度をしてホーキンスにまた明日とあいさつをし、スタッフ専用の駐車場に停めてある愛車に乗り込んだ時にもメッセージを読んだ知らせはなく、いつもと何かが違うと焦る気持ちを押し殺しつつ愛車を自宅に向けて走らせるのだった。
世界は独りだった。
どれほど豊かに四季が移ろうが、己は小さな部屋でただ独りだった。
それが当たり前の永遠に独りきりの世界。
そこにある日突然飛び込んできた、己と同じ顔の少年。
その少年が時間をかけ、世界は独りではないこと、こんな小さな永遠に変化のないものではないことを教えてくれた。
その先に今の己がいるのだと、彼は今でも言葉で、態度で教えてくれていたが、それは現実なのかという疑問が不意に芽生えてくる。
同じ顔をした少年など己の、正しいのかどうかも判断できない脳味噌が見せている幻覚ではないのかという気持ちになってしまい、そう思った瞬間、視界に入った総てが幻に思え、幻ならば壊してしまっても何の問題もないと嗤ってしまう。
己の狂った脳味噌が見せる幻影なのだ、殴ろうが踏みつけようが何をしようが問題はなかった。
あの男がここにいる、畢竟それはまだ己があの頃のままということだった。
世界に、独りだった。
自宅に戻り、電話をかけてもメッセージを送っても一切返事がない恋人のことが心配で、どうした何があったと内心の焦りを額の汗で流していたリアムだったが、いくら呼び掛けてもうんともすんとも言わないスマホを諦め半分で睨みつけた後にジーンズの尻ポケットに突っ込み、とにかく着替えを済ませるかと肩を竦めて階段を上り、ベッドルームのドアを開ける。
壁一面のクローゼットのドアは鏡張りになっていて、そのドアの一枚をスライドさせたとき、何かがぶつかるような音が遠くに聞こえた気がし、掃き出し窓へと顔を向ける。
気のせいかと顔を戻して最近クローゼットの中に増えてきた慶一朗の服を納めた棚に手を伸ばした瞬間、さっきよりは大きく何かを叩きつけるような音が聞こえ、その音が聞こえなくなるよりも先に事態を理解したリアムは、あの時と同じようにベッドルームを飛び出して玄関横の棚に置いた家の鍵を無造作に掴むとさっきは駆け下りた階段を一段飛ばしに駆け上がり、クローゼットに入り込んで壁をひとつ殴る。
どうか届いてくれと願いつつもう一度拳を壁に叩きつけ、今からそっちに行くと壁の向こうに叫ぶように呼び掛けると、響いていた破壊音が止まった気がし、クローゼットを出て掃き出し窓を開け放ちベランダの柵に上ると、仕切りになっている壁を乗り越えて隣の部屋、つまりは慶一朗の部屋のバルコニーに降り立つ。
目隠し用に粗末なカーテンを引いていたはずの窓からはカーテンが無くなっており、室内の惨状が手に取るように見えていた。
今まで時間を見つけては一つ一つ丁寧に作っていたヨーロッパのどこかの国の有名な景色は原形を留められずに床に粉々になって散乱し、その景色の中を走らせては目を輝かせていたいくつもある鉄道模型も同じように部屋の隅で突然の暴力に無力な姿を晒していた。
ジオラマにしてみれば突然の暴力としか言いようのない暴行の結果を目の当たりにしたリアムだったが、その中心で茫然と立ち尽くす痩躯に気付いてくれと強く願いつつ窓を拳で叩く。
「ケイ! ここを開けてくれ!」
ベランダには入ることは出来るが鍵を開けてくれないと室内に入れないと窓を叩きながら鍵を指さしたリアムは、のろのろと己へと向けられる端正な顔に浮かぶ表情がいつもとは違う常軌を逸しているような気がし、無意識に背筋を震わせてしまう。
くそったれとドイツ語で送ってきた時、慶一朗に何があったのか。どんな状況だったのかを教えてほしいと思うものの、今己をじっと見つめるその目が底の見えない暗い穴を覗き込んだ時のような恐怖を覚えさせてたじろいでしまうが、己の太腿を拳でひとつ殴ってその恐怖を払拭すると、ここを開けてくれとゆっくりとジェスチャー交じりに伝える。
永遠にも感じる短い時間の後に慶一朗がのろのろと動き出して不思議そうな顔で鍵を開けた為、ありがとうと礼を言いながら部屋に入ったリアムは室内の惨状に何も言えなくなるが、何が楽しいのか慶一朗がくすくすと笑い出す。
「ケイ?」
「・・・僕の頭、本当に狂っちゃったのかな」
こんな人がいればいいのにという想像の人が目の前にいると、己の想像が現実になった歓喜に顔を綻ばせる子供のような顔と言葉遣いで慶一朗が血塗れの両手で自分自身を抱きしめ、腰を折って楽しそうな笑い声をあげる。
「すごいすごい! いつか考えた通りだ!」
一人で部屋で転がっていても退屈だったから想像する事で時間を潰していたが、それが本当になったのか、それとも頭がおかしくなったのかと、腰を伸ばして腕を抱き締めていた手を頭の横に持ってくると、立てた人差し指をこめかみに押し当てる。
「あいつがいるのに総一朗がいないってことは、ココがおかしくなったって事か」
やはり己は総一朗のスペアとして生かされているだけの存在だと笑う慶一朗の様子から現在と過去の記憶が混在している事に気付き、目を覚ましてくれと願いつつ腕を掴むと現実みたいな夢だと笑われる。
「ケイ、今がいつか分かるか?」
「さあ? 今がいつでも関係ないから分からない」
そもそもこの部屋には今を知る手段がないと当たり前の顔を傾げさせる慶一朗の両頬をそっと手で挟むと、最初はきょとんとした目で見つめられるが、リアムの掌から熱が伝わり始めたのか膝が微かに震えだす。
その震えにリアムが視線を下げて慶一朗の全身を確かめるように見つめると、先ほど己の腕を抱きしめていた両手は半ば乾いた血で赤く染まり、震え始めた足元も白いソックスに赤黒い染みが滲みだしていた。
「ケイ、手当てをしよう」
「手当ってなんだ?」
初めて聞いた言葉だ、それはいつも僕が話しているドイツ語なのかと、心底不思議そうに問われて目を丸くしたリアムは、怪我をしているだろうと言いながら本人にもしっかりと認識できるように掌に血まみれの手を載せる。
「これ? これは幻だ。俺は怪我なんてしていない」
「幻じゃない、ケイ。これだけ血が流れたんだ、痛いだろう?」
リアムがゆっくりと子供に諭すようにその目を覗き込みながら首を左右に振って否定すると、幻だから痛くない、だって僕が怪我をすれば総一朗が困ると、一緒に働いている時に見ていた飄々とした雰囲気や、二人きりになった途端に見せる横柄ともいえる顔からは想像もつかない、取り返しのつかない事態に怯えている子供のような顔でリアムの手から己の手を剥がそうとするが、先を読んでいたリアムが手首を握りしめて離れないようにしてしまう。
「嫌だ、離せ!!」
「・・・手当をしよう」
今まだ流れている血をまず止めようと、駄々を捏ねる子供のようにその場にしゃがみこんだ慶一朗を渾身の力で抱き上げたリアムだったが、肩に担いだ時に暴れようとした為、悪いと思いながら両足をしっかりと固定し、大急ぎで階段を下りていく。
言動が子供返りしたようなものであっても肉体は当然ながら成人男性のものの為、階段を下りきる直前に慶一朗が身体を跳ね上げた為、さすがにいくら体を鍛えているリアムであってもその力には負けてしまい、階段を踏み外してしまう。
「!!」
段数にすれば二段ほどだが、踏み外してリビングの床に倒れこむ寸前、これ以上慶一朗に怪我をさせたくない一心でクッションになるように滑り込むと、己の上に驚きに目を丸くした慶一朗が降ってくる。
「ぐっ・・・!」
その重さを全力で受け止めながらも大丈夫かと頭を擡げた時、己の上に横臥していた慶一朗の全身が大きく震え、どこか身体を打ったのかとの心配から名を呼ぶと、咄嗟に耳を塞いでしまうような悲鳴が流れ出す。
「ケイ!?」
「あぁああああ!! ソウの体、が・・・っ! ソウの為の体、なのに・・・っ!!」
床に倒れこんだ時にリアムの体がクッションになったとはいえ衝撃は当然あり、それが全身を駆け巡ったと同時に手足から生まれる痛みにも気付いたようだったが、己が痛みを感じるということはいずれ総一朗が使うためのパーツを傷つけてしまったことだとも気付いたのか、さっきとは比べられない程身体を震わせ、取り返しのつかない事をしてしまったと叫ぶ。
目の焦点が合わず、言葉にならない声を張り上げる慶一朗の様子にリアムもさすがにどうすれば良いか分からずに困惑してしまうが、流れ出す声が掠れ始め、咳き込みながらもなお感情を発露させようと喉を震わせる。
これ以上叫び続けると喉を痛めてしまう危惧に素早く周囲を見回すが、探しているものを見つけられなかった為に着ていたシャツを脱いで腕に巻き付け、汗臭くて悪いと場違いな詫びを一つこぼした後、大きく開け放たれていて既に声らしい声が掠れて出なくなっている口にシャツを巻き付けた腕を押し付ける。
「あ、ぐっ・・・!」
「・・・ケイ、もう良い。お前の気持ちは分かったから、だからもう叫ばなくて良い」
大きく開けていた口をシャツを巻き付けた太い腕を押し付けられて塞がれてしまい、それ以上声を出すことができなくなった慶一朗の背中をもう一方の腕でしっかりと抱き締めたリアムは、大きく上下する肩が次第に小さく小刻みに変化するまで同じ強さで抱き締め続け、落ち着きを取り戻した事に気付くとそっと腕を口元から外して巻き付けたシャツを解くが、シャツには穴が開き、その穴の周囲にはうっすらと血が滲んでいた。
絶叫している成人男性の口に腕を押し当てたのだから歯が当たって皮膚が破れても当然だったし、またそれも覚悟の上だったが、さすがにくっきりと歯形が残る己の腕に呆然としてしまったリアムの前、全身の血の気がどこかに失せてしまったのではないかと思えるほど蒼白になった慶一朗が己が傷付けたその腕を限界まで見開いた目で見つめていた。
「・・・あ、・・・っ、・・・」
「無理に話すな」
あれだけ叫び続けたのだから喉が痛いだろうし実際痛めてしまっているはずだから今は話すなと、さっきまで慶一朗の背中を抱きしめていた手で震えながら微かに上下する唇を封じるように指先を軽く押し当てたリアムは、水を取ってくると告げて立ち上がるとキッチンに向かうが、薄く流れる血を水道の水で洗い流すと幸いな事にすぐに血は止まり、水滴をタオルで拭いて水のボトルを冷蔵庫から取り出すついでに、最近どちらの家の冷蔵庫にもストックするようになった大粒のチョコを二つ手に取る。
不機嫌になって八つ当たりをされた時、気分転換を図る甘いものをとの考えから購入しストックするようになったチョコだが、今夜もそれが役に立ってくれればと願いつつリビングに戻ると、階段近くの床に座り込んでいた慶一朗がソファで膝を抱えて体を小さく丸めて座っていた。
「水を飲めるか?」
喉が痛くないかと問いかけながらその前にいつものようにあぐらをかいて座り込んだリアムの声に恐る恐る顔が上げられ、ほらと水のボトルを差し出すと乾いた血がこびりついている両手が震えながら持ち上がり、ボトルを受け取ろうとするが震えが激しすぎて両手で持つことも不可能だった。
ただそれだけのことにももうこの世の終わりだと言いたげに顔を歪める慶一朗など見たくなかったリアムは、血が乾燥している手に手を重ねてボトルを両手で持たせると、その両手を包むように手を添える。
「ほら、大丈夫だからゆっくり飲め」
慌てる必要はないからと優しく語りかけて包んだ手を撫でたリアムの言葉に精一杯従おうとするようにボトルの口を口元に運ぼうとするが、大きく震える手がそれを邪魔してしまい、飲み口から水が溢れ出す。
ぼたぼたと零れ落ちてシャツの胸元やスラックスを濡らすのにも特に何も言わずにじっと辛抱強く手を添え続けていたリアムの耳に慶一朗がカチカチと歯を鳴らしながら、総一朗だけではなくお前も傷つけてしまった、どうすれば良いという悲しい疑問が流れ込み、ろくに水を飲むことも出来ない慶一朗の手からボトルを抜き取ると視線を合わせるように顔を覗き込む。
「・・・イチローについては分からないけど、俺についてなら言える」
「な、んだ・・・?」
「うん。────キスしてくれ、ケイ」
「え・・・?」
「キスしてくれ」
それだけでいいと、心の底からそう思っていることを教えるような笑みを浮かべ、蒼白なままの頬を手の甲で撫でたリアムだったが、長く感じる一瞬ののちに血が乾いてカサカサになっている手が頬に宛てがわれた事に気付き、いつもと全く違う、ただただ悲しさを胸に刻むようなキスに一度目を閉じるが、今度は撫でた頬を両手で再度挟み込み、驚く目に笑いかけてから目尻や鼻の頭、頬の高い場所にキスをした後、まだ震えている唇にそっと唇を重ねる。
「・・・リアム・・・っ」
「傷の手当てをしよう、ケイ」
もう血が乾いていることから出血は治っているだろうがいつまでもそのままではダメだからと、さっきと同じ気持ちで治療を受けてくれと告げると、明るい色の髪がゆっくりと一度上下に揺れる。
「バスルームで傷口を洗い流そう」
そこにあるファーストエイドボックスを持ってくれと視線を背後に投げかけ、ソファから立ち上がってそれを手にした慶一朗に笑顔で一つ頷くと、さっきとは違って丁重な手つきで痩躯を抱き上げる。
「・・・荷物を持ってるから、恥ずかしいかもしれないけど今だけ許してくれ」
いつものように肩に担いだり背負ったりが出来ない為に横抱きーいわゆるお姫様抱っこになってしまうが、今だけ許してくれと笑って肩を竦めると、いつもならば羞恥から激しく抵抗する慶一朗がさすがに今はそんな気力も体力もないのか、救急箱をしっかりと抱え込みながらリアムの肩に頬を宛てがって目を閉じる。
その閉じた瞼にキスをしたリアムは、ゆっくりと階段を上り、バスルームに向かうのだった。