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「お邪魔しまーす」
借りてきた猫のようにはならず、瑞野は興味津々でずかずかと人のマンションに上がり込むと、勝手に照明を付けながら家の中を見て回った。
「あんまり見るなよ。急な来客で掃除なんてしてないんだから」
呆れながら言うと、瑞野は笑いながら振り返った。
「はい!女の影、皆無!」
「お前な……」
久次はその言葉に目を細める。
「いるんだよなー。女子高生にはモテるけど、プライベートでは全然モテない陰キャ教師」
「勝手なことばかり言いやがって」
久次はネクタイを緩め冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターを一つ取って、瑞野に投げた。
「ビールないのぉ?」
「水道水のがよかったか?」
睨むと瑞野はやっと大人しくリビングのソファに座り、キャップを開けて喉を鳴らして飲みだした。
(まあ大目に見てやるか)
これくらいの元気があったことに、久次は軽く胸を撫でおろした。
と言っても問題は何一つ解決していない。
夏休みが始まるまでの1週間、とりあえず谷原や母親から瑞野は引き離したが、これからどうするか。
母親が養子縁組届にサインをしているのでは、提出してしまえば、裁判所の許可が出るまで時間はない。
しかし、瑞野の言うように、母親を傷つけずに円満に解決する手段も、思いつかない。
「シャワー浴びてくる。冷蔵庫のもの漁っていいし、テレビやDVDなんかも自由に弄っていい」
「えっ!?AVも?」
「…………」
言い返す気も起きず、久次は室内物干しからタオルを取り、バスルームに向かう。
纏めて洗おうと思っていた脱ぎ捨てた数日分の服が、洗濯機から溢れている。
「……1週間分の服か……」
久次はため息をつくと、急な“合宿”に備えて全自動洗濯機のスイッチを入れた。
バスルームから、洗濯機の起動音とシャワーの音が聞こえ始めると、漣はやっと大きく息を吐いた。
「ヤバい……ここ……!!」
当たり前だが、久次の家は久次の匂いに溢れていた。
干してある洗濯物から、ソファにかけてあるルームウェアから、投げてよこされたペットボトルからでさえ、久次の匂いがする。
ネクタイを緩める指も、冷蔵庫を開ける気怠そうな仕草でさえ、全てが漣の胸と身体を熱くさせた。
今日……自分は久次の家に泊る。
その事実だけで逃げ出したくなるほどの興奮を覚える。
「……落ち着け」
漣は立ち上がった。
「何もあるわけない。相手はあのクッソ真面目なクジ先生だぞ。ないないないない!」
しかし……。
アトリエで、さらに保健室のベッドの上で、自分の喉に触れてきた、熱い指を思い出す。
「あああああ!もう……!!」
漣はリビングを歩き回り始めた。
「落ち着け……!落ち着けって!!」
大きく深呼吸をする。
と、正面にあるサイドボードが目に入った。
中には、金色に輝くたくさんのトロフィーが見える。
「………なにこれ」
思わず扉を開けてみる。
【福島県独唱コンクール 中学生の部優勝】
【東日本声楽コンクール 男子テノール 優勝】
【全日本ジュニアコンクール男子高学年 準優勝】
「……すげえ」
漣は思わず呟いた。
これのどこが、『才能がない』だ。『需要がない』だ。
「……ん?」
トロフィーとトロフィーの間に何かが挟まっている。
「手紙?」
もしかしたら自分が扉を開けた勢いでどこかから落ちたのだろうか。
漣はそれを拾い上げた。
そこには、国語教師に相応しい、綺麗な字が並んでいた。
(……虹原?そんな生徒うちの高校にいたっけ?)
裏返してみる。
住所は書いてない。
差出人の欄も空白のままだ。
まだ封はされていない。
いや、封をするつもりもないのかもしれない。
もしかしたら……渡すつもりさえもないのかもしれない。
「…………」
バスルームからはシャワーの音が聞こえてくる。
ヤバそうだったらすぐ戻そう。
ヤバそうだったらすぐ戻そう。
呪文のように2回心の中で唱えると、漣はその封筒を開けた。