「狐さん!おまたせしてすみません!」
土曜の午後、指定された待ち合わせ場所に向かうとかの紳士はすでに到着していた
慌てて走り寄ると、こちらに気づきニコリと微笑む
胸に手を当てて会釈する姿に見惚れながら、もう一度謝罪の言葉を伝えると
「まだ10分前ですし、私も今来たばかりですから」
と静止されてしまった
公園でうっかり紅茶をこぼしたことから始まった紳士との交流
メッセージのやり取りは続いていたが、会うのは2回目、1週間ぶりである
「今日はお誘いいただき、ありがとうございます」
「いいえ、お付き合いいただき光栄です・・・素敵なワンピースですね」
この日のために新調したワンピースをさらりと褒められ、嬉しいような、浮かれた気持ちが見透かされているようなくすぐったい気持ちになった
赤らむ顔を隠しながら、行きましょうかと差し出された手を遠慮がちに握った
「わあ、こんなところにお店が・・・」
「以前お話した、紅茶専門喫茶です。お気に召していただけると思いますよ」
狐さんの働く会社の近くだというこの場所は、オフィス街の奥にひっそりと佇んでいた
ビルとビルの間に、取り残されたように建つ小さな喫茶店
わくわくしながら狐さんに手を引かれ入店すると、ふわりと紅茶の匂いがひろがった
『おや、紳士がお姫様を連れてお越しだ』
白髪のマスターがいたずらっこのように笑う
事前に聞いていた通り、この店は老夫婦が経営する昔ながらの喫茶店らしい
落ち着いた雰囲気で、常連客らしい人たちがちらりとこちらを見て微笑んだ
「こんにちは、マスター。今日は紅茶好きのレディに会う逸品をお願いします」
狐さんもおどけて言うから、私は慌ててしまった
「狐さん!私紅茶は好きなだけで、全然詳しくはなくて・・・すみません」
あわあわする私を見て、マスターと狐さんは愉快そうに笑う
『あんまりお嬢さんをからかっては駄目よ』
カウンターの中から、小柄な老婦人が顔を出し水を持ってきてくれた
この方が奥様なのだろう、お礼を伝えると『若い子が来てくれて嬉しいわ』と微笑んだ
「わあ・・・すごい量ですね・・・」
メニューには日本語と英語でぎっしりと紅茶の種類が書かれている
思わず感嘆の声をあげると、狐さんもうなづいた
「迷われているなら、季節のおすすめはいかがですか?奥様が作った茶菓子も着いてくるんですよ」
「じゃあ、それで」
苦手な味はないかと確認されたため、バニラ系が駄目だと伝える
狐さんはまた静かにうなづき、注文をしてくれた
「あの・・・先日のハンカチなんですけど・・・」
公園でお会いした時、狐さんは紅茶をこぼした私にハンカチを貸してくれた
それはそれはいい生地のものだったが、自宅で何度洗ってもシミが残ってしまったのだ
クリーニングに持っていくと、買ったほうが早いと言われたので、ここに来る前に新しいものを見繕った
「メッセージでもお伝えしたんですけど、シミがとれなくて。こちら変わりに使ってください」
綺麗にラッピングされたそれは、社会人の恋人を持つ友人におすすめされたスーツ専門店で購入した。
もうすぐ冬なのに◯◯には春が来たね、なんて茶化されながら。
「そんな、わざわざすみません・・・開けてみても良いですか?」
「はい、どうぞ!あの・・・社会人が持つハンカチって良くわからなくて・・・使いづらかったらすみません」
綺麗に包装紙を取り、中身を見て大切そうに撫でる狐さん
丁度よく提供された紅茶とお菓子を堪能しながら、スーツのお店に初めて入ったことを伝えると笑ってお礼を言ってくれた
「来年から社会人ですよね、スーツはもう選びましたか」
「実は在宅の仕事で、入社式もオンラインなんです だから着る機会がなくて」
「なるほど・・・最近の会社はすごいですね」
「ふふふ・・・でもスーツはちょっと憧れます。狐さんのスーツ姿、見てみたいです」
かっこいいんだろうな、なんてついこぼすと、耳を赤らめる狐さん
思わぬ可愛らしさに心温まりつつ、それから他愛もない会話を楽しんだ
「すっかり長居してしまいましたね」
素敵な老夫婦に「またおいで」と紅茶のお土産までいただいて、何度も頭を下げながら店を出た
外はすっかり涼しくなって、夕日はほとんど沈んでいる
狐さんは物静かだけれど、聞き上手で会話が途切れることなく
卒論の内容から仕事のこと、好きな本や映画までついあれこれ話しすぎてしまった
「私、話しすぎちゃって・・・ごめんなさい」
「いえ、◯◯さんのお話、とても楽しかったですよ」
自然と差し出された手を取り、駅へ向かう
もう少し一緒にいたいけれど、何度目かの教授面談が控えているから少しでも卒論に手を付けなければいけない
やや重たくなった足取りを察して、狐さんもゆっくり歩幅を合わせてくれた
秋風が心地よい
また会いたいな、なんて言葉がつい漏れて
しまったと顔を上げると、狐さんと目があった
「あ・・・すみません!狐さんもお仕事があるのに・・・」
「いえ、嬉しいです 私も同じことを考えていましたから」
繋がれた手がゆっくり狐さんの整ったお顔に近づき、お姫様のように口づけられる
周りの景色がスローモーションのように流れて、私はこの素敵な紳士に強く惹かれていることに気づいた
「ゆっくりで大丈夫ですから、私に落ちてきてください」
キザな言葉も様になるな、と夢心地ながら
私はゆっくりうなづいた
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