黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花しゃくなげ、白い灯台躑躅どうだんつつじの垣根、前庭には青々とした芝生が広がる。
「菜月なつき、菜月、起きて」
軒先に揺れるハンギングチェアはゆりかごのように揺れ菜月を眠りに誘った。その手のひらの下には臙脂色えんじいろの装丁が白く擦り切れた赤毛のアンの本があった。
「・・・・菜月」
菜月は陶器のような白い肌をしていた。伏せた瞼まぶた、長い睫毛まつげは薄茶の瞳をそっと隠し、浅い眠りはぽってりと愛らしい唇で寝息を立てた。
「菜月、ねぇ、菜月?」
柔らかな日差しに菜月の顔を覗き込むのは血の繋がらない弟の湊みなとだ。
「菜月、起きて」
湊の切れ長の目は菜月を愛おしそうに見下ろし、その薄い唇は繰り返し義姉の名前を耳元で囁いた。
「起きて、菜月。もう帰る時間だよ」
菜月が目を醒さます気配はない。
(・・・・・・・・)
湊はハンギングチェアを揺らさないようにそっと菜月へと屈み込んだ。もう少し、あと少しで互いの唇が触れる距離で菜月の息遣いを感じた。
「・・・・あ、湊?」
菜月の閉じた長いまつ毛がゆっくりと開き、湊は弾かれるように顔を離した。
「なに、どうしたの?」
「もうすぐ夕方だよ?賢治けんじさんがマンションに帰る時間じゃないの?」
「あっ!もうそんな時間?!」
賢治とは菜月の夫だ。一年前に結婚した。それは二年前の事だった。いつまでも義弟の湊に甘え離れようとしない菜月に業を煮やした綾野建設あやのけんせつ株式会社の社長であり父親の綾野郷士あやのごうしが縁談の話を持ちかけた。
鹿威ししおどしの音が響く座敷に呼び出された菜月は普段とは面持ちの異なる物々しい雰囲気の両親を前に縮こまった。
「菜月、もう湊、湊と言う歳でもないだろう。いい加減観念して見合い話を受けたら如何だ」
「お父さん」
菜月は慌てた。
「今度の相手は条件も学歴も申し分ない。見た目も悪く無いだろう」
「そうだけど」
菜月はこの縁談を断ろうと必死だった。
「うちの会社綾野住宅と深い繋がりがある会社の息子なんだよ」
「うん」
然し乍ら、郷士の口調は有無を言わさぬ物言いだった。
「会うだけ会ってみてくれ」
「・・・・・分かりました」
菜月は父親から是非にと勧められ、見合いの席で将来の夫となる四島しじま工業株式会社の三男、 四島賢治しじまけんじと出会った。第一印象は悪くなかったが会話の端々はしばしに軽薄さを感じた。
「はじめまして、四島賢治です」
「綾野菜月です」
「お綺麗ですね」
「そんな事・・・ありません」
「いえいえ、本当の事ですよ。こんな美しい方と結婚出来るなんて幸せ者です。親父に感謝しないと」
そしてこの婚姻は所謂いわゆる、政略結婚だった。
菜月はこれまで何度か見合いをしたがどの男性とも縁付かなかった。それは相手の男性を、義弟の湊と比べてしまう事が往々おうおうにしてあったからだ。
「菜月さん」
「なに、お母さん、どうしたの思い詰めた顔して」
「四島さんとのお見合いなんだけど」
今回の見合い相手の賢治については母親の ゆき も好ましく思わなかったようで、「菜月さんが気乗りしないのなら、このお見合いはお断りしても良いのよ」と言ってくれた。
「そんな勝手な事は許さん!」
結局、父親の郷士ごうしに押し切られた形でこの縁談はまとまった。
「菜月さん、今後ともよろしく」
「はい。こちらこそよろしくお願い致します」」
賢治は高学歴で上背もあり見栄えも良かった。しかも一級建築士の資格も持っていた。申し分のない相手だった。
(・・・いつか好きになれるだろう)
見合いから結納、入籍、結婚式と粛々と事は進んだ。賢治は婿養子となり、綾野賢治あやのけんじと名を変え菜月の夫となった。
(・・・きっと好きになれるだろう)
然し乍ら新婚旅行先での初めての夜、菜月は賢治に対して違和感を感じた。賢治の指先が肌に触れた瞬間に鳥肌が立ったのだ。それは怖気おぞけと表現しても差し支えなかった。
「菜月さん、大切にするよ」
「は、はい」
これまで口付けさえした事のない相手と一夜を共に過ごしたが初めてのセックスは一方的で激しい痛みを伴った。ベッドのシーツには赤い染みが出来た。
「なに、菜月さんははじめてだったの?」
「・・・・はい」
「なんだか得した気分」
「そうですか」
鼻歌混じりに煙草を吸い始めた賢治の後ろ姿に愛情は微塵みじんも感じられなかった。菜月はこの賢治おとこに処女を捧げたのだ。
(こんな事を言う人を本当に愛せるの?)
それでも菜月は良き妻であろうと慣れない家事に勤しみ毎朝笑顔で賢治を会社へと送り出した。
「菜月、今夜いいか?」
「きょ、今日は生理なの」
「なんだ、それなら仕方ないな!おやすみ!」
「おやすみなさい・・・」
ただ夜の営みセックスは鳥肌が立ち苦痛でしかなかった。賢治も菜月に拒否されている事を薄々気付き始めたらしくベッドの中では背中合わせに眠る日が続いた。
(これって、セックスレス、よね)
今後、綾野家の跡継ぎをと両親に望まれた時、手を繋ぐ事さえ難しい賢治とどうすれば良いと言うのだろう。
そんな賢治は菜月が綾野の家に入り浸りする事を好ましく思っていない。ハンギングチェアに寄りかかっていた菜月の顔は青ざめた。空を見上げれば夕焼け空、賢治が帰宅する時間だ。
「賢治さんに怒られない?」
「ど、どうしよう」
「マンションまで車で送って行くから早く支度して」
「うん、ありがとう、いつもごめんね」
それでも菜月と賢治は傍目はために見れば仲睦まじい新婚夫婦に見えた。ただひとつ湊には賢治について少し気掛かりな事がある。
先週の金曜日の事だ。賢治の黒いフラッグシップミニバン、アルファードが自宅マンションを通り過ぎ深夜の繁華街へと走り去ったのを見掛けたのだ。
(こんな時間にどこへ行ったんだ)
見間違いだろう、新婚一年目で浮気をするなんて有り得ない。湊は最悪の事態を打ち消し平静を装っていたが、菜月の言葉にそれは脆もろくも崩れた。
「湊、聞いて!」
「な、なに・・・・どうしたの急に」
湊のBMWの助手席に乗り込んだ菜月が珍しく声を荒げた。
「なんだか最近、賢治さんから変な匂いがするの!」
「どんな匂いなの?」
「ムスク系の柔軟剤だと思う!もう頭が痛くなる!」
(まさか・・・・香水?)
「嫌いな匂いなの!賢治さんは笑ったけど重要案件よ!」
「賢治さんはなんて言ったの?」
「会社の事務の女の子の柔軟剤だよって!」
「そう」
賢治は湊と同じ綾野住宅で働いている。会社内に柔軟剤の匂いを撒まき散らすような女性社員は一人もいない。
(これは、まさか)
湊は指先に力を入れて車のハンドルを握った。
「あっ!もう帰ってる!どうしよう」
「そんなに怯えなくても大丈夫でしょ?」
「だって凄く機嫌が悪くなるの」
賢治の黒いアルファードが駐車場に停まっている事を目視した菜月は慌てて助手性のドアを開けた。
「湊、送ってくれてありがとう!」
「お礼は良いから、早く行って!」
「うん!おやすみなさい!」
「おやすみ」
ゆりかごのようなハンギングチェアに揺られる菜月。菜月の涙は何よりも重い。菜月を悲しませる事は絶対に許さない。湊はアクセルを目一杯めいっぱい踏み込んだ。
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