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ドイツ南部の大都市の中心部から少し北に位置する地区に味と主人の人の良さが評判のクナイペがあったが、そこの店主のただ一人の孫が頭から血を流して倒れているのを発見されたのは、その孫の十歳の誕生日を数日後に控えた夏と秋が交互に訪れる様な一日だった。
警察と蒼白な顔で店に駆け込んできた知人からの知らせを受け、ランチ目当ての客が帰って夜の仕込みをするために店を閉めていた店主は、娘夫婦、つまりは負傷した孫の両親に病院に行くように指示をし、慌ただしく出ていく娘夫婦を見送る。
『……クラウス、嫌な話を聞いた』
このクナイペの常連で店主とも親しい制服警官が声を潜め、それに何だと顔を寄せた店主のクラウスは、隣に妻のクララもやって来たことに気付いてその肩に腕を回す。
『サシャが逃げていくのを何人かが見たそうだ』
『!!』
その一言はクラウスやクララの中では予想されていたものだったが、だからと言って衝撃を受けない訳もなく、クララがショックのあまり近くにあった椅子に座りこみ、エプロンで顔を覆って肩を震わせる。
『リアム、リアム……!』
おお、神様、どうして私の、私たちの小さな宝がこんなにも苦しめられなければならないのですかと、エプロンに悲嘆を吐き出す妻の肩を抱いて険しい顔で警官を見つめたクラウスは、リアムの容態はと問いかけ、救急車で搬送された時は意識もあったし受け答えもしていたそうだと教えられて大きな息を吐く。
『まさか直接危害を加えるようになるとはな……』
あの男に対してどうするのが良いだろうと悲嘆にくれる妻を見下ろしながらクラウスがポツリと呟き、勢いよく顔を上げた妻に軽く目を見張る。
『逆恨みも甚だしいよ! しかもいつまでも根に持って傷付けるなんて……! フリーダがテレーザと仲が良かったから我慢しているけど、もう顔も見たくないね!』
悲嘆する時間は通り過ぎれば沸き起こってくるのは怒りらしく、エプロンを握りしめながら目を吊り上げるクララにそうだなと頷いたクラウスは、リアムの容態を聞いてからになるが本気で弁護士なりに間に入ってもらった方が良さそうだと息を吐く。
二人が重苦しい息を吐いた時、準備中の札が掛かっているドアの開く音が聞こえ、三人がそちらに顔を向けると、蝋人形のような顔色の女が入ってくる。
『テレーザ!』
いつもは小綺麗な身なりをしていると思われるテレーザと呼ばれた女だったが、クララの声を聴いた瞬間、その場に座り込んで肩を揺らし始める。
『おじさん、おばさん、リアムは、リアムはいますか!?』
店の入口近くで座り込んでリアムはいるかと繰り返すテレーザの傍に駆け寄ったクララだが、さっきまでの怒りをよそにいつもと変わらない口調で問いかけて震える肩を撫でるが、嗚咽の合間から聞こえてくる言葉に目を見張り、肩を撫でている手をどうすれば良いのか分からずに己の夫と警官を交互に見る。
『クラウス、どうしよう、どうすれば良いんだい!?』
もう自分では考えられない、どうすれば良いと夫を見上げるとクラウスが二人の傍に膝をつき、二人とも落ち着けと妻と娘の幼馴染を宥めると、テレーザが顔を上げる。
『サシャが、あの人が……!』
店を閉めて飛び出して行ってしまったと床に突っ伏すように蹲るテレーザの背中を撫で、どこに行ったとクラウスがそっと問いかけると、行き先は分からない、嫌な感じがしたので店にやって来た、リアムはいるかと問われて彼女の頭の上でクラウスとクララが顔を見合わせ、そんな二人に警官が重苦しい息を吐いて彼女にとっては辛い事実を口にする。
『リアムは今頭部を負傷して病院に搬送された』
『そんな……!!』
リアムの負傷の原因が誰であるのかを察したのか、テレーザが両手で蒼白な顔を覆って嗚咽を零す。
『ごめんなさい、おじさん、おばさん、ごめんなさい……っ!』
彼を止めることが出来なかった私が悪いのだ、ああ、ごめんなさいと泣き叫ぶ娘の幼馴染の姿に困惑とやり切れない思いを覚えた二人が、今病院へフリーダとマリウスが向かっている、連絡が入るのを待とうと優しく彼女の背中を撫でて椅子に座るように促す。
『クラウス、クララ、俺は一度署に戻る。もし何か進展があれば連絡をする』
『あ、ああ、ありがとうね。よろしく頼んだよ』
制服警官が手を挙げて店を出ていく姿を見送った二人は、リアムの名を呼びながら謝罪を繰り返すテレーザを何とか慰め、病院に出向いた二人からの連絡をじりじりした思いの中で待ち続けるのだった。
『……良いね、リアム。シドニーでユーリと一緒にいればもう怖いことは無いからね』
そう言って抱きしめてくれた母の声は感情に震えていて、そんな母ごと己を抱きしめてくれる父の大きな腕の中で無表情に頷いたのは、頭部の傷も癒えたリアムだった。
頭部の包帯は早々に取ることが出来、傷口をカバーしていたガーゼも外せるようになったのだが、リアムから失われたものがいくつかあった。
その一つは表情で、今まで良く笑って泣く子供だったリアムの顔から子供らしいそれらが消え去ってしまっていた。
そして、失われたものの中で最大のものは、声だった。
病院のベッドで目を覚ましたリアムは、心配のあまり涙を浮かべる両親の呼びかけに答えようとしたものの、声を出せば喉が締め付けられるような苦しみを覚えてただ口を開閉させることしかできなくなっていたのだ。
声を失い泣く事すら出来なくなったリアムを母が抱きしめ、そんな母ごと父が抱きしめてくれたが、両親の腕の中はリアムにとっては安全な場所ではなくなってしまっていた。
その悲痛を今も感じながら顔を上げると、涙を堪えつついつも変わらない優しい目で見つめてくれる祖母と、口数は少ないが己を愛してくれている事だけは分かる祖父が思いを堪えながら祖母と同じように見つめてくれていて、それだけがやけにはっきりと脳裏に焼き付く。
その横では先日初めて会った母の従弟のユーリと呼ばれた青年が困惑と責任を感じている顔で見下ろしていて、ああ、この人の所に行くのかとぼんやりと考える。
リアムが病院から退院し暫くしてから祖父は、周囲の親しい人たちにも詳しい話をせずに繁盛していた店を閉めて家族揃って今まで暮らしていた町から南の比較的人の流れもある中規模程度の町へと引越しをしたのだ。
その引っ越し先は祖父の伝手で廃業したクナイペ兼住居で、リアムの命を脅かす存在から物理的に距離を取ることに決めたものの、それでも不安だったため、クラウスの弟の孫でシドニーで実業家として働いているユーリことユリウスに預ける事にしたのだ。
その決断は祖父にとっても他の家族にとっても断腸の思いだったが、リアムの命が奪われることを思えばただ堪える事しかできなかった。
そのユリウスが仕事の都合でドイツに来ると知り、リアムを連れて一緒にシドニーに帰ってくれる事、彼方でもリアムを受け入れる準備が整っている事を確かめ、両親祖父母が頭を下げたのをただ無表情にリアムは見つめていた。
そんな彼がリアムの視線に気付いたのかおずおずと手を差し出した為、小さな手でその手を握り、よろしくと言いたかったが口を開いてもやはり出てくる音はなく、パクパクと口を開閉させてしまう。
『大丈夫だ、分かっているから無理に話さなくて良いよ』
彼方で環境が変われば声が出るようになるかもしれない、その希望に掛けようと頷くユリウスに無表情のまま頷いたリアムは、祖父が大きな手で抱き上げたことに気付き、悲しみにゆがむ顔を見下ろして瞬きをする。
『長旅になるな、リアム』
道中良い子にしてユーリの言う事をよく聞くんだと、孫の頬に頬を寄せてきつく目を閉じたクラウスは、その孫を涙をいっぱいに溜めた妻の腕へと抱かせ、そっと顔を背ける。
『良いかい、今はどんなに辛くても腐らずに真っ直ぐに生きるんだよ』
そうすれば必ず神様が見守ってくださる、お前の気持ちを理解してくれる人が現れる、だから辛くても頑張るんだと、ついに涙を流しながらリアムの頬に頬を摺り寄せ、何度も何度も名残惜しそうにキスを繰り返したクララは、娘夫婦の手にリアムを抱かせると夫の肩に顔を寄せる。
空港の出発ゲート近くは仕事や旅行で旅立つ人、それを見送る人たちがあちらこちらで別れを惜しんでいて、リアムの家族もそんな中の一組だった。
母が涙を流しながら我が子を抱きしめ、シドニーに着いたら手紙を書いて、必ず手紙を返すからと涙声で約束をし、リアムが頷くと両頬を手で挟み、額に額を重ねてリアム愛していると囁く。
その母の背中とリアムの背中を抱くように腕を回した父も、元気で暮らせ、すぐに迎えをやるからと約束をし、それにもリアムが頷いて己の両親を見上げる。
声は出せないがありがとうと口の動きで伝えた後、母の腕の中から降り立ってユリウスの横に向かい、その手を弱々しい力で握る。
『じゃあ、そろそろ行こうか』
皆に愛されている子供、確かに預かったと頷くユリウスに皆が涙をこらえながら頷き、出国ゲートへと向かう。
その途中、何度も何度も振り返るリアムを引き止めたくなった母が一歩を踏み出すが、夫に引き止められ、堪え切れずに夫の胸に顔をうずめて肩を震わせる。
『どうして、どうしてあの子だけが、こんなにも苦しまなきゃならないの……!』
エリアスが川で溺れたのは自分で川に入ったからであり、リアムが無理やり引きずり込んだわけではない、なのに逆恨みで頭を殴られて声も表情も失うだけではなく、私たちと一緒に住めなくなるなんてと、堪えていた思いを吐き出し、そんな妻の悲嘆を受け止めるように夫がしっかりと抱きしめる。
『リアム、リアム……っ!!』
息子の小さな体が出国ゲートを潜った事に気付き、この地を離れるその瞬間まで見届けたいとの思いから展望デッキへと向かった祖父母と両親は、リアムが搭乗する飛行機が見えるベンチに並んで腰を下ろしその時静かに待ち構える。
どのくらい時間が経ったのか、リアムが乗った飛行機がゆっくりと動き出し、その動きに合わせてベンチから立ち上がった母は、離陸体制に入る飛行機の窓から息子がこちらを見ている事に気付いて思わず名を叫ぶ。
『リアム!!』
理不尽な男を訴えたところで通用するはずもなく、物理的に距離を取るのが一番だと判断した結果、日付も季節も違ってしまう国に息子を一人で旅立たせなければならなくなってしまった。
その悲しみに胸が張り裂けそうだったが、小さな飛行機の窓に見えたリアムの顔は無表情ままのようだったがその頬には涙が幾筋も流れを作っているようだった。
離陸準備に入った飛行機からジェットエンジンの轟音が響き、ゆっくりと、だが確実に離れていく機体を追いかけるように展望台を並走した母は、フェンスの端で進めなくなったことに気付き、フェンスを握りしめてその場に崩れ落ちてしまう。
『うぅ……っ!』
そんな妻の横に膝をついて肩を抱いた夫は、己の息子が乗った飛行機が上空へと飛び去って行くのをただただ黙って妻を抱きしめながら見守るのだった。
そんな二人を少し離れた場所で祖父母が見守っているのだった。
前回帰国した時にも使用した大きめのスーツケースを引っ張りながらゲートを潜ったのは、シドニーからの長旅を終えてホッと胸を撫で下ろしたリアム・フーバーだった。
エコノミークラスでの移動はさすがに疲労感を覚え、凝り固まったような肩をぐるりと回した時、少し離れた場所から名を呼ばれた気がして顔を向ける。
「リアム!」
名を呼びつつ手を大きく振っているのは幼馴染で、彼の姿にリアムの顔が自然と綻び、スーツケースを引っ張りながら近寄るとほぼ同時に互いの肩に腕を回す。
「長旅お疲れ。元気そうで良かった」
「少し疲れたかな。エリーも元気そうで良かった」
互いの肩を叩きながら久しぶりの再会に顔を綻ばせたのはリアムの幼馴染のエリアスで、彼がシドニーに来た時以来の再会だと笑うとエリアスも頷く。
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう、エリー」
「良いよ、これくらい。それよりも今日はさすがにオーマやおばさん達と一緒にご飯を食べるだろう?」
だから明日の夜、僕と僕の彼女のアグネスと一緒に食事をしようと笑うエリアスに、数日後に公的に夫婦になる彼女かとリアムが笑う。
「そういえば直接会うのは初めてだな」
「そうだったな」
今までビデオ通話をしているときに音声だけだったり背後で挨拶程度に顔を見せてくれたことはあったが、モニター越しでは無い状況で会うのは初めてだとリアムが笑い、エリアスも小さく頷く。
「彼女も楽しみにしてるって」
「そうか」
エリアスの車へ向かう為に到着ロビーから駐車場へと向かう道を歩きながら肩を並べた幼馴染みが話題にしているのはエリアスの恋人の話だったが、話題が一区切り付いたとき、そういえば慶一朗はどうしている、元気かと問いかけられてリアムの広い肩がビクリと揺れる。
「ん?」
「……まあ、元気だな」
シドニーを出発するその日も冷戦中だったが、用意した朝食は綺麗に平らげていったから元気だろうとリアムにしては不明瞭な言葉で己の恋人の近況を説明するが、何だ、ケンカ中かと笑われてひとつ息を吐く。
「……詳しいことは車の中で話をする」
「うん、聞かせて欲しいな」
駐車場に止めてあるエリアスの愛車のトランクにスーツケースを入れて助手席に乗り込んだリアムは、この国で生まれ育ったものの人生の大半をシドニーで過ごしてきたため、左ハンドルの右側通行に慣れないと苦笑してしまう。
それはリアムにとっては単なる事実を口にしただけのことだったが、エリアスにとっては別の思いを呼び起こさせるもので、返事が無い事に気付いたリアムが運転席に向けて大きな手を伸ばして幼馴染みの髪をくしゃくしゃに乱す。
「エリー」
「……うん」
名前を呼んで短く頷く、それだけで二人には通じるものがあり、それをモニター越しではなく直接こうして伝え合った二人はほぼ同時に笑みを浮かべ、さあドライブの始まりだ、お前のオーマもおじさんおばさんも待っている家に帰ろうとエリアスが少し浮かれたように言い放ち、安全運転で頼むとリアムも同じく浮かれたような声で返すと、その言葉通りに制限速度ギリギリの安全運転でエリアスが車を走らせるのだった。
四年ぶりに帰国したリアムを出迎えたドイツ南部の空はリアムがユリウスとシドニーに旅立った時と同じ空色で、懐かしさに思わず目を細めたリアムは、エリアスが近況を教えてくれる声に頷いたり聞き返したりしながらも僅かの疼痛を覚えてしまうのだった。