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「ニョルズ殿、フレイヤ、急がれよ」
「さあ、父上・・・・」
我が娘とアース神族の勇将に導かれ、ヴァン神族の王は我が足で地上を走っていた。このようなことは幾百年ぶりであろうか。外出の時は馬車かゴーレムが担ぐ輿で移動し、我が体を動かすという行為は下賤の者がすることだと信じて疑わなかったというのに。神々を統べる王でありながら、戦に敗れればこうも惨めな身に落ちぶれるのか。ニョルズは自嘲の笑みでその端正な顔を歪めていた。
「さあ、早く私の船に乗り込んで下さい。行く先はヴァルハラでよろしいですね?父上がアース神族を嫌うお気持ちは分かりますが、他に選択肢はありませんから・・・・」
フレイヤが我が船の扉を念で開きつつ、父に有無を言わせぬ口調で言った。娘に答えようとしたニョルズの顔貌が絶望の暗い翳で覆われた。
「残念だが、一歩遅かったようだ・・・・」
突如暗き空より巨大な紅蓮の弾丸が降下し、フレイヤの桜花色の船に激突した。船は火に飛び込んだ桜の花弁の如くあっけなく炎に包まれ、無残な姿に変わった。
「このムスペルの女王から逃れられると本気で思ったのですか?この期に及んで見通しが甘いこと。全く救いようがない・・・・」
フレイヤの船を燃やし、そして喰らってその力が増したかのようにより鮮やかな炎を纏いつつシンモラが優雅に、辛辣に言った。
「おのれ!」
ヘーニルが怒号しつつ、弓をつがえ三本の光の矢を同時に放った。だが三本の矢はシンモラの体に突き立つことは無く、シンモラが振るった焔の剣でことごとく叩き落された。
「申し訳ありませんが、もう貴方と遊ぶ気はありませんよ。ヘーニル、貴方の出る幕は最早ありません」
「黙れ!この命に代えても貴様だけはこの手で・・・・」
己の神気を極限まで高めてその矢の威力と精度をより高めようとしたヘーニルだったが、その彼を無数の閃光が襲った。跳躍し、空中で見事な体捌きでこれを躱し切ったヘーニルは弓をつがえ、新たな敵に狙いを定めた。
赤黒い鞭を握り、二つの顔貌を持ち、その琥珀色の瞳に狂熱的な光を宿す女神に。
「グルヴェイグ!貴様から先に仕留めてくれよう」
だがヘーニルは矢を放つことが出来なかった。闇色の鎖が音もなく瞬時にして彼をからめとり、五体の自由を奪ったのである。ヘーニルはなすすべなく地上に落ちた。
「シンモラの言葉が聞こえなかったのか?お前の出る幕は終わったのだよ。そこで見ているがいい。ヴァン神族の終焉をな」
ロキがアース神族の勇将を冷然と見下しつつ言った。
「貴様がロキか・・・・!」
「お初にお目にかかる、ヴァン神族の王よ。最も貴殿はラグナロクにおいては部外者に過ぎぬ。ニーベルングの指輪とやらも貴殿が持つには過ぎた物よ。この私が預かっておいてやろう」
ロキはヘーニルの存在など最早無いかのように黙殺し、ヴァン神族の王に語り掛けた。
「いえ、この私に渡しなさい。我が夫、破壊の王スルトの再臨に貢献するという名誉を貴方に与えてあげましょう」
シンモラがかつてない程の光と熱をその瞳に湛えつつニョルズに迫った。
「・・・・」
フレイヤはロキが纏う強大無比な暗黒の神気とシンモラより発散される炎と熱気に圧倒され、口を開くことも身動きすることも出来ずにただ父の顔を凝視するのみであった。
「フフ、ククク・・・・」
ヴァン神族の王が突然笑い出した。永劫に近い日々を享楽と怠惰に溺れて無為に過ごし、最早何の力も残されていないと思われたニョルズの表情と声に異常とも言うべき鬼気を感じ、ロキとシンモラは慄然となった。
「お前たちはこの指輪を我が物として使いこなせると本気で思っているのか?無知とは、身の程知らずとは哀れなものよ・・・・」
ニョルズは両手を己の顔の前に出した。その白く繊細な十本の指にそれぞれ深淵な神秘的な光を放つ指輪がはめられていた。
「おお、これがニーベルングの指輪ですか・・・・」
「一個ではなく、十個の指輪か。そしてその一個一個に計り知れない程の力が込められている。成程、そうでなくば神々の力を超えた奇跡は起こせんか・・・・」
シンモラとロキが感嘆の声を上げたが、ニョルズは聞こえていない様子で続けた。
「何故この私が今まで指輪の力を使わずにいたか、お前たちは考えなかったか?」
予想していなかった問いに、ムスペルの女王と暗黒神は虚を突かれて口をつぐんだ。
「指輪の力を使って願いをかなえるにはそれに見合った生贄を捧げねばならないから?フフ、生憎だが違う。生贄を捧げるくらいで我が願いが叶うのならば、この指輪を造った本来の目的であるアース神族どもの殲滅が叶うのならば、幾人でも捧げていたさ」
「・・・・」
「だがな、長い年月をかけ、ヴァン神族のルーン魔術の奥義を尽くしてこの指輪を完成させたその時、気づいたのだ」
ニョルズは我が指にはめられた十個の指輪をうっとりと見つめつつ続けた。
「この指輪に私の意図を超える力が、神々などを遥かに超越する巨大な宇宙規模の悪意、呪いが宿ってしまったことをな」
「呪い・・・・」
グルヴェイグが呟いた。神々すらも逃れられない呪いがあることを誰よりも彼女は知っている。
「私は知ったのだ。この指輪を使えばどんな願いも叶うだろう。だが同時にこの指輪の力は、願いを叶えた者をも必ず破滅させずにはいられないとな」
「ほう・・・・」
ロキの表情が一変し、喜悦に耀いた。
「故に私は指輪の力を行使することが出来なかったのだ。アース神族を滅ぼせても、同時にこの私が破滅すれば、それはヴァン神族が滅ぶに等しいからな。だから私はアース神族との和睦を選び、それを遵守するしかなかったのだ。さあ、どうだ、ロキ、そしてシンモラよ」
ニョルズはゆっくりとムスペルの女王と裏切りと奸智を司る暗黒神に視線を向けた。
「それでもお前たちはこの指輪を欲するか?」
「無論」
寸毫の迷いもためらいもなくシンモラが断言した。
「我が夫が完全な状態で、いや以前にも勝る状態で再臨していただく為に、できるだけ多くの生贄を捧げましょう。それでこの私が破滅するのだとしても、何を恐れることがあるでしょう。喜んで破滅の道を選びましょう」
「私は全てを燃やすのみで戦を楽しむということを知らぬ無粋なスルトの復活さえ阻止できればそれでよかったのだがね」
ロキは恍惚とした表情を浮かべるシンモラを辛辣な眼で見つつ言った。
「だがニョルズ殿よ、貴殿の話を聞いて大いに興味をそそられたぞ。その指輪に宿った悪意と呪いとやらがどれ程のものか、是非見てみたい。果たして悪意の権化たるこのロキをも破滅させることが出来るのかどうか、知りたくてかなわぬ。さあ、指輪をよこしたまえ」