shk.side
起きてすぐ、違和感を感じた。
体が重い。
関節が痛い。
眠い。
まさか、と思いつつソファから静かに起き上がり体温計を探すが、なかなか見つからない。
自分の家でも体温計なんて普段使わない物は見つけづらいのに、
居候先の家で簡単に見つけられる訳がなく、探しているうちになかむが起きてしまった。
おはよう、とあいさつをしながらソファに戻る。
なかむは、眠そうにテレビを見ていたが、俺が少し離れた場所に座ると、ちらりとこちらに目をやった。
「朝から何探してたの」
「え?」
「場所教えてあげよっか」
なかむ、さっき起きてきたのに。
探す音で起こしてしまったのかもしれない、と申し訳なさを覚えながらテレビに視線を戻した美形の横顔をぼうっと眺めていたら、
「た」
口が勝手に言った。
体温計を、探してて。
そう言いそうになり、慌てて口を噤む。
体温計なんて言ったら、体調が悪いことがばれてしまう。
なかむに、迷惑をかけてしまう。
「た?」
いぶかしむなかむに、へらりと笑ってみせる。
居候なんてただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上迷惑はかけたくなかった。
助けてほしいなんて、こんな気持ちには蓋をする。
「別に、特に何も?」
卵の値段上がってるからそれ考えてたら卵って言いそうになりました、
と自分でもよく分からない言い訳をして、なかむに鼻で笑われた。
大学に行き、授業を受け、バイトをして、住んでいる所に帰る。
こんな簡単で単純なことが、今日はうまくいかなかった。
電車は乗り過ごし、講義中は寝、バイトも先輩に帰れと言われた。
きちんとすべきことができず、皆に迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて、自分が惨めだった。
寒いよ。
熱いよ。
気持ち悪い。
帰りの電車で、突然の吐き気に襲われた。
「……っ、ふ、ぅ……」
右手で口、左手で胸を抑える。
そうしないと、その場で吐いてしまいそうだった。
(迷惑を、かけたくない
その一心でどうにか次の駅まで耐える。
永遠にも感じられる時間を耐え、駅に着いた瞬間にトイレに駆け込んだ。
吐く吐く吐く吐く吐く吐く吐く吐く吐く吐く吐く
「……っっ、え゛、げえ゛っ!!」
個室のドアを閉める間もなく、びちゃびちゃと便器に顔を突っ込んで吐いた。
少量の朝ごはんの未消化物と、胃液。
何も出なくなっても吐き気は続く。
リュックサックの中をノールックで乱暴に漁り、ペットボトルを取り出してその中身を一気にあおった。
「……っ、は、」
数秒後、かぽ、と柔らかい音を立ててほとんどそのままの透明度を保った水が出てきた。
それでも吐き気は止まらない。
俺は、水がなくなるまでその行為を続けた。
どれくらい時間が経ったのか本当に分からなかった。
いつの間にか、なかむから電話がかかってきていた。出ようか出まいか迷っていると、ぷつりと着信音が止まる。
画面には、八件の着信履歴と二十一件のメッセージが表示されていた。
九件目の電話が来る前に、メッセージに既読をつける。
内容は読まずに、ブルーライトに顔をしかめながら
<遅くなってごめん。今から帰ります>
とだけ送った。
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nk.side
しゃけからメッセージが届いて一時間半後。
日付を少し超えてから、ようやくしゃけは家に帰ってきた。
玄関が開く音でばたばたと廊下に出ると、しゃけはぐったりと玄関のドアにもたれかかっていた。
「しゃけ!…ねぇ、大丈夫!?」
肩を揺さぶった揺れに任せて崩れ落ちてきた身体を慌てて抱きとめる。
でも、勢いづいてそのまま床に倒れ込んでしまった。
素早く身を起そうとすると、俺の上に乗っかったしゃけの身体がぐらりとひっくり返りかける。
酔っているのか、と初めは思ったが、顔色の悪さと頬の熱さ、そして全く酒気のない荒い息に気が付く。
「え、?しゃけ、目開けて。しゃけ」
真っ赤なほっぺたを軽く叩くことを繰り返すと、熱でうるんだ虚ろな目が開いた。
「しゃけ、大丈夫か」
ぼうっとした状態のしゃけから目を離さず、緊張した声で尋ねる。
しゃけ、どこかの空を見てしばらく何の反応も示さなかった。
救急車を呼ぼうかと考え始めた時、しゃけの目の焦点がようやく俺に合った。
「しゃけ!」
「……ぁれ、おれ」
しゃけの意識がはっきりしてきた。
喋ることが可能なことに安堵したのもつかの間、
次の瞬間、しゃけは小さく呻いて嘔吐した。
咄嗟にその震えている身体を抱き起こす。
片手で身体を支えながら、スマホを手繰り寄せた。
気持ちがはやり、指が滑ってうまく操作できない。
「 救急車呼ぶからね」
そう声かけすると、彼の背中がびくりと跳ねた。
「やっ……ごめ、さ」
「……ん?」
「ごめ、なさっ」
苦しそうな呼吸の間に必死で謝るしゃけは、いつもの彼とは別人のようだった。
「わかった呼ばないから、一旦落ち着こ?」
スマホから手を離し、過呼吸になりかけているしゃけをなんとかなだめようとする。
何故、彼がこんなに苦しんでいるのかは分からない。
全部、本人に聞かないと分からない。
数分経つと、しゃけはだいぶ落ち着いたようだった。
と、その頭ががくんと反り返った。
「え!?しゃけ!しゃけ!、」
熱で頬は赤いのに、目を見張るほどに青白い肌。
薄く開いた目は白目を剝きかけていた。
声をかけても叩いても揺さぶっても意識が戻らない様子に、血の気が引く。
焦りで身がすり減りそうな気持ちで、今度こそ救急車を呼んだ。
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shk.side
目が覚めると見慣れない白い天井が見えた、なんていうよくある小説の一文が頭に浮かんだ。
ざわざわと人の喋る声と足音からしても、ここは病院なんだとすぐに気付く。
「しゃけ、目覚めたの?」
聞きなれた声が耳朶を撫でる。
目をやると、よく知る大好きな人。
「なかむ?おれ、なんで」
よく見ると、なかむの目の下にはクマができていた。
「お前が意識飛ばしたから、嫌がってたけどさすがに救急車呼んだの」
うそ、と俺は呟く。
「ぜんぜん覚えてない……」
なかむにメッセージを送ってからの記憶が曖昧で、家にたどり着いたのは全く覚えていない。
そう言ったらなかむは、あはは、と口元だけでわざとらしく笑った。
その疲れたような様子に、申し訳なさがこみ上げてくる。
「めいわくかけて、ごめんなさい…」
「本当にね」
ちょっと怒ったような声で言われて縮こまりそうになる。
「次からは朝の時点で言ってよね。」
「迷惑なんかじゃないから。心配だから。」
だからもっと頼って?とはにかむように言うなかむの姿が、にじんで見えなかった。