「あ……」
全身から一気に力が抜けて、私はその場にへたり込みそうになった。
「大丈夫ですか」
助けてくれたその人は、慌てた様子で私の体を支えてくれた。
「す、すみません」
その腕につかまりながら階段に腰を下ろしたところに、頭上から金子の声が降って来た。
「佳奈ちゃん!」
そのままバタバタと階段を駆け下りてくる。
「金子君……」
彼の顔を見たらさらにほっとした。
「何があったの!?」
私は階段の手すりにつかまって立ちあがると、金子に今の出来事を話した。
「鈴木さんに、待ち伏せされてたみたいなんです……」
「えっ?」
金子の表情が険しいものに変わった。
「大丈夫だった!?何もされなかった!?」
「はい。この方が助けてくれたから」
私はその人を金子に紹介しようと振り返った。
いつの間にか彼は私から離れた薄暗い所に移動して、横顔を見せて立っていた。
金子は私の隣に立つと、その人に向かって頭を下げた。
「この子のこと助けて下さったそうで、本当にありがとうございました。……ん?あれ?」
金子が急に目を見開いた。光が届かず影になっているその人の顔を、まじまじと見ていたが、驚いたような声で言った。
「もしかして、『そう』さん?」
「金子君の知り合いの方ですか?」
私は目を瞬かせながら、金子を見上げた。
「うん。知り合いというか、お客さん」
「そうだったんですね!」
私はぱっと笑顔を作った。
「本当に、ありがとうございました」
その人は慌てたようにさらに私から顔を背けると、うつむいたまま短く言った。
「いや、別に、たいしたことじゃないから。……それよりも、金子君、家まで送ってあげた方がいいんじゃないのか?さっきの男、まだその辺をうろついているかもしれないし。一人で帰すのは危ないだろ」
『そう』さんの言葉に、金子はにこりと笑って頷いた。
「もちろん、そのつもりです。彼女を送ったら、俺はまた戻ってくるので、店で待っててくださいね。お礼させてください」
「お礼なんかいいよ。それより、マスターには俺から言っとくから、早く送って行ってやりな」
その人は、早く行けというように、金子に向かって片手を上げてひらりと動かした。
「それじゃあ、お願いします。……佳奈ちゃん、行こうか。送るよ」
そう言って、金子は私の背に軽く触れた。
「え、でも、金子君の仕事は……」
「もともと買い出し頼まれて、出てきたところだったんだよ。マスターには『そう』さんが事情を話してくれるっていうし、大丈夫だよ。第一、こういう場合、マスターなら絶対に送って行けって言うに決まってるから」
「それなら……お願いします」
「よし、じゃ、行こうか」
金子に促されて歩き出した私だったが、つと足を止めた。
ちょうど階段に足をかけるところだった彼の後ろ姿に向かって、私は言った。
「助けて下さって、本当にありがとうございました」
「……どういたしまして」
「今度、私がいる時にもいらして下さい。ぜひお礼をしたいので」
「気が向いたら」
彼は背中を向けたままぶっきらぼうに応えると、一度も私の方を見ることなく、階段をゆっくりと昇って行った。
私がマスターの店のアルバイトをやめることにしたのは、その一件から割とすぐのタイミングだった。
次の週になって、開店前の掃除をしている最中に、金子が強い調子で口を開いたのだ。
「佳奈ちゃんさ、そんなにお金が必要って訳じゃないんなら、夜のバイトはやめた方がいいよ」
私はテーブルを拭いていた手を止めて、困った顔をした。
「ここで働くの、楽しいんですよね……」
せっかく仕事に慣れ、金子とも仲良くなれたというのに――。
彼に対する淡い気持ちを自覚したばかりということもあって、まだ辞めたくないと思った。
金子は私を諭すように言葉を続ける。
「鈴木みたいなやつが、また現れたらどうするんだよ。この前みたいに、運よく誰かが助けてくれるとは限らないんだよ」
「それは、そうですけど……」
私は下を向いた。
金子が言うことは分かる。今回鈴木が諦めたとしても、第二の鈴木が現れないという保証はない。その度にマスターや金子に心配をかけたり、迷惑をかけたりするわけにもいかない。
「マスターもやっぱり、同じ意見なんですか?」
それまで黙って私たちの話に耳を傾けていたマスターに、私は問いかけた。
マスターはしゅんとした顔で頷いた。
「この前も言ったけど、本当はやめてほしくないんだよ。だけど、佳奈ちゃんの安全のためだから、仕方ないよね」
私はエプロンの裾をキュッと握って、うな垂れた。
「わかり、ました……」
次に顔を上げた時には、私は笑顔でマスターと金子を見た。
「バイト、やめます。これ以上、二人に心配はかけたくないですから。……ただ」
まだしゅんとした表情のまま、マスターが聞き返した。
「ただ?」
「助けてくれた『そう』さんですけど、たぶん私、改めてお礼を言う機会もないまま、お店をやめることになってしまいますよね。しかも私、『そう』さんがどんな人なのか、どんな顔していたのかも分からないままになってしまうのが、なんというかちょっと心残りというか……」
マスターが苦笑を浮かべる。
「まぁ、仕方がないよ。その時の佳奈ちゃんに余裕なんてなかっただろうからね。彼が来た時に、俺からちゃんと伝えておくよ。佳奈ちゃんの気持ち」
「お願いします。ものすごく感謝していた、って伝えてくださいね。できたら私のツケで何かごちそうしてください」
「了解。……バイト辞めても、たまに顔は見せてよね」
「はい」
マスターの嬉しい言葉に涙がにじみそうになっていると、金子が何かを思いついたような顔で私に向き直った。
「それだけど」
「それ?」
目元を指先で拭いながら、私は首を傾げて金子を見た。
「今後ここに来る時は、絶対に一人で来ないこと。必ず誰かとおいで。本当は男の人と来れば安心なんだけどな……。佳奈ちゃん、早く彼氏でも作りなよ。それまでは、夜一人でふらふら飲みに出たりしないように。分かった?」
「……はい、分かりました」
答えるのに少しだけ間が開いてしまったことに、金子は気づかなかったようだ。
笑顔で頷いた私だったが、金子の言葉に胸の奥がちくっと痛んだ。
私は金子君の彼女候補ではないんだな――。
なんとなく分かってはいたけれど、改めてそう思った瞬間、私の中にあった金子への淡い気持ちは行き場を失った。そのまま飲み込んだら、苦い味がした。
「さて、と。じゃあ、今日は佳奈ちゃんのバイトはラストということで。楽しく頑張りますか」
やっぱり金子は、何も気づいていなかったんだな。私も気づかせるような態度を取っていなかったと思うけど――。
私は苦い気持ちを忘れるように、あえて元気よく返事をした。
「はいっ!頑張りましょう!」
こうして。
私の楡の木でのアルバイトは終わったのだった。
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