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事件から数日が経ち、初兎は屋敷の自室で静養していた。
夕暮れ時、カーテン越しの光がオレンジ色に染まり、庭の薔薇が揺れる。窓辺に座る初兎のもとに、紅茶を運ぶ足音が静かに近づく。
「お嬢様、お加減はいかがですか?」
「……うん、だいぶ良くなったわ。ありがとう、いふ」
彼の差し出す紅茶を受け取りながら、初兎はそっと目を伏せる。
あの夜、自分のために命懸けで戦ってくれた執事。あの腕の中の温もりが、どうしても忘れられなかった。
「いふ……少し、お話できる?」
「もちろんです」
彼が隣に膝をつくと、初兎は紅茶を一口飲み、意を決したように彼を見つめた。
「私、あの夜――すごく怖かった。でも、いふの声が聞こえたとき、心がすごく……安心したの。……ねえ、いふ。どうしてあんなに、必死に私を……?やっぱり、私は雇い主の娘で、あなたが執事だから…?」
沈黙が一瞬、ふたりの間に落ちる。
だが、いふはゆっくりとその瞳を彼女に向けた。深い湖のような瞳が、初兎だけを映している。
「お嬢様だから……ではありません。あなたが、”初兎様”だからです」
「え……?」
「私は執事として、いつもあなたのそばに仕えてきました。ですが……本当は、ずっと……あなたを、ひとりの女性として想っていました」
初兎の目が、見開かれる。
「許されない気持ちだと、わかっていました。主と使用人、決して越えてはいけない境界。でも、あの夜……あなたがいなくなるかもしれないと知った瞬間、もう抑えきれなかったのです」
初兎は、しばらく黙っていふの顔を見つめていた。
そして、そっと手を伸ばし、彼の指に自分の手を重ねた。
「越えてもいいって、私が言ったら……どうする?」
いふの目が、驚きに揺れる。
「私も、あなたを見てたの。執事としてじゃなくて、“いふ”という人を――ずっと」
その言葉に、いふの胸が静かに震えた。
「……お嬢様」
「もう、そう呼ばないで。今だけは、初兎って呼んで?」
「……初兎」
その名前を呼んだとき、二人の距離が、初めて“主従”を越えてひとつになった。
屋敷の庭で咲く薔薇の香りが、ふたりの恋のはじまりをそっと祝福していた。