中太
「雲を掴んだ」
雲を掴んだような、なんて比喩をご存知か。晴天に気高く浮かび上がる雲を掴むように、核心のないようなことを喩えた言葉…其れを具現化した様な人間を、俺はよく知っている。
包帯に身を包み、砂色の外套を翻らせて、その性格はまるで、さっき言った様な核心のない、ひらひらと剽軽で飄々と、それでいてふわふわした曖昧なもの。その上無駄に背も高いくせに、体術やら握力は俺以下という、正に雲の様な人間だ。
俺はその隣で二年、裏社会を荒らしまわった。彼奴が制御し、俺が荒らし回る。知略に置いちゃ首領並にできていた彼奴は、苛立ちを覚えるくらいに出世した。
それを追う様に、空に浮かぶ雲を眺めながら、まるで並走してるけど、本当は彼の方が全く早いことの様に、まるで出世が追いつきやしなかった。
幹部になった頃には彼奴は武装探偵社に転がり込んで前職を隠して生きている。ここまで報われねぇこたぁ、探したってない。
そして、ぐだぐだと彼奴について語ったが、今し方、その彼奴に体術を教え込んでやっている。真逆、まるでプレゼントの様にタイミングが合致したもんだから、その日は俺の二倍くらい年を食ったワインを開けた。其の位、嬉しかった。
彼奴は…ああ、名前をまだ出していなかった、彼奴、太宰治…以降青鯖といこうか。青鯖は口は減らずとも今にも折れそうな体を見れば分かる様に、体術は中堅以下だ。相棒として二年やっていた記憶から行動は読めるとほざくが、一発殴りを入れただけでもう詰められた。
話は変わるが、俺はいつかの時まで加虐心を具体的に認知した記憶がなかった。虐めて興奮するとは、悪趣味だな程度にしか思わず、sadismを問われたとて模範回答しか浮かばなかった。
しかし、その“いつかの時”が今だなんて、誰が想像できるだろう?
俺は彼奴の首を掴んだと同時、雲を掴んだ。雲ったって、弱ちい芯のある、雲じゃなくて今にも折れそうな梢の様な、少し力めば折れてしまう様なか細いものだが。
今まで彼奴が、青鯖が本当にいるかすら危うい認知だった。本当にいるのか、イマジナリーじゃないのか、そう考えるくらい、よく言えば彼奴は儚い者だった。
しかし今はどうだろう、剽軽で掴みどころのない彼奴の命が、掌で醜く踊っているではないか!
ああ、脈が、動く血が、呼吸音が、生命活動の源全てが弱々しく聞こえる。これを俺が少し力を入れただけで、5分後には止まってしまうのか。うつくしい…美しい。百億の名画なんて比ではない。
未だ保たれる余裕の微笑に、ナイフを突き立てたら、どうなってしまうだろう。
腹の計画なんぞどうでもいい、今はただ、この感覚を楽しみたい。
今までは正直、雲の上の何かが操る何かと会話をする程度の感覚だったが、今やっと理解できた。この命、顔、呼吸音、声、手を伝う汗、全てが愛おしい。
屈服させたわけじゃない。 しかし今、反抗を起こせば彼奴は死ぬ。否が応でも、心まで奪えずとも、なにか言質を採れたりはするだろう。美女に殺されることを夢とする彼奴からすれば、俺の様な男に縊り殺されるのは嬉しくはないだろうし、殺したとて困るモンじゃない。
ナイフが開けた皮膚の穴から、この音を構成する部品が流れ落ちる。ぽたた、ぽたた、と、これまた小さな音を立てて。包帯に血が滲む様は、なんともいいものだ。
この後のことなんて全て消えて仕舞えばいいのに。そう、刹那に思った。
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