それからしばらく、カリカリと万年筆が紙の上をなぞる音だけが鳴り響くだけだった。
そしてしばらく経つと、勢いよくバタンと扉が開く音が聞こえてきた。顔を上げなくても、すぐさま、純一郎が帰ってきたのだと気がついた。
「ただいまっす! 柴田店に綺麗なかんざしがあったので、即決して買いました! 知成さん、見てほしいっす!」
嬉しそうに紙袋を持って、ぴょんぴょんと跳ねる純一郎。それを見て、蝶子はくふふと言い出した。
「あ、蝶子姉さん!蝶子姉さんじゃないですか! うわあ! おかえりっす!」
「よう、純一郎。ただいま。あたしがいなくて寂しかったかい?」
「もう本当に寂しかったっす! 会えて嬉しいっす!」
だきっと蝶子に純一郎は抱き着く、それを嬉しそうに、蝶子は豪快に笑った。
「可愛いなあ、純一郎は! どこかの社長とは大違いだ」
「ちょっと待ってよ、蝶子さん。それってどこかのじゃなくて、この社長のことだよね? ちなみに俺と純一郎、七つくらい離れてるんだけど。というより、蝶子さんと純一郎は十歳弱離れてるよな?」
「年なんて関係ねえよ。なあ? 純一郎」
「はいっす! 年ってもんはただの数っすから!」
「お前ら本当に調子良いな……」
この二人は本当に実の姉弟のように仲がいい。先ほども述べたように、純一郎は蝶子を蝶子姉さんと呼び、蝶子は愛を持って純一郎と呼ぶ。純一郎と呼ばれるたびに純一郎は嬉しそうに目を細める。実は、純一郎という名前は、蝶子が付けた名前だった。
ふと、扉をたたく音がする。はい、と返事をすると、中からひょっこりと矢絣の桃色の長襦袢に、クリーム色の袴帯をつけ、その上に鮮やかな赤色をした袴を着用し、前髪が一直線に揃えられ、ふんわりと三つ編みをした可愛らしい女児が顔を出した。
「あれ、澄? どうしたんだ、今日は出勤の日じゃないだろう?」
「ええっと、あのう、前園さん宛に郵便が届いていたので、それを前園さんのデスクに置いておこうと思いまして。置いても構いませんか?」
「別にいいけど……」
澄と呼ばれた女児は、いそいそと壁際にあるデスクの方へ歩いていく。そこで、知成はその澄の持つ小さな段ボールに嫌な予感がした。
「待って、澄。それって、中身確認したか?」
「え?」
きょとんと澄はほうけた顔をする。
「いえ、してませんけど……」
知成は顔をこわばらせる。
「……あの、あいつのことだ。きっと、何かしら、とんでもないものを頼んだんだろう。……たとえば、……縄、とか」
「縄?」
知成の緊迫感ある言葉の雰囲気を壊すように、澄はおっとりとした声色で小首を傾げた。
「いやだわ、知成さん。前園さんが、縄なんてどこで使用なさるとお考えなんですか! ……まさか、不審者を自身の手で捕まえようと……?」
ハッとした凛々しい表情で知成を見る。知成は目を見開いた。
「嘘だろ……? 前園がそんな英雄如く縄を扱うわけが……」
「まったく。澄ってば。前園さんだぞ? そんな英雄みたいなことはしないだろ〜!」
「やっぱり、純一郎はよくわかっているな……」
「前園さんは縄を使って、猪を獲ろうとしてるんすよ! ね、知成さん!」
「こんな都会に山があるもんか! 嘘だろう、お前たち!」
こくてん、と疑問に満ちた目で、純一郎と澄は知成を見る。自身の心が汚くなっているだけなのかと、蝶子を見るが、どうやらその感性はおかしくないらしい。蝶子は腹が立つほど愉快そうな顔をしてケラケラと笑っていた。他人事だと思っているのだろう。
「あのなあ……ここは都会なんだから猪なんているわけないだろ? それに、ここにはちゃんと警備がついてる。小合さんだってついてるんだ。そもそもあの貧弱な前園が不審人物を捕まえられるわけなかろう……」
些か本題からずれてしまっている気もするが、細かいことは気にしないでおこう。
二人は納得したようなしていないような曖昧な表情を浮かべ、互いの顔を見つめ合っていた。
純一郎と澄。この二人は実の兄妹である。先ほど、純一郎の名前は蝶子がつけたと述べたが、それは澄も同様である。なぜ、二人の名前を蝶子がつけたのかと申せば、理由は至って簡単なことである。それは二人には名前がなかったからである。昔、知成と蝶子が二人を家に連れていくまで、二人は互いのことを妹、お兄ちゃんと呼んでいたらしいのだ。それを気の毒に思い、蝶子が名付けた、という経緯である。だから、純一郎は蝶子を姉さんと呼ぶのである。
「でも、開けるまで何が入ってるかはわからないっすよ?」
「そうですわよ、知成さん」
なぜだか、仲間はずれにされている心持ちになる。蝶子は相変わらずケラケラと笑っている。
「……じゃあ、開けてみたらいい。」
「勝手に人の物を開けるのは……いけないことでは……?」
「社長の俺が許可してるんだ。いいだろう。それに、会社宛に来てるものを管理するのは俺の仕事だ。」
「知成さん……! やっぱり、知成さんはかっこいいっす! 一生ついていきますっす!」
「あたしもです!」
「大丈夫。君たちは君たちだけの人生を歩んで」
キラキラと目を輝かせる純一郎と澄。また、そのキラキラを両手で遮る知成。その光景を腹を抱えて笑っている蝶子。知成は思った。ここの社員はみな独特であると。なぜこんなにも変なやつらが集ってしまったのだろう、と。
「……あ」
段ボールを開いた純一郎は誰にも見せることなく、自身の手で覆い隠した。澄が何があったの? と聞いても、頬を膨らませて口をつぐむばかりである。
(……縄まではまだ想像できたっすけど、まさか……張方が入っているなんて……想像もしてなかったっす……)
そんな純一郎の声が聞こえて、知成は妙に納得しながらも呆れてしまっていた。こんなにも純粋な純一郎が張方を知っていたのかという事実より、そんな物を会社に送りつける前園の行動に開いた口が塞がらない。澄は相変わらず首を傾げている。
知成は純一郎の肩をポンとたたき、
「純一郎、すまない。苦労をかけるな……」
と声をかけた。こくんと純一郎は頷く。
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