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電車に揺られながら大都市の大きな駅から徐々に郊外へと向かっていることが車窓を流れる景色からも分かり、既に日が沈みはじめた森や平野を抜け人々が暮らしを送る町へと近付いていく。
距離でいえば二十キロ、感傷を覚えるような距離では無いが何故かそれを覚えたリアムが隣で興味深そうに車窓を見ている慶一朗の腿にそっと手を乗せると、何だと問うように目を向けられる。
昨日町に向かう電車に乗っていたときはこんな気持ちで家に帰ることになるなど思いも寄らないことだったし、隣に慶一朗がいる事も想像すら出来ないことだった。
慶一朗が己の気持ちに素直になり行動した結果、今こうして隣にいて、己の両親に会わせることが出来るようになったのだと思うと、言葉に出来ない思いが胸に溢れそうになる。
「……ケイさん」
「何だ?」
「うん。初めてこの電車に乗ったときはシドニーに行く時だったからあまり景色も何も覚えてなかった。この前の帰省も彼女と別れた直後だったから似たような感じだった」
でも今は、自然が豊かな場所を通って両親と祖母が暮らす家に行っている、電車も悪くないと笑みを浮かべると、隣で少し考え込んだ慶一朗が天井を見上げた後、周囲に人がいない事を確かめてリアムの手をきゅっと握り返す。
これが今慶一朗に出来る最大のスキンシップだと気付いたリアムの顔が更に笑み崩れ、この路線の模型は売っていないのかな、ああ、そうだ、ソウに教えて貰った模型屋に行けなかったと笑われ、趣味の鉄道模型はあの町で買ってきて貰ったのかと問えば、双子の兄の総一朗は理由は不明だが定期的にあの町に行っていると教えられる。
「そうなのか」
「ああ」
本当に何の理由で来ているんだろうなと笑う慶一朗の目の前に小さな駅舎が見えてきて、あの駅舎を今度は作ってみたいと趣味のジオラマに組み込む事を考え始める。
「ケイさん、降りるぞ」
「ああ」
脳内でどのような光景を思い浮かべているのかリアムには知る由もなかったが、何ヶ月後かにはジオラマの中に表現されるのだろうと気付き、楽しみだなと笑ってスーツケースを両手に開いたドアからホームに降り立ち、その隣に慶一朗も並ぶ。
まさか一緒にここに来られる日が来るとはと、やけに感傷的になっている己に気付きながら駅舎から自宅へ向かう道へ進む。
世界はすっかりと秋色に染まり、周囲の木々も赤や黄色に色付いていて、天気が良い日中であれば散歩日和だっただろうが、秋になると同時に太陽も顔を隠す時間が早まり、既に周囲は秋の日はつるべ落としを表現するように暗くなっていた。
電車の中ではまだ少し明るさが残っていたのにと白い息を吐いたリアムだったが、隣から小さなくしゃみの音が聞こえてきてそちらに顔を向けると、薄手のジャケットの前をしっかりと重ねた慶一朗が身体を震わせていた。
「寒いか?」
「誰かさんのように筋肉ダルマじゃないからな」
その人のように筋肉の毛布を被っている訳じゃ無いと嫌味たらしく言い放つ慶一朗を細めた視界で見つめたリアムだったが、寒いかと不思議そうに呟きながら着ていたジャケットを脱いで慶一朗の肩に被せる。
「ケイさんが言う誰かさんは知らないが、俺は寒くないからなぁ」
「……Scheiße.」
「まーたそれを言う!」
男として人としてごく自然に相手を気遣える己の恋人を見つめるには敵意が籠もった視線を投げかけた慶一朗だったが、寒さが和らいだことに気付いて安堵の息を零し、ついでに間近に感じるリアムの匂いに無意識に安心してしまう。
「ケイさん、家が見えてきた」
リアムの声が少し弾み、それに釣られるように顔を上げた慶一朗の視界に見事に色付いた一本の木とその木に守られるように田舎風−と呼ぶのだろうか、山小屋を少し立派にしたような家が入り、あの木の横の家かと問えば嬉しそうに目を細めた顔を振り向けられる。
「ああ。菩提樹だ」
「……クライネ・ウンターデンリンデンだな」
慶一朗が歌うように呟いた言葉にリアムが目を見張り初めてそんな事を言われたと楽しそうに笑うが、あの下にコーヒーテーブルと椅子を置けば即席のカフェになると慶一朗が笑い、ああ、あそこで慶一朗が淹れてくれるコーヒーを飲みたいとリアムも歌うように返す。
「ケイさんはウンターデンリンデンに行ったことはあるのか?」
「いや? ベルリンに行ったことはないなぁ」
リアムの素朴な疑問に慶一朗もお前はと返しそうになり、十歳でシドニーに移住したのだから行ったことは無いとも気付くと、そっとその言葉を飲み込む。
「ウンターデンリンデンはテレビで見た事があるぐらいだな」
「そうか」
ベルリンにある菩提樹が作る並木道が有名な大通りであるウンターデンリンデンには一度は行ってみたいが、ベルリンに行く機会が無いと笑うリアムに慶一朗もそうだなと頷くが、わざわざ遠出しなくともあの木で十分じゃないかと口元に手を宛がって小さく笑う。
「うん」
そんな、リアムの実家の横ですくすく成長した菩提樹を見ながら店の前にやって来た二人だったが、店のドアが木戸で塞がれていることに気付き、家族専用の出入口である裏口へと回ってドアベルを鳴らすと、今帰ってきたと声を張り上げる。
その声に驚きと歓喜を混ぜ込んだ表情で出迎えてくれたのはすぐ近くにいたらしい母フリーダで、寒かったんじゃ無いのかとリアムの冷えた頬にキスをし、背中で手が届かないほど鍛えられている息子を抱きしめる。
だが、息子の後ろに人がいることに気付き、あらあらと何やら意味の無い言葉を言いながらリアムから離れたフリーダは、珍しく緊張を浮かべた顔の慶一朗がこんにちはとドイツ南部の方言で挨拶をする。
「こんにちは。遠いところ疲れたでしょう? さあ、中に入って」
初めて息子が年上の同性と付き合っていると聞かされた衝撃は彼女の中では既に納めるべき場所に収まっているようで、息子がゲイになったという葛藤の片鱗など一切窺わせない態度で慶一朗を中にと招き入れる。
「ありがとうございます」
リアムの母の気遣いにいつも以上に鄭重に礼を言い、どうぞとリアムにも促されて短い廊下を通って家族が使っているキッチンへと向かう。
「母さん、マール、リアムが帰ってきたわよ」
そして、生まれて初めて我が息子が恋人を紹介するために連れてきてくれたわとキッチンのドアを開けながら陽気に告げると、室内で椅子が倒れる音や落ち着いてという上擦った声が聞こえてくる。
「うるさい家族でびっくりしたよな」
「……明るいお前らしい」
背後でその物音に驚いている慶一朗にリアムが顔を寄せて耳打ちし大丈夫だと返されて安堵すると母に続いてキッチンに入り、ばあちゃん、落ち着いてと、意味も無く顔を左右に振る祖母に苦笑しつつ続いて入ってきた慶一朗を隣に招き寄せると、己のジャケットを羽織らせた背中にそっと腕を回し、何故か目の前に一列に並んで出迎えてくれる家族に胸を張る。
「皆、紹介する――俺が今付き合っていて、結婚も考えている人、ケイさんだ」
「……初めまして、慶一朗です」
リアムの何もかもを突き抜けたような朗らかな紹介に家族がぽかんと口を開け、そんな三人にというよりは隣のリアムに家族を困惑させるなと肘で脇腹を突いて注意をした慶一朗が三人の衝撃が少し収まったのを見計らい、慶一朗ですと手を差し出す。
「ケイさん?」
「いえ……さんは無くても良いですよ」
家族の誰が最初にその手を取るのかと言いたげに顔を見合わせるが、クララが意を決したようにそっと手を握り、次いでフリーダが、最後にマリウスが慶一朗の手を握る。
「ケイさんと言ってるのはリアムだけです。それに、さんは日本では敬称の意味があります」
俺から提案するのも妙ですが、皆さんが良ければduzenで話しましょうと笑顔で提案し、慶一朗の横でリアムが何度も頭を縦に振る。
「そう、かい?」
「はい――お前がケイさんなんて呼ぶからだぞ、リアム」
「ん? ケイさんはケイさんだろ?」
だからさん付けは止めろといつも言っているのにと二人きりの時と同じように慶一朗がリアムに顰めた声で小言を言い、言われた方は馬耳東風とばかりに満面の笑みを浮かべる。
その光景をしっかりと見た三人だったが、きっと今の顔が自分たちすら知らない息子の日常の顔であり、恋人には見せている姿なのだと気付くと、良い出会いをしたのだと唐突に気付く。
幼い頃の事故で不要な苦労を背負わせてしまったのでは無いのかと孫息子に対して負い目を感じていた祖母や両親だったが、今目の前で恋人に詰め寄られながらも幸せそうに笑っている姿を見れば、その負い目がほんの少しだけ薄らいでいく。
それに気付いた母が一度目を閉じてゆっくりと目を開け、慶一朗の肩からジャケットが滑り落ちた事に気付いて拾い上げると、己も気付いたらしい慶一朗にリアムのジャケットを借りていましたと微苦笑される。
その言葉から察したのは息子の恋人が男性女性のどちらであれ恋人への気遣いがちゃんと出来る男に成長しているという実感で、クララを見てそっと頷き、マリウスを見て満面の笑みを浮かべると、慶一朗の腕に腕を回して息子とその恋人の目を見開かせる。
「ケイ、で良いのよね?」
「勿論」
「私はフリーダよ。リアムの母。こっちは私の母でリアムの祖母のクララ。こっちは私の夫のマリウス。よろしくね、ケイ」
フリーダの中でどのような化学反応が起こった結果、慶一朗の腕に腕を回して家族を紹介するのかが理解出来なかったが、拒絶されることを思えば遙かにこちらの方が良く、壁際のソファに腰を下ろしたクララの前に慶一朗を連れて行き、その横に座らせる。
「リアム、飲み物の用意をするから手伝って」
「分かった。ケイさん、何を飲む?」
「任せる」
冷蔵庫を開けながらリアムがまず慶一朗に問いかけ、次に祖母と父にも問いかけるが、コーヒーを飲むと皆が言ったため、慶一朗が断りを入れて立ち上がる。
「リアム、人数分のカップを用意してくれ」
「分かった」
座っていれば良いのにとクララがまだ遠慮がちに慶一朗に告げようとするが、彼女のその動きに気付かなかった慶一朗がリアムの横に向かい、コーヒー豆とフィルターなどの準備を頼むとコンロにケトルを乗せる。
「ケイさんはコーヒーを淹れるのが上手い」
毎日本当に美味いコーヒーを飲ませてくれていると、家族に背中を向ける形でコンロに向かい合っている慶一朗を満面の笑みで褒め称えたリアムだったが、クララが不安そうな顔で見つめてきた事に気付いてその横に腰を下ろす。
「どうした?」
「……いや、あんたが幸せそうだから良いけど、あたし、嫌われてるんじゃないのかい?」
「は?」
さっき声をかけたが無視をされたと今にも泣きそうな顔の祖母など見た事が無かったリアムが素っ頓狂な声を上げるが、ああ、さっきは本当にタイミングが悪かっただけで慶一朗も気付いていないだけだと返し本当かと疑われるが、細い背中を親指で指し示し、首筋を見てみろとリアムが笑うと何事だと言いたげに父と母も顔を寄せる。
「……めちゃくちゃ恥ずかしがり屋なんだよ」
リアムのその言葉に三人が顔を見合わせて一斉に慶一朗の首筋を見るとリアムの言葉通りに首筋は真っ赤になっていて、緊張しているだけだと笑われて納得する。
「ヘイ、そこの王子様、家族と盛り上がっているところ悪いがカップを温めてくれ」
「Ja.」
己の羞恥の強さについて話していた事に緊張から気付いていなかった慶一朗が背後を振り返りながらリアムにいつものように呼びかけ、呼ばれた方もいつものように素直にその隣に並ぶ。
「……今、プリンツって言ったかい?」
「ええ、そう聞こえたわ」
「王子様か……リアムが王子様、かぁ」
その言葉は緊張しているような色もまったくなくごく普通に交わされる言葉で、二人きりの時にはそう呼んでいるのかとも気付いた三人は、リアムと慶一朗の交際が自分たちが思っている以上に息子にとっては良好なものだとも気付き、万が一の可能性で覚えていた不安が霧散したことに気付く。
「祖父ちゃんがいれば喜んだだろうねぇ」
コンロの前で人数分のコーヒーの準備をする慶一朗とそれを自然と手伝うリアムを見つめ、クララがぽつりと呟いた言葉にマリウスが席を立って食器を納めている戸棚を開いて写真を持ってくる。
「これで寂しくない」
「そうね」
夫の気遣いにフリーダが笑みを浮かべてその頬にキスをし、写真の父と母と一緒に息子とその恋人の背中を見守るのだった。
慶一朗が皆に用意をしたコーヒーはリアムの家族の絶賛を浴び、これぐらいしか出来ないからと返すが、三人から謙遜するなと詰め寄られてしまう。
それに慌てる慶一朗を尻目にテーブルに突っ伏して笑うリアムだったが、いつまで笑っているこの野郎と思わず口にすると、リアムが顔を上げるだけではなくクララとフリーダが、そして息子そっくりなマリウスがじっと慶一朗を見つめ、そんな悪い言葉を使うのは良くないぞと言い放たれて絶句してしまう。
いつもならば聞き慣れていてさほどダメージは受けないがリアムと似た風貌や雰囲気の人達に注意をされてしまえば大人しくならざるを得なくて、肩を窄めた慶一朗がもう言いませんと上目遣いになってしまうほどだった。
「すごいな……ケイさんが一発で大人しくなった」
「……」
この野郎、後で覚えていろと言いたげに睨まれて肩を竦めたリアムだったが、家族団らんの時間をいつまでも取っている訳にもいかない事に気付き、そろそろ店を開ける準備をしなくても良いのかと問うとクララがゆっくりと、フリーダとマリウスが気合いを入れるように立ち上がる。
「ケイ、悪いけど忙しいときはリアムを使うよ」
「もちろん。何も手伝えなくて悪い。……邪魔にならないようにしているから、厨房か店にいてもいいか?」
リアムの家に来たが一人で部屋にいるなど考えたくない慶一朗がリアムの顔を見つめた後、順番にクララとフリーダの顔を見つめ、最後にマリウスに問いかける。
「良いよ」
今日はリアムがいるのであたしはレジに座っているとクララが告げ、もし良かったらケイも横に座るかいと手を向けてくれたため、その手に手を重ねて横で動きを見ていると頷く。
幼い頃から一人で過ごす事が当たり前で、中学に入って双子の兄と同じ学校に通うようになるまで家族との団らんなど経験したことも無かった慶一朗が興味津々でクララの言葉に頷き、じゃあ今日はそうしよう、忙しくなったらあたしも手伝うと頷き、店の入口近くに一段だけ高く板で囲った席にクララが向かい、その近くに椅子を置いて慶一朗が腰を下ろす。
クララがそこに座ることで店の開店合図としているのか、マリウスが外に回って木戸を外して開店したことを教える札をぶら下げ、フリーダとリアムも厨房に入るのだった。
木戸が外された事に気付いた最初の客が入ってきたのはそれから10分も経たない頃で、いつものようにカウンターに入るクララに挨拶をし、その横の椅子で腰を下ろしている慶一朗を不思議そうな顔で見るが、リアムのお友達だとクララが紹介すると皆笑顔でお決まりのカウンターの席やテーブルに座り始める。
料理も酒も出してくれる店はやはり人気なのかあっという間に店内は客で埋まり、今日も来てくれてありがとうと常連客にはいつも通りの笑顔で、初めての客にはどこから来たのか、よく来てくれたねなどと愛想良く語りかけては注文を取るクララは、手早くメモにオーダーを記し、それをマリウスに渡していく。
慣れた仕草でテキパキと客をさばくクララを感心したように見ていた慶一朗だったが、合間を見てはリアムとの暮らしやシドニーの事について問いかけてくる彼女に嫌な顔ひとつする事無く答え、リアムもきっと幼い頃からこの空気の中で育ってきたのだろうと気付くと、自分に素直になってドイツに来て良かったと胸の中でのみ安堵するのだった。
そして、今夜の客の最後のひと組を送り出し、今日は閉店だねと疲労の中にも満足の籠もった溜息をつき−結局あの後慶一朗もただ座っているだけではいられず、リアムに手招きされて厨房の中で初めて皿洗いを経験した−遅い食事にしようとクララが告げ、マリウスが外に出て木戸を閉めようとするが、駅の方から細い人影がこちらに向かって歩いてくることに気付き眉を寄せてしまう。
「父さん?」
いつまで経っても木戸が閉まらないことに内側からドアを開けて顔を出したリアムだったが、父と同じようにこちらにやって来る人に気付き、ヘイゼルの双眸を見開いてしまう。
「おばさん……!?」
「テレーザ!?」
父と息子の驚愕に満ちた声に二人の前にやって来た女性、テレーザは、こんな時間に申し訳ないと泣き笑いの顔で二人に詫びるが、その頬が赤く腫れている事に真っ先に気付いたリアムが細い手を取って店の中に引き込む。
「どうしたんだい、リアム?」
店のドアの前で何か父と息子が話している声に顔を見合わせていたクララとフリーダだったが、息子が誰かと一緒に戻ってきたことに気付いて厨房から顔を出し、そこに思いもかけない人物を発見して手にしていたコップを落としてしまう。
「テレーザ!?」
「……おばさん、フリーダ……っ!」
駆け寄ってきた二人の名を呼ぶのが精一杯だったらしく、両手で顔を覆って床に座り込んで嗚咽を零すテレーザを、戸締まりを済ませて戻ってきたマリウスも含め、誰も何も声をかけることが出来ずにただ見下ろしてしまうのだった。