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依鈴
ド庶民の私でも名前を聞いたことのある高級ホテルは、東京都心の一等地に堂々と聳え立っている。
7月。 梅雨明けを迎えたばかりの土曜日。11時30分。刺すような陽射しが、白地にレモンの大柄がプリントされた半袖のワンピースから伸びる手をじりじりと焼く。
依鈴
後悔したけれどもう遅いし、こういう場でUVカットのアームカバーを付けるのはもしかしたら相手方に失礼に当たるのかもしれない。
もう30にもなるのにそんな初歩的な冠婚葬祭のマナーも分かっていない自分が恥ずかしかった。 甘やかされて育った自覚もあるけれど、今までの人生にそんな知識を必要としないで生きてこれたのは幸せなことかもしれない。
わたしの斜め前を歩く父の、グレーのスーツの背中が汗で黒く滲んでいるのは、真夏の暑さのせいだけでは、きっとない。
父
依鈴
依鈴
父
依鈴
依鈴
依鈴
依鈴
これから会う人が、 全然《きちんとされた方》じゃないのは折り込み済。 ヤクザだ。 しかも最悪の方のヤクザ。
そして。
依鈴
悲観的になんてなってない。 この結婚はビジネスだ。 この話において私は商品だ。
私が、この歳で半年前に彼氏に振られたばかりの寂しい女で良かった。
私の夫になる人は最悪のヤクザだけど、そのお陰で私たち一家は生き永らえる。
依鈴
戦場に赴くような気持ちで目の前の高層ビルを見上げる。
都会の真ん中で、蝉の鳴き声が聞こえた気がした。
檸檬
エントランスを潜る時のホテルマンの対応で、自分がお姫様にでもなったのではないかと錯覚すらしそうになった。
高級ホテルのロビーは明るく、吹き抜けから燦燦と陽光が射し込んでくる。 微かにクラシックが流れていた。 まだ宿泊客のチェックインの時間には遠いだろうに、フロントは忙しそうだし、日本人も外国人も沢山いる。いったいどういう人達なのだろう。
田舎者っぽくキョロキョロしないように努めつつ、父の後をついていく。
変わった形のシャンデリアが吊り下げられているロビーラウンジに向かうと、父が焦った声を出した。
父
視線を上げた先には、確かにビジネスマンでは無さそうな男の人が立っていた。
ネイビーのサマージャケットに白と薄いグレーのストライプのオックスフォードシャツ、白のニットタイに白藍のスラックスに白の革靴。 ビジネスマンでもないが、ホストっぽいわけでもなく、わたしの想像するいわゆる「ヤクザ」とも違う男だった。
いかにもお見合いらしい、爽やかさと清潔感を全面に押し出したような服装と肩に流れる、夏に似つかわしくない真っ白な髪がミスマッチで。 それが妙に気になった。
「ココノイさん」と父が呼んだその男がこちらに向き直って会釈をする。
九井一
父
九井一
父
九井一
父
九井一
九井一
依鈴
いきなり話を振られて父の後ろでぼおっと突っ立っていたわたしは虚をつかれて変な声が出た。
九井さんの視線はいつの間にかこちらに向けられている。
九井一
依鈴
九井一
九井さんはニコッと笑って見せた後、視線を父に戻した。
九井一
喫茶室のケーキの話等意味のない挨拶でのとっかかりでしか無かったらしい。 私の返事になど端から興味が無かったようで、聞きもせずに九井さんはエレベーターホールに先導してくれた。
九井一
依鈴
九井一
父
九井一
九井一
よく喋る人だと思った。
ニコニコして、自分のことを話すのと、こちらのことを聞くのと、その配分も上手い。
だけど、九井さんは自分のことを「十代の頃の仲間内で始めたベンチャー企業の経理をやっている」なんて言ったけれど、仕事は日本最大の犯罪組織「梵天」の幹部だということを私は知っているし、 九井さんの笑顔と言葉も、軽薄さは一切無いはずなのにとても薄っぺらく感じた。
信用ならない男。
そんな印象。
会話内容は、一般的なお見合いで想定されるよりも仕事の話が多い……というか、仕事の話しかしていない。
依鈴
そんなこと、分かりきってて覚悟だってしていた筈なのに、実際それを肌で感じるのはとても虚しかった。
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
馬鹿なことを聞いた。
きっとこの人は、年齢差が気になるほど私に興味がない。
わざわざ自ら惨めになった私は、テーブルの下でぎゅっと手を握りしめた。
テーブルの上で冷めてゆくアールグレイティーも、お茶菓子のマカロンも、本当は大好きなのに手を伸ばす気にもなれなかった。
九井一
腕時計をちらりと見た九井さんが貼り付けた笑みを深めた。
九井一
父
父
ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった父が深々と頭を下げる。 わたしもそれに倣った。
父
九井一
九井一
父
依鈴
そして
私の夫になるひと。
父
依鈴
父
依鈴
依鈴
父
父
依鈴
賑やかなこの街にわたしたちのような辛気臭い親子は似つかわしくない。
JRの駅はホテルから少し遠くて、わたしたちは炎天下をただとぼとぼと歩いていた。
なんの根拠もない「大丈夫」が何度も口をついてでた。
九井さんの胡散臭さにきっと父も気づいている。
でもわたしたちは努めてそれをお互いにすら悟られないようにしていた。
依鈴
父
依鈴
父
父
父
依鈴
こんな空気、耐えられないと思った。
九井一
依鈴
時間を潰せればなんでも良くて、わざわざお洒落な街で入るようなところでもない、チェーンの喫茶店に入った。
予想はしていたけれど店内は満席だったけど、待ち人数も少ないようだったからそのまま入店することにする。
タッチパネルの受付機に表示された受付番号を確認して奥に歩みをすすめると、今最も心の休まらない男がいた。
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
九井一
ホテルでの会話からは想像できない口調で、手首を掴まれた。
思ったよりも力が強くて、ああやっぱりこのひと反社なんだなと思う。
九井一
九井さんとしても咄嗟の行動だったのだろう。 手はあっさりと離されたけれど、わたしは自分を庇うように掴まれていた手を引いた。 その行動を九井さんがじっと見つめていたけれど、これはもうお互い様だと思った。
モブ
九井一
依鈴
モブ
九井一
九井一
依鈴
勝手なひと。 腹立たしいから何か高いもの頼んでやろう。 パフェとか、…何でも。
九井一
メニューを見ながら九井さんが冗談めかして笑う。 お見合いの時とは打って変わってとても砕けた様子で、そして笑顔の質が大分違う。 爽やかさとは掛け離れた、底意地の悪そうなガラの悪い笑顔。
依鈴
九井一
依鈴
九井一
九井さんはメニューに目を落としたまま店員呼び出しのチャイムを押す。
依鈴
私も早く決めなければと慌ててメニューを読み込む。
依鈴
依鈴
九井一
モブ
九井一
依鈴
九井一
依鈴
依鈴
モブ
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
向かい合わせの席に行儀悪く頬杖をついた九井さんは、そんな告白をしているとは思えない漫然とした表情で笑う。
依鈴
この結婚は結局九井さんの土俵だ。 わたしが気に入らなければ遠慮無く破談すればいいし、 逆にわたしが九井さんを気に入らなくてもこちらに断る権利なんて無い。 九井さんは気の赴くまま対処すれば良いのだ。
九井一
依鈴
九井一
依鈴
耳朶が一気に火照るのを感じた。 わたしの反応を見て、九井さんはニヤニヤと感じの悪い笑みを浮かべる。
依鈴
依鈴
依鈴
九井一
依鈴
九井一
依鈴
九井一
一瞬。
はじめくん、と唇に乗せた瞬間、笑顔を貼り付けていたココくんの表情が曇って、昏い視線がわたしを射抜いた気がして怖かった。
モブ
依鈴
一食にしては明らかに多い量を、昼にフレンチの、しかもフルコースを食べていることを一切感じさせないスピードでココくんは運ばれてきた料理を平らげ、わたしがのろのろとチーズケーキゆつついているのを眺めながらアイスコーヒーを飲み下していた。
九井一
依鈴
九井一
依鈴
しっかり綺麗に料理を平らげる姿は見てて気持ちよかったけれど、 それとこれとは別だ。
思わず思い切り突っ込んでしまったら、ココくんは思いきり吹き出した。
九井一
依鈴
九井一
九井一
喉を鳴らして、控えめにだけれど目に涙が浮かぶ程笑って、はあ、と一息ついた。
九井一
依鈴
九井一
依鈴
依鈴
九井一
相変わらず読めないけれど、屈託のない表情はなんて歳下らしいのだろうと思った。
依鈴
九井一
依鈴
九井一
カフェを出た後、わたしたちはなんとなく流れるように近くの並木道を歩いていた。 陽光が西日に変わって、肌を指す痛みは無くなったけれどその代わり金色の光が大分眩しい。
ジワジワジワ、と蝉の鳴き声が聞こえる。
依鈴
九井一
依鈴
ココくんはジャケットを脱ぎ、ニットタイを外して小脇に抱えている。 真昼間のコンクリートジャングルに比べたら夕方の並木道は幾分過ごしやすかったけれど、それでも健康を害されそうな程暑い。 ココくんの白い首筋に汗の粒が浮いているのが見えた。
依鈴
ハンカチを差し出すとココくんの切れ長の目が見開かれて此方を見る。
依鈴
九井一
依鈴
九井一
ココくんはわたしの手にあるハンカチとわたしの顔をゆっくりと見比べて、ハンカチに手を伸ばす。
依鈴
そう思った刹那、ハンカチが取られない代わりにその手を強く引かれ、バランスを崩した身体がぐらりと傾く。
依鈴
え。
咄嗟に、それしか浮かんでこなかった。
あまりにも突然に強引に、ココくんに唇を奪われていた。
依鈴
依鈴
依鈴
殆どゼロ距離を保ったままのココくんが 口角を歪めてにやりと笑う。
周囲の音がミュートされて、自分の心臓の音だけがよく聞こえた。
ぎゅ、と何か折りたたまれた紙片のようなものを掌に握らされたけれどそれを確認することも出来ずに、ニタリと意地悪なココくんの笑みを見ていた。
九井一
依鈴
九井一
依鈴
九井一
九井一
九井一
九井一
依鈴
依鈴
ココくんはそれをメリットと言うけれど、わたしにとってそれは、あまりにも。
あまりにも最低な交渉だった。
こめかみから、ぬるい汗がゆっくりとおとがいの方へ流れてゆく。
思い出したように世界は音を取り戻し、どうしてこんな騒音が聞こえていなかったのだろうというくらいにけたたましい蝉の大合唱が、空の下のはずなのにドームのように聞こえていた。
わたしは、
ココくんの深紅のアイラインで目尻を彩った、日本人離れしたエキゾチックなその目元から視線を離せなかった。
to be continued…