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雨が降ってきた。
尾沢がコンビニで傘を買ったが、強風により折れてしまった。
台風の進路が南にずれ、東京北区は暴風域に入らなかったものの、通常の比にならないほど風が強い。
明日から夏休みだからいいが、白シャツもスラックスもびしょびしょだった。
「―――げ。なんでいるんだよ……」
つい舌打ちが出る。
今日はたしか茨城に出張だと言っていた。
この天候だから、そのまま泊まってくると思っていたのに―――。
蜂谷は高級住宅地の入り口から見える自分の家の、勇人の書斎に照明がついているのを見て、ため息をついた。
時刻は9時。
なんと言いわけをしようか。
友達と勉強していたということにするか。
集中してたらこんな時間になってしまったと嘘をつけばいい。
目的地への到達が憂鬱であればあるほど、道は短く感じる。
あっという間についてしまった玄関の前で、蜂谷はもう一度大きくため息をついた。
と、スラックスに入れておいた携帯電話が震えた。
知らない番号だ。
防水機能はついているが、指が滑ってなかなかスワイプができない。
やっとのことで赤いアイコンを緑のアイコンにくっつけると、濡れた液晶を耳に当てた。
「―――もしも………」
「蜂谷か!!」
言い終わる前に電話口の相手は、割れるような声で言った。
声だけではない。
どうやら相手も屋外にいるらしく、激しい風雑音が聞こえる。
「諏訪だ!今どこにいる!?」
「―――ああ」
諏訪か。
そういえば、右京を病院に運んだあと、彼の携帯を見ながら自分の番号から掛けたのだった。
「どこって。家だけど――」
「右京も一緒か!?」
言い終わる前に被せてくる。
――右京?
なんであいつの名前が―――。
「右京?いや。一人だけど?」
「――そうか」
大きな身体が脱力したのが、雑音の中でも声と息遣いでわかる。
「―――右京がどうかしたか?」
「いや、何でもない」
「―――」
蜂谷は横目で携帯電話を睨んだ。
「何でもないわけあるかよ。こんな夜に電話かけてきて……」
「――ああ。そうだよな……」
先ほどよりも明らかに覇気の無くなった諏訪の声が響く。
「実はあいつの祖母ちゃんから電話がかかってきて。あいつ、まだ帰ってないみたいなんだ」
――帰ってないだと?
昇降口を出たところで話しかけてきた彼の姿を思い出す。
通学バッグを持ち、下校途中だったはずだ。
「どこに行ったか、知らないか……?」
諏訪の縋るような声が耳にまとわりつく。
「俺が、知るわけないだろ」
蜂谷はそう言うと、通話を切った。
「――――」
心当たりがあるとすれば一つしかない。
何かと右京のことを聞いてきたあの男。
尾沢との約束を、“客が来るから“と断った人物。
「もしかして……多川が……!?」
蜂谷が踵を返そうとしたその時、
「玄関先で何をやっているのですか」
視線を上げると、そこには秘書兼家庭教師の堤下が立っていた。
「お父様が書斎でお待ちですよ」
堤下は、真夏だというのに上着まできっちりスーツを着て、こちらを見下ろしていた。
「ちょっと、俺、友達の部屋に忘れ物したから取ってくる」
言いながら行こうとすると、
「そんなの明日で構わないでしょう?」
堤下が呆れる。
「絶対必要なものなんだよ」
「何を忘れたんですか?言ってみてください」
堤下はがんと譲らずこちらを睨んでいる。
「―――わかったよ!」
業を煮やして蜂谷は頷いた。
「俺が親父に会って、直接言えばいいんだろうが!伝言も出来ないのかよ、鳩以下だな、てめえは!」
言うと堤下は、今まで表向き従順に従っていた蜂谷の態度に少し驚いたような顔をして、こちらを見下ろした。
無視してその脇を通り過ぎ、乱暴にドアを開ける。
小間使い達が一斉に頭を下げる中、書斎に行くためサーキュラー階段に足をかける。
――クソ。こんなことしてる場合じゃないのに……!
20段の階段がやけに長く感じる。
――もし最悪、右京が多川に攫われてたら。
多川の事務所で見た、白い尻を思い出す。
――今頃あいつも、あのガキみたいに―――!
奥歯を噛みしめながら書斎のドアをノックする。
「―――入れ」
勇人の低く厳格な声に一瞬怯みそうになる。
「失礼します…!」
蜂谷は自分を奮い立たせるように声を張ると、その扉を開けた。
「え」
「………あ」
「……はぁ!?」
「お、おかえり!蜂谷……」
そこにはロータイプのソファーに窮屈そうに足を揃えて座る右京の姿があった。
◆◆◆◆◆
路上でいきなりワゴン車に引きずり込まれた右京は、必死で自分を拘束している男たちを振り返った。
嫌でも学園祭の記憶が蘇る。
―――またあいつらか?永月のやつ……性懲りもなく……。
「――――?」
しかし見るからに上等なスーツを着ている男たちは仮面もつけていない。
車が走り出すや否や、右京の拘束を解き、制服についた埃を掃い、3列目の座席に座らせると、丁寧にシートベルトを締めた。
「手荒な真似をして申し訳ありません。右京賢吾君」
スーツの襟を正しながら隣に座る、目の細い神経質そうな男が話し出す。
「私は株式会社蜂谷創芸グループ、本社直営部、第二秘書課の堤下と申します」
―――蜂谷創芸グループ……?
「蜂谷んとこの……?」
右京が堤下と名乗った男を指さすと、彼は静かに右京の指を下げながら、「いかにも」と頷いた。
「当然のことながらあなたに危害を加えるつもりはありません。圭人君のお父様であり、蜂谷創芸の社長でもある勇人様より、あなたに二、三質問したいことがあるということで、お迎えに上がった次第です」
「―――お迎えって感じじゃねえけどな…」
右京は堤下と、2列目に姿勢よく座ったままこちらを振り返ろうともしない男2人を順に睨んだ。
「あなたをお連れするのは秘密裏にする必要がありました。ご了承ください」
「なんで?」
聞き返すと、堤下は目を伏せ首を横に振った。
「私の口からは申し上げられません。あとは勇人様に直接伺ってください」
「――――」
右京が眉間に皺を寄せていると、
「あ、つかぬことをお伺いしますが」
堤下は右京を見つめた。
「今日のご予定は大丈夫ですか?」
「…………」
右京はその大真面目な顔を睨んだ。
「順序が逆だよ、逆!」
その鉄仮面でも被ったような顔をもう一度睨むと、右京は腕を組みワゴン車のシートの身体を埋めた。
それにしても―――。
蜂谷の父親か。
もしかしたらここで、蜂谷のルーツが解明できるかもしれない。
そして―――。
あいつがなぜ死ぬつもりなのかということも………。
◇◇◇◇◇
「ねえ。これ、何かの冗談?」
「いえ。冗談は好きではないので」
堤下は右京を見下ろしながら言った。
「だって……だって……!」
右京は優に300坪は超える豪邸を見上げた。
「でかすぎだろ…!!」
「そうですか?」
堤下は右京の前を歩き出した。
駐車場を抜けると、庭には一面綺麗な芝生が敷き詰められ、その中心にテラコッタ風のレンガタイルが敷き詰められていた。
カツンカツンと堤下の革靴の音が、小気味よく響く。
「右京君の家だって大きいじゃありませんか」
堤下が口を開く。
「―――俺の家?」
右京はその後に続きながら目を細めた。
「団地ね?公営住宅だからね?5階建て40戸入ってれば、そりゃあね?って冗談きついだろ!」
言うと、堤下は足を止め、振り返った。
「―――いえ、私が言っているのは、山形のご実家の話です」
「―――!!」
右京の足も止まる。
「申し訳ありませんが、勇人様のご意向で、少しばかりあなたのことを調べさせていただきました。随分と辛い思いをされましたね」
「――――」
堤下は視線を前方に戻すと、左右の芝生が強風に揺れるレンガの道を、また歩き出した。
「………そのことって」
右京が言うと、堤下は再び足を止めた。
「………蜂谷は知らないよな?」
言うと、堤下は右京を見下ろして言った。
「坊ちゃんは知らないと思います。私たちからあなたの話題を振ったことはないので。ご希望であれば今後もこのことについては黙っています」
言いながらまた革靴の音を響かせて歩き出した。
「……坊ちゃんってナリかよ、あいつが」
思わず呟くと、
「同感です」
帰ってきた言葉に右京は笑ったが、堤下はもう振り返らなかった。
◇◇◇◇◇
「勇人様は書斎にいらっしゃいますので」
堤下の案内で、ドラマにでも出てきそうなアイアン調の階段を上ると、廊下の左側に部屋が並んでいた。
それぞれの部屋に木彫りの札が掛かっている。
【RYUNOSUKE】
リューノスケ?
そうか。あいつには弟がいたんだった。
【KEITO】
「…………」
その文字を見ると、胸のあたりがざわついた。
「こちらです」
堤下が一番奥の部屋の前で振り返った。
「―――勇人様には、必要最低限のあなたの情報しかお伝えしていません」
「………?」
右京は大きい目を見開いた。
「つまりはあなたのご家族を襲った事件や、その後のあなたの動向なども報告しておりません」
「―――――」
「質問されたことにのみ、お答えください」
言うと堤下は目を伏せてドアに向き直った。
ドアが静かにノックされる。
「堤下です」
言うと中から、
「入れ」
低く太い声が聞こえた。
堤下はこちらを振り返り、小さく頷くと、先導して中に入っていった。
―――これが、蜂谷の親父……。
右京はポロシャツにスラックス姿で、まるでこれからゴルフにでも出かけるような男を見上げた。
「やあ、右京賢吾君。初めまして」
彼はハキハキとそう言うと、ニッコリと笑った。