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「アホ!!」
紫雨の平手打ちが頭に落ちてきて、由樹は危うくデスクに顎をぶつけるところだった。
「住宅ローンの事前申請に必要な書類に『源泉徴収票』と『本人確認書類』が抜けてるだろうが!」
「う。すみません」
「フラット35Sの条件は“省エネ”だろ!省エネ!!
短い期間で低い金利はフラット20Sだろうが!」
「申し訳ありません」
秋山は、由樹のデスクを叩きながら、どんどん口が悪く変貌していく紫雨を頬杖をつきながら見ていた。
隣の席では、うるさい2人に迷惑そうな林がチラチラとこちらをみてくる。
(う。これはこれで……)
紫雨の細くて白い首元を盗み見る。
(スパルタだ……)
そのスパルタ指導の合間に「ちっ。なんで俺が…」の呟きが入るのがまた怖い。
由樹は紫雨に気づかれないように壁時計を見上げた。
「そろそろ帰んなくて大丈夫?明日の準備とかない?」
秋山が気を利かせて由樹に声を掛けた。
「ないです!」
由樹の代わりに隣の紫雨が答える。
「明日は新谷君、打ち合わせとかないんで」
(……う。なんでそのことを…)
「だよね?設計長のスケジュール見たから」
勝ち誇ったようにこちらを見ると、紫雨はまた違う問題が書かれた紙をデスクに置いた。
「はい。今度は10分で解いてね。よーい、どん」
瑕疵担保責任
つなぎ融資
団体信用生命保険
由樹は鉛筆を掴むと、初めて見る漢字が並ぶ紙を見てため息をついた。
結局紫雨に解放されたのは、夜の10時を過ぎてからだった。
「明日まで完璧にしてこいよ」
「あ、ありがとうございました」
とっくに秋山以外の社員が帰った事務所で紫雨はやはりヴィトンのバックを肩にかけて立ち上がった。
「秋山さん、それじゃあ、お疲れ様です」
言いながら彼が頭を下げると、秋山はディスプレイから目を離さないまま、
「お疲れー、明日も頼むねー」
と間延びした声で答えた。
紫雨はお辞儀をすると、事務所の出口から出ていった。
(はあ。なんとか終わった)
息を吐いたところで由樹は目を見開いた。
(明日まで?!明日も頼むね?)
「あの、明日も、ですか?!」
言うと秋山はちらりとこちらを見たが、興味のないようにまた視線を落とした。
「うん。そうだよ」
「……え、なんでですか?」
「君、今日接客してないじゃない。1件も。だからだよ」
(確かに……)
由樹は気づかれないようにため息をつくと、自分もバッグを手繰り寄せた。
再度時計を見上げる。
必ず時庭展示場に帰ること、とは言われているが……。
(もう誰もいないだろうな)
暗い気持ちになりながら、秋山に頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「うん、お疲れ」
緊張でくたくたになった体に鞭を打って、革靴を取り出すと、秋山が独り言のように呟いた。
すると、
「あれ、篠崎からメールが返ってきた。まだ展示場にいるんだな」
「……!!」
由樹は慌てて靴をつっかけると、そのまま外に飛び出した。
時庭展示所の駐車場には、篠崎のアウディしか残っていなかった。
その脇に車を滑り込ませると、由樹はセゾンエスペースの展示場まで走った。
たった1日しか離れていなかったのに、ひどく懐かしく感じる赤煉瓦の事務所に続く階段を駆け上がると、ドアを開け放った。
とデスクに肘をつきディスプレイを見つめていた篠崎が顔を上げた。
「……お疲れ」
その顔を見たら、なんだか泣きそうになってきた。
「お、お疲れ様です……」
由樹がやっとのことで言うと、篠崎はふっとどこか悲しそうに微笑んだ。
椅子に座ったまま方向を変えると、シンクにあった由樹のカップをコーヒーメーカーに突っ込んでいる。
「お前、今日は1件も接客させてもらえなかったんだってなぁ?」
「あ、はい……」
自分だけならまだしも、指導係である篠崎の顔にまで泥を塗ってしまったことに、罪悪感を覚える。
「なんか、すみません」
「謝んなよ」
篠崎は笑いながらカップを由樹のデスクに置いた。
お礼を言ってそのカップを両手で包む。
(あ……ホッとする)
目を細めると、その頭に大きな手が降ってきた。
「弱ってんなぁ。大丈夫だって」
篠崎は笑った。
「知識不足なのは当たり前。まだ入社して4ヶ月なんだから。その代わり勉強することだらけで楽しいだろ」
由樹は振り返った。
そこには今まで向けられたことのない優しい笑顔があった。
「………!」
一気に鼓動が高まる。
(う、や、ヤバい………油断した……!最近は意識して、篠崎さんを意識しないという技を習得しかけていたのに!)
「……紫雨には紫雨の指導方法があるだろうけど、お前はこれからも自分の良さを忘れずにやれよ」
「はい!」
焦った感情をごまかすように元気よく答えてから、違和感にふと気が付いた。
「篠崎さん、それって、もしかして………」
恐る恐るその顔を覗く。
(俺の勘違いだよね?そうでしょ、篠崎さん…)
胸の前で軽く手を組む。
「新谷。お前を来月から正式に、天賀谷展示場に移そうと思う」
時間が静止した。
手の中のコップが温度を無くした。
目の前の篠崎が、霞んで見えた。
「……理由を、聞いてもいいですか」
長い沈黙の後、新谷は目を伏せたまま言った。
(まあ。そうだよな……)
篠崎は少し椅子を引き、新谷にまっすぐに向き直ってから彼の不安そうに震える睫毛を見つめた。
「年間新規獲得数なんだけど」
言いながらデスクの上の資料を取った。
それを新谷のデスクにそっと置く。
「これが天賀谷展示場。そしてこっちが時庭展示場の数だ」
新谷はそれに素早く目を走らせている。
「明らかにこっちの展示場が少ない。そして4月にお前が入り、5月に展示場デビューしてから、もちろんお前も新規を相手にしているため一人当たりの数が減っている」
「……はい」
新谷は何も悪くないのに、さも自分が悪いように眉毛を下げた。
「今回、静岡にある本社から時庭展示場にチェックが入った。来場数に比べて営業の数が多いということだ。そしてセゾンエスペースの時庭撤退も視野にWebでの話し合いが持たれた」
「はい」
「結論としては、元の人数に戻して、数年様子を見ることになった。他の住宅メーカーが入り、ハウジングプラザ自体が盛り上がるという可能性もないわけではないからだ。問題は誰が移るか、ということだが……」
(狡いな。話の持っていき方が狡い)
自分で自覚しながらも、新谷の瞳を見つめた。
「天賀谷展示場は、紫雨が中心になって動いている。実働的なところもそうだが……なんというか、良くも悪くもみんな紫雨の言いなりなんだ」
「それは、感じました」
新谷が小さく頷く。
「つまりは紫雨とうまくやっていけない人物は、あの展示場でやっていけない」
篠崎は入社間もない、自分より7つも年下の新入社員に甘えなければいけない罪悪感で、胸に鋭い痛みを覚えた。
「ナベは、紫雨とうまくやれない」
そこでやっと新谷は視線を上げた。
本来なら紫雨にあんなにひどい目にあわされた新谷こそ、天賀谷にはやれない。
しかし彼には“人を変える”力がある。
お客さんを変えたように、
土地主を変えたように、
鉄仮面の設計長を変えたように、
そして新人嫌いのマネージャーを変えたように、
彼なら、天賀谷展示場の癌と呼ばれるあの男を、変えることができるかもしれない。
そして……。
実は本部から出された条件はもう1つあった。
それは時庭展示場の年間契約数が25件以上であること。
調子のよかった去年で篠崎が15棟。
残りは10棟だが、10と言えば、マネージャークラスの成績だ。現に室井マネージャーは、ここ何年も2桁の成績を出していない。
入社5年目の主任クラスの渡辺に売れる数字ではない。
現実的な数字で自分が18棟、渡辺が7棟。それでなんとか乗り切らなければいけない。
自分の時間がないばかりか、小松や仲田にも単独でお客様と打ち合わせを頼むなど、負担を一部背負わせることになるだろう。
そんなカオスな状態に、いろいろ勉強して吸収してかなきゃいけない新人の新谷を、巻き込むわけにはいかない。
「そういうことなら、わかりました」
新谷は少しだけ目を潤ませたが、最後は口角を上げた。
「もともと天賀谷展示場に配属になる予定だったのに、偶然こっちにこれて、篠崎さんや渡辺さんから指導していただいて、ラッキーでした」
新谷は笑顔を向けると、頭を下げた。
「残り1ヶ月間、よろしくお願いします!」
「ああ。こっちもな」
篠崎はすんなり言うことを聞いてくれた部下に安堵すると同時に、どこかで縋ってほしかったと思う自分の身勝手な感情に呆れて、ため息をついた。