「アホか、俺は」
謎のつぶやきを残して、上司は展示場の方へ消えていった。
そのドアが閉まると、林は小さく息をついた。
紫雨の様子がおかしい。
2ヶ月前からずっと。
林は目の前の、パソコンもペン立てもない、空っぽのデスクを見つめた。
彼が変わったのは、このデスクの持ち主だった男と、きっと無関係ではない。
「………」
何か思い悩んだ様子で展示場に一人で入って行ってしまった紫雨が気にはなる。
しかし自分が行ったらまた苛立たせてしまうだろうか。
なぜか最近、紫雨は林が話しかけるたびに嫌そうな顔をし、突き放すようなことを言う。
(きっと、去ってしまった彼と、残ってしまった俺を比べて、がっかりしているんだろうけど……)
自分が導き出した、おそらくは当たっているだろう結論に重いため息をつく。
振り向いて、棚からプレゼン用のファイルを取り出そうと引き出しを開く。
「……あ」
切らしていた。在庫は展示場の階段下の倉庫の中だ。
「………」
林は小さく息をつくと、立ち上がり、展示場のドアを開けた。
林が階段にたどり着くと、紫雨は展示場の鏡に向き合い、首に何かを塗っていた。
「…………」
話しかけることもできずにその後ろ姿を見ていると、鏡の中の紫雨と目があった。
「あんだよ」
やはり機嫌が悪い。
「……何を塗ってるんですか」
おそるおそる聞くと、
「コンシーラーだよ。お前が言ったんだろうが!」
紫雨が細いスティック状のそれを振って見せる。
「コンシーラー?」
「そ」
それを首に塗ると紫雨の2つのキスマークはたちまち肌色に染まり見えなくなった。
(……キスマーク隠しを常備してるってどうなの?この人)
「…………なんでそんなもん持ってんですか」
つい呆れた声が出る。
「展示場に置いてにあんの。別にキスマークじゃなくても、虫刺されとか、ワイシャツで擦れてとか、首元赤くなる時あるだろ。客が気づいたら、もうアプローチどころじゃないから。ここにおいてあんの」
言いながら洗面台の扉をトントンと叩いている。
「お前も使えよ。自由に。俺が買ったわけじゃないし」
「じゃあ、誰が買ったんですか?」
紫雨は振り返らないまま言った。
「……篠崎さん」
鏡の中の紫雨が一瞬、目を伏せたように見えた。
「あ、そういえば!」
紫雨は林を振り返った。
「来週だっけ?室井さんが新しく見つけてきたっていう外構業者の飲み会」
「そうです。火曜日の夜」
「酒、飲むのかな」
「まあこちらは接待される側ですからね…」
「だりい。接待ってさ、される方も疲れるよなー」
言いながら紫雨が手を頭の上で組む。
はだけたままの白い肌に、鎖骨が浮き上がる。
「…………」
林は思わず紫雨のその艶っぽい姿から目を逸らした。
「女いねぇといいな。女」
言いながら紫雨が脇を抜けていく。
「あ、お前にとっては女いたほうがいいか。そろそろいい相手見つけろよ。25歳で童貞とか笑えねぇから。非処女だけどな。はは」
「…………」
事務所に戻っていく茶色の髪の毛からは、普段彼が吸わない煙草の匂いがした。
時刻は20時を回っていた。
今年に入ってからろくに受注を上げていないので、打ち合わせも見積もり作りもない林は、業務自体がない。
今日も深夜まで残るのであろう紫雨に頭を下げながら展示場を後にすると、林は自分の車に乗り込んだ。
親から就職祝いに買ってもらったセダン型のハイブリッドカーは、この間車検を通したばかりだ。
構造現場見学や、完成現場見学会、お宅訪問などでは基本的に自分の車で案内するが、林がこの車にお客様を乗せたのは、数えるほどしかない。
(次この車にお客様を乗せるのはいつだろう………)
考えると、どんどん胸が重くなってくる。
ファーストコンタクトであるアプローチからアポイントを繋げて受注に結び付けないと、このままでは本当にペナルティどころか解雇になってしまう。
それを想像するとゾッとするが、今、何をしていいのかわからない。
焦れば焦るほど、表情が凍り付き、必死になればなるほど、言葉を選びすぎて話せなくなる。
その点……。
(……紫雨さんは、すごいよな…)
客を見て、すぐさま話題を選ぶことができる。
家族を見て、すぐにキーパーソンがわかる。
自分が客にどう映るのか、熟知している。
表情だけではない。スーツの着こなしも、組んだ手の指先も、足を開く幅も角度も、全て、だ。
360度どの角度からでも違和感なく、老若男女だれから見ても嫌味なく、完璧に好青年を演じきれる。
事務所に戻ってからは、足をデスクに投げ出し、毒舌のオンパレードなのに。
(……いやいや。天才と比べてどうする…)
そう。紫雨はきっと俗にいう天才なのだ。
あの色素の薄い金色の目で、瞬時に人と空気を読む才能がある。
しかし……。
脳裏に八尾首展示場に異動したもう一人のマネージャーが浮かぶ。
彼は努力の人だ。
前向きで誰からでも何もかもを吸収するスポンジ。
相手はきっと、年齢も経験も関係ない。
その分野に置いて、自分より上だと思えば謙虚にそのことを認め、吸収できる人間。
それが篠崎だ。
林が入社した時には、もうすでに時庭展示場に移っていたが、篠崎はちょくちょく打ち合わせだと天賀谷展示場にも顔を出していた。
「……新入社員?」
第一印象は、背が高くて目つきがきつくて怖い人。
何も悪いことはしてないはずなのに一発目で睨まれ、林は委縮した。
当時、知識的なことを教えてくれていた室井元マネージャーは、彼のことを、「新人嫌いで有名だから近づかない方がいいよ」とこっそり教えてくれた。
威圧感たっぷりの彼が現れると、当時は主任だった紫雨の機嫌が悪くなることも、よりいっそう林に苦手意識を植え付けた。
しかし……。
「“介護用バリアフリーの家”?」
デスクに偶然置いてあった書籍の一つを篠崎は手に取った。
「あ、はい。日常的な介護が必要な家で……」
「………」
篠崎は、林のデスクに軽く腰かけながら、その本をペラペラと捲った。
「んで?」
林は蛇に睨まれた蛙の如く、動けなくなってしまった。
「お前はこの本の何を参考に、家作りに反映させたの?」
紫雨とは対照的に色素の濃い目が、林を睨む。
必要はないのに、林は椅子から立ち上がると、スーッと息を吸った。
「自走式車椅子の規格は630mm以下、電動車椅子は700mm以下と決まってます。しかし自走式であれば、ハンドリムを回すために肘は本体よりはみ出ます。セゾンの廊下は900mmですが、理想的な車椅子使用時の廊下幅は1200mmだと言われています」
いつもは切れ長の鋭い目をしている篠崎が、直立不動で話し出した新人を眺めて目を丸くした。
「もし将来的にリクライニング車椅子になったとすれば、倒した状態での全長は1800mmを越えるので、導線にクランクがあると通れません。寝室、リビング、トイレなどの導線は直線の廊下、あるいは部屋をぶっ通しての直線じゃなければいけません。
その際、和室を通るのであれば、い草はタイヤで傷んでしまうので、樹脂製の畳が必須となってきます」
話し続ける林を見て、篠崎はデスクから降りた。
「そのことを設計と、お客様と、作業療法士、訪問看護師に混ざってもらい、話し合いで決めているところです」
そこまで一気に言った林は、苦しくなって大きく息を吸った。
「……ふっ」
篠崎が笑った。
「すげえな、お前」
言いながらその本を改めて見つめ、その後、林の頭をポンポンと叩いた。
「たくさん勉強したんだなぁ」
(褒められた……?)
その笑顔に林は胸が熱くなるのを感じた。
「お前、名前なんだっけ?」
「あっ。林です」
「林。この本、俺にも貸してよ。今まさに介護が必要な婆ちゃんの家、打合せに入るところだから」
「ど、どうぞ。こちらはもうだいたい間取り決まったので…」
林は顔を赤くしながら頷いた。
「サンキューな」
篠崎は本を片手に笑顔で去っていった。
そして彼と設計の小松がデザインした家の間取りが、セゾンエスペースで毎年開催されるコンテストの介護向け住宅部門で大賞を取った。
「お前のおかげだよ」
林よりも何倍も何十倍も勉強し、吸収したのであろう篠崎は、本を返しながら笑った。
そう言えば――――。
林はハイブリッドカーを駐車場に停めると、フロントガラスから見える星空を見上げた。
あの直後だった。
紫雨から初めて呼び出されたのは……。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!