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コンコン。
「どうぞ」
学術院の自室で支度を終えたパトリシアは、相手がルカだと思い、返事をした。大体この時間に、部屋に来るのはルカしかいなったのだから、当然の判断だった。
けれど、疑うことなく入ってきた人物を見て、何故か互いに顔をしかめた。
目の前にある鏡に映る自分の姿に似ている上に、表情まで同じになるなんて、と思いながらパトリシアは、椅子から立ち上がった。
「どうかしたの、こんな朝早くから訪ねてくるなんて、珍しくて驚いてしまったわ」
「それはこっちの台詞だ。なんで制服を着ているんだ。ジャネットから頼まれていた、調べものは終わったのか」
マーカスという、予想外の人物の登場に、パトリシアの表情がそうなるのは可笑しくなかった。
けれど、部家の中にいるのが誰だか分かって訪問しておきながら、あんな顔をした理由が、まさか制服姿だったとは思わず、パトリシアはさらに驚いた。
「もう! 第一声から酷いのではなくって。私が制服を着ているのが、そんなに面白くないのかしら。それから、挨拶くらいしてほしいものだわ」
鏡台から離れたパトリシアは、マーカスに近づきながら言った。
「そういう面倒な挨拶をする間柄でもないだろう、俺たちは。そもそもパトリシアの調べものは、急を要する上に、量が多い。そんな悠長に、授業を受けている時間はないと思うが」
相変わらず弟なのに、偉そうな態度に、冷たい口調。その上こっちの言い分に、耳を傾けてもくれない。邸宅にいた頃は、そんな風になってしまったマーカスに戸惑い、慣れずに避けたこともあった。
幼い頃はそうではなかったのに、今のようになってしまったのは、兄のアイザックと両親が十中八区、原因だと思っていた。しかし、それだけが原因ではなかったことが分かると、多少は怖く感じなくなっていった。
理由を知ったのは、アンリエッタと交流し始めてからだった。マーカスが心を開いていることもあり、自然と私も、取り繕うような態度はしなかった。私の事情も知っていたから、というのもあるけれど。
共通の話題が、マーカスであることも、また知る要因になった。これは飽く迄も、アンリエッタの憶測でしかないが、どうやら容姿を気にして、そんな態度をしているようだ、と教えてくれた。
昔から、容姿のことでからかわれると、容赦なかったから、あながち間違いではないと思う。似た服は着させられていたが、スカートは必ず拒否していたからだ。
それを通してみると、マーカスが昔と変わらないように思えてきたのだ。けれど、自身に接するパトリシアの態度が昔のようになっても、マーカスは相変わらずそのまま変わることはなかった。少し残念に思ったのは、言うまでもない。
「わざわざ朝から訪ねて来たのは、それが心配だったから、私の進捗状況を聞きに来た、ということで合っているかしら」
「まぁ、そうだな。けど、俺の四つの用事の内、一つしか合っていない」
「……四つもあるなんて聞いていないし、知らないわ」
とりあえず、話の内容から、すぐに帰るわけではないと判断したパトリシアは、マーカスに椅子を勧めた。
「アンリエッタなら、残りの三つを当てようとするけどな」
「姉に恋人と同じ反応を求めないで」
突然何を言い出すのかしら、この子は。
パトリシアが引いた目で言うと、逆に怪訝な顔をされた。
「そういう意味で言ったんじゃない。ただ、やっぱり俺には貴族の令嬢は合わないな、と思っただけだ」
あっ、と思わず口元に手が伸びた。
二年前、つまりマーカスが十七歳の時。いくら次男でも、侯爵家の人間である以上、婚約者がいても可笑しくはない年齢だった。釣書もいくつか来ていたと、メイドたちが噂をしていたのも耳にしていた。
けれど、マーカスは全く興味がないらしく、全て袖にしていたらしい。あらぬ噂が立つのではないかと、心配したくらいだった。中性的な容姿なだけに、女性に興味がないのかと思われたら大変である。逆に男性が寄ってきたら、と思ったこともあった。
「社交界では上手くやっていた、と聞いていたわよ」
「社交界は、な。色々な噂に足の引っ張り合いは、俺の性に合っていた。けど、令嬢たちとは一切合わなかったよ」
「だから、家を出たというの? 私を出しに使ってまでして」
貴族社会の本質には合うが、水は合わない、とでも言いたげなマーカスに、パトリシアは一歩踏み込んだ質問をした。今まで、時間を割いてくれなかったため、このような場が設けられず、聞きたくとも聞けなかった質問だった。
他人から、マーカスがギラーテに来た事情を聞いた。が、どうしても腑に落ちなった。
邸宅にいた頃から私のことなど、さして興味がなさそうにしていたからだ。そんな行動を起こすほど、大事に思われていた気がしなかったのだ。
いや、邸宅にいた家族から使用人たちまで、まるで腫れ物に触るような扱いをしていた。それはマーカスも、例外じゃなかった。
「きっかけは、そうだった。今思うと、あの時は家を出られるのなら、何だってよかったんだ」
「それを聞けて、安心したわ」
マーカスの人生を狂わせたわけじゃない。ただそれだけで、安堵した。
「銀竜の所まで行ったのは、好奇心だったが」
「そこは驚いているのよ。無事だったからいいものの、命の危険性まであったのだから」
「あの時は、死んでも構わない、と思っていたんだ」
それは、後継者問題のことを言っているのだ、と瞬時に判断した。
マーカスの年齢が上がってくると、アイザックよりもマーカスを押す者が多くなっていた。傍系の家門からは勿論のこと。マーシェルの王族に近いザヴェル家は、後継者問題に王族も関与することもあり、それらがマーカスを推薦するような、ニュアンスを見せていた。だが、アイザックが手を回していたため、表立ってはしていなかった。
侯爵になろうとする意志がマーカスになかっただけで、仮にあったとしたら、アイザックなど手も足も出なかっただろう。だからアイザックは、マーカスの気持ちが変わるのを恐れた。
暗殺者を仕向けたり、毒殺しようとしたりしてきたのだ。パトリシアもまた、マーカスと間違われて、危険に晒されることもあったので、事情をよく知っていた。
「邸宅の空気が悪かったのは、俺のせいでもあったからな」
「そんなこと、思わないで。いつも空気を悪くしていたのは、私だったじゃない」
気にしないで、と言いたかったが、気休めにしかならない故、口には出さなかった。
責任を感じて家を出た、マーカス。けれど、私と同じで、出ても目的がなかったから、とりあえず理由を作って行動したのだろう。それが、例え危険なことであっても、構わなかったほどに。
「……マーカスはこのまま、家には帰らないの?」
「帰る意味がない」
「でも、アンリエッタさんは? カラリッド家から、養女の話が出ているのであれば、帰る方が得策ではなくて」
カラリッド家も侯爵だ。身分としても釣り合う。わざわざマーカスが、平民にならなくても良いのではないだろうか。
「言葉を間違えるな。向こうが勝手に考えているだけだ。それに、アンリエッタにそんな意思はない」
「確認、したの?」
アンリエッタには手紙で、マーカスに聞いてほしいと書いたが、あれから返事をもらっていなかった。
「あぁ、誰かさんのお陰でな」
そう言うと、マーカスは懐から一通の手紙を、二人の間にあるテーブルに置いた。誰から、は言わずとも分かった。アンリエッタだ。
「読まないのか」
「今、ここで読むの?」
まさか、そこまで強要するわけではないだろうと思ったが、マーカスは平然と頷いた。
「中、読んだの?」
「そこまでデリカシーのないことはしないよ」
笑顔で返された。とても胡散臭くて、手紙の表裏を確認して、開封されたかどうかの痕跡を、思わず探した。そして、恐る恐る聞いた。
「何が知りたいの?」
「とりあえず、アンリエッタの愚痴かな」
本当に何を言っているの、この子は。
思わず呆気に取られてしまった。
惚気なら、他所でやって。それとも、気になるほどのことを、アンリエッタにやってしまったのかしら。
「なら、余計ここでは読めないわ。それに、愚痴だっていうなら、ちゃんと謝れば済むことではなくて」
「……」
「アンリエッタさんに、ちゃんとカラリッド家のことは、話したのでしょう」
目を逸らすマーカスに、尚もパトリシアは言った。
「誰かさんが、余計なことを吹き込んだせいでな」
「あれはアンリエッタさんにも、聞く権利があったものよ。それをマーカスが、それこそ何の権限もなしに、秘密にしていただけだわ。だからこれも、教えない。いいわね」
手紙を上げて、マーカスに笑って見せた。何だか、姉っぽくていいわ。
「じゃ、もう一つの用件。いつから護衛なんて付けたんだ」
言い争っても、望むものが得られないと思ったのか、マーカスはすぐさま話題を変えた。その話題が、あまりにも今更な質問に驚いた。けれど、マーカスの真面目な顔から、取って付けた質問ではないことが窺えた。
「マーカスが手紙を寄越してから間もなくよ」
「最近か。よく許したな」
「私が頼み込んだのよ」
パトリシアはマーカスにルカとの出会いを話した。
考えてみると、いつも私の傍にルカがいたため、聞くに聞けなかったのだと、話をしている内に、気がついた。が、それはどうやら杞憂だったことを知ったのは、すべて話終えた後だった。何故なら、マーカスが突然、
「もういいぞ」
目の前にいるパトリシアに言ったのではない、と分かる言葉を発したからだ。そして、それを合図に開く扉。
「気づいていらしたんですね」
「立ち聞きするくらいなら、堂々と入ってこられた方が、まだマシだと思っただけだ」
ルカは決まりが悪そうに、パトリシアの傍に行った。
「ルカがいると分かっていて、話を振ったの?」
「用件の一つだと言っただろう」
「それで、もう一つは何なの?」
パトリシアは急いで話題を変えた。アンリエッタからの手紙で、マーカスがあまりルカをよく思っていないことを教えてもらっていたからだ。
調べものの確認、アンリエッタの手紙、それからルカのこと。用件は四つと言っていたことから、まだあると踏んで尋ねた。
マーカスが立ち上がり、咄嗟にルカを庇うように、パトリシアも立ち上がった。しかし、マーカスは気にしない様子で、パトリシアの机の方へ向かって歩いていった。
「パトリシアの報告も含めて、ジャネットと連絡を取りたい」
「マーカスの方も、調べは終わったの?」
「ある程度は。それと並行して、カラリッド家への策を考えついた。これを通してくれるなら、ジャネットの協力が必要になる」
頼もしいはずの言葉なのに、パトリシアは何故か気の毒になった。
マーカスにではなく、目をつけられてしまった、カラリッド家に対してだ。向こうからちょっかいをかけてきたのだから、自業自得とも言える。同情する必要もないのに、そう思えるほどの笑みを、マーカスは浮かべていた。
一体、何を考えついたのか、後で聞くことになるのだから、今は聞かないでおこう。敢えて聞くのも、怖いから。
「そう、なの」
パトリシアはそう言うと、机の前の椅子に座り、通信魔導具の準備をし始めた。