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夜になると、くらげがやってくる。
いつも、眠りの森から追い出されたように、ふと目が覚める。カーテン越しに見える暗い空や、闇の中で微かに光る時計の針の位置を確認して、まだ真夜中だと悟る。
ああ、また起きちゃった、と思う。
世界は静まり返っていて、家の中も耳がきいんと痛くなるほど静かで、私はまるで夜の遊園地にひとり取り残された子どものように、膝を抱えて天井を見上げる。
するととたんに、生温い薄闇の中から、次々にくらげが生まれ、何千、何万という大群になって、津波のように一気にこちらへ押し寄せてくる。
瞬く間に私の身体は、透明のゼリーみたいなぶよぶよの物体に包まれ、もちろん顔にも何十匹ものくらげが貼り付いて、身動きもとれず声も出せず、それどころか呼吸さえできないような、そんな気持ちになる。
息が苦しくて、本当に苦しくて、私は反射的に胸元に手をやり、ぎゅっとつねる。左右の鎖骨の間の、少し下のあたり。
空洞が、そこにある。
それを、服の上から爪を立てて、強くつねる。
子どものころから続く儀式みたいなものだ。そうすると少しだけ、息苦しさがましになるような気がするのだ。
酸素を求めて喘ぐような浅い呼吸を繰り返しているうちに、ふと、窓辺の黒猫と目が合った。
あの記憶が甦ってくる。
私はふらりと立ち上がり、黒猫の前に立った。空洞をつねっていた指の力を緩め、色褪せてしまった小さな頭をそっと撫でる。
目を閉じて、瞼の裏で記憶をなぞる。もう何度も何度も、擦りきれるほどに思い返している記憶。
そして、『秘密のおまじない』を心の中で唱える。
深呼吸して、とんとんとん。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。目を瞑ったまま、軽く握った手でかたわらの机に触れ、そっとノックをするように三回叩く。
悪いことが起こりませんように。何もかもうまくいきますように。たくさんの幸せが訪れますように。大丈夫、大丈夫。もう何も怖くない。
もう何百回、何千回と繰り返してきたから、おまじないの言葉は、まるで息をするようにすらすらと出てくる。
こんなおまじない、効果なんてない。祈りも励ましも、意味なんてない。
そう分かっているのに、気がつくと私はいつも、誰もいない部屋の片隅で、ひとり机を叩いている。
深呼吸して、とんとんとん。深呼吸してとんとんとん。
静かすぎる暗闇に響く柔らかい音の余韻に包まれて、私はまた浅い眠りについた。