一家団欒(?)を終えた宗介と果林は自宅(社宅)に戻った。
「お疲れさま」
「はい、社長と奥様にお会いするなんて思ってもみませんでしたから」
「父さんと母さんね」
「お父様とお母様ですか」
「そうです、それが良いですね」
宗介は何気に嬉しそうでいつもに増してご機嫌だった。
「果林さん」
「はい、なんでしょうか」
靴を脱ぎながら顔を上げると神妙な面持ちの宗介が果林を見下ろしていた。どうした、なにか不出際でもあったのかと姿勢を正すと微妙な間合と改まった口調で「シャワーを終えたらリビングに集合」と言われた。
「集合とは残業という事でしょうか」
「そうとも言います」
「分かりました、なるべく早く迅速に準備します!」
「いや、それは大丈夫です。私も心の準備をしますから」
「ーーーーーは?」
「いえ、なんでもありません、残業ですがいつもの部屋着で集合です」
いつもの部屋着とはジェラートピケというブランドで取り扱われている手触りの良いパイル生地の7部袖、ハーフパンツにうさぎの耳フード付きの部屋着の事だ。
(あれ、可愛すぎるから恥ずかしいんだよなぁ)
宗介の趣味全開の部屋着は秘書が選んで購入して来た物だと聞いた。秘書の手を煩わせてまで「着用を命ず」と言われれば着るしかないだろう。
「無駄遣いはしないで下さいね!」
「ーーーーはい」
1ヶ月前にそう約束したがそれはすぐに反故された。例えば洗面所に置いてある無印良品の洗顔料の残りが少なくなって来ると翌日には新品の洗顔料が買い足されている。家賃不要、光熱費なし、食事実質無料、お陰で果林の給料は手付かずのまま銀行口座に眠っている。果林が髪を乾かしてリビングに行くと天井のシーリングライトは消され窓際や観葉植物脇の間接照明がオレンジ色の仄かな明かりを灯していた。
「お待たせしました」
黒いTシャツとハーフパンツの宗介はリビングカーペットで胡座を掻き、リビングテーブルには赤ワインとグラスが2つ置かれていた。日頃から物静かだが今夜はなにやら緊張感が漂っている。
(ーーーど、どんな残業)
果林は唾を飲み込んだ。
「果林さん、座って下さい」
「はい」
果林がリビングテーブルからやや離れて正座するとそれでは書類が見えないので近くに来るようにと指示された。
「遠いです」
果林がテーブルの脇に座ると今度は正座ではなく足を崩す様にと指示された。
(ーーーな、なんなんだ)
「はい、果林さん。お疲れ様です」
「あっ、私が注ぎます!」
「私に注がせて下さい」
縁の薄い上品なワイングラスに注がれる深紅は芳醇な香りを漂わせた。
「果林さん、お店の名前が決まりました」
「決まったんですか!」
「はい、フランス語で|Apaiser《アペゼ》」
「|Apaiser《アペゼ》」
「癒し、という意味です」
「|Apaiser《アペゼ》、癒しですか」
「はい、コンセプトに合わせて幾つかの候補から絞りました」
「素敵な響きですね」
「そう言って頂けると嬉しいです」
なるほど、残業とはこの事だったのか、それならば明日の就業中でも良かったのでは無いかと思ったがこの雰囲気を楽しみたかったのかもしれない。
「ーーーーえ」
宗介はいつにない早さでワインを飲み干しグラスに注いだ。
「宗介さん、大丈夫ですか」
「はい」
「飲むペース、早くないですか」
「はい」
2杯目を飲み干すと|Apaiser《アペゼ》の図面を取り出してリビングテーブルの上に広げた。手には赤鉛筆を握っていた。
宗介は|Apaiser《アペゼ》の図面を果林に見せ、|欅《けやき》の樹の端に丸を付けて赤く塗り潰した。
「これが、なにか」
「ここにはカリンの木を植えようと思います」
「カリンの木ですか」
「果林さんがこの店のオーナー兼パティシエールになる記念樹です」
「良いんですか!?」
少し赤ら顔になった宗介は軽く頷いた。
「果林さんと私の木です」
「ああ、副社長の木ですね!」
宗介はその図面の上に赤鉛筆で何重もの円を書きながら髪の毛を弄った。
(照れてる?副社長の木で照れてる?)
「果林さん」
「はい」
「カリンの花言葉はご存知ですか?」
「花言葉には、疎くてーーー分かりません」
宗介はリビングテーブルに落としていた目を上げて果林を凝視した。薄い唇がゆっくりと動いた。
「カリンの花言葉は《《唯一の恋》》です」
「こ、い」
「はい」
「魚の」
「魚ではなくここの恋です」
その指先は果林と自身の胸を交互に指差した。果林の額と脇には汗が滲んだ。
(えーーと)
宗介は「木古内洋菓子店に突然現れたアルバイトの女性が店主の嫁だと知って肩を落とした」と言っていた。それは2年前の出来事で嫁とは果林の事だ。
(まさか2年前から?)
辻崎株式会社の土地買収に応じた木古内菓子店は辻崎ビル2階の|chez tsujisaki《しぇ つじさき》として営業を続け、それ以来毎日14:00になると宗介は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》に姿を現した。
《アフォガートはイタリアでは《《溺れる》》という意味だそうですよ》
宗介は果林にそう|囁《ささや》いた。
(あれはそういう意味だったの!?)
果林が慌てふためいていると宗介は立ち上がりチェストの引き出しを開けた。
「果林さん」
(これには見覚えがある)
婚姻届と印字された紙、薄茶の枠線の中には辻崎宗介の現住所、本籍、両親との続柄が丁寧な字で書き込まれ印鑑(たぶん実印)が捺されていた。証人欄も記入済みだ。
「こ、これはいつの間に」
「果林さんが離婚届を提出している隣の窓口で頂いて来ました」
確かに、用事があるからと隣の椅子に腰掛けていた。
「で、これを私にどうしろと」
「予約です」
「よ、やくですか」
「婚姻禁止期間100日の期限まであと2ヶ月です」
「そうなんですね、知りませんでした」
宗介は果林の両手を握った。大きくて熱い手だった。
「婚姻禁止期間が明けたら結婚して下さい!」
「け、血痕、あのサスペンス劇場で飛び散ったりする」
「その血痕ではありません」
左の手を開いた宗介は薬指を差した。
「結婚」
「はい」
「検討します」
「善処して下さい」
「はい、おやすみなさい」
果林はその紙を手に部屋へ戻ると力無くベッドへと倒れ込んだ。
(結婚、再婚かぁ)
宗介からの突然のプロポーズに面食らった果林は婚姻届を眺めながら溜め息を吐いた。
耳元で誰かが囁く。
《アフォガートはイタリアでは《《溺れる》》という意味だそうですよ》
穏やかで甘い低音それでいて少し掠れた語尾が口付けと共に首筋に絡みつく。果林は久方振りの人の重みに心地良さを感じていた。
果林さん
鼻先をくすぐるシダーウッドは宗介の体臭と相まって深い森の中で深呼吸をしているような湿った匂いに変わった。
宗介さん
果林はその指先を宗介の首筋に這わせ肩甲骨の窪みを撫でた。低い呻き声、そして熱をもった宗介の唇が果林の唇を深く覆った。絡み合う舌先は互いを舐め合い脳髄を貫く感覚は快感を伴って意識に|靄《もや》が掛かった。
果林さん、愛しています
ピピピピピピ
「ーーーそう、す、けってうわっ!」
携帯電話のアラーム音でベッドから飛び起きた果林は咄嗟に自身のパジャマが乱れていない事を確認した。布団を捲ってみたが宗介の姿は無かった。異常はない、異常があるとすれば果林の股間が湿っている事くらいだ。
(ヤダヤダヤダ、あんな事言うから!)
真剣な眼差しで薄い唇が呟いた《《唯一の恋》》、その場を寒い冗談で誤魔化してみたものの動悸は激しく頬は赤らんだ。
(あれは夢じゃないよね)
激しい行為の夢を見た身体は熱く|火照《ほて》った。見遣るとリビングテーブルには宗介の名前が書き込まれた婚姻届が広げられていた。
「これは夢じゃない」
もう一度パンティの中を確認した。
「これはお洗濯行きだな」
(やだ、もう)
果林はシャワールームで眠気と淫夢を洗い流し、バスタオルとパジャマに包んだパンティを洗濯機に放り込んだ。リビングルームでひと休み、ミネラルウォーターを飲んでいると宗介の部屋の扉が静かに開いた。
「あ、おはようございます」
ソファから背後を振り返るとやや前屈みな姿勢の宗介が微妙な表情で果林を凝視した。
「おはようございます」
「おはようございます、今からシャワーですか」
「は、はい」
「お洗濯物があるようでしたら洗濯機に入れて下さいね」
「は、はい」
宗介は小走りでシャワールームに向かった。
(変なの)
宗介のインナーと果林のパンティが仲良く洗濯機のドラムの中で絡み合っている。果林はそれを座り込んで眺めていた。いつの間にか洗濯物を一緒に洗うようになっていた。宗介が残業で遅い時はその間にリビングルームや宗介の部屋を掃除している。
(これって同棲生活ってやつよね)
宗介の手が果林に伸びた事は皆無、昨夜初めて手を握った一度きりの清く正しい同棲生活だが宗介の両親は2人が《《できている》》と思い込み宗介からは「予約です」と婚姻届を手渡された。
(これは一考の余地も無いという状況なのでは)
珈琲を淹れる香りが漂うリビングには朝の日差しを浴びて目を細める宗介の姿があった。整った面立ち、背筋も伸び上背もある、学歴は知らないが辻崎株式会社の副社長でゆくゆくは社長となる。
(それに)
果林は手を広げて1本、2本と指折り数えた。
1、側にいても苦痛じゃない(手を握っても嫌じゃ無かった)
2、言葉使いが優しい
3、気性は穏やか
4、イケメン
5、仕事が出来る(家柄が良い金持ち)
(プロポーズを断る理由が見つからない)
「果林さん、珈琲が入りましたよ」
「はーい」
日曜日の朝はゆったりと珈琲を飲みながら録画したニュース番組を見て昼には2人で金沢駅に買い物に出掛ける。
(もう、断る意味なくね?)
果林は宗介の横顔を見上げ、宗介は果林に「なんですか」と優しく微笑んだ。
果林は鏡の中で髪を纏めハーフアップに掻き上げて|後毛《おくれげ》をヘアワックスで整えた。口紅は宗介から贈られた小町紅を塗る。|chez tsujisaki《しぇ つじさき》に勤務していた頃は飲食店という事で薄く一筆程度だったが、今では丁寧に重ね付けした紅色の唇と25歳相応の女性らしい雰囲気に様変わりし男性社員が振り返る程に垢抜けた。
宗介はその変貌ぶりを喜ぶ反面、男性社員の果林へと向ける視線が面白くなく廊下では果林を壁際に押しやりその姿を隠すように歩いた。
「ちょっ、宗介さん歩き難いです」
「そうですか」
「少し離れて下さい、転んでしまいそうです」
「転びそうになった時は私が支えます」
「そんな意味では無くて」
ただ|Apaiser《アペゼ》の企画メンバーとは始終顔を突き合わす必要があり果林を壁際に隠す訳にはゆかなかった。宗介は眉間に皺を寄せながら果林に話し掛ける男性社員の背中を睨み付けた。
「副社長、なにかご意見がございますか」
「ない」
「背中に視線が痛いような、この壁紙がお気に召さないでしょうか」
「君の存在がお気に召さない」
「は、はぁ?」
|Apaiser《アペゼ》店内に使用する床材は果林の意見が取り上げられ|柞《いす》の木のフローリング、壁紙は白のキャンバス地、土壁は薄い黄土色を使用する事に決まった。テーブルや椅子は茶系で強度が高く衝撃に強い胡桃科のヒッコリーの木を加工した特別注文の物を|設《しつらえ》る事になった。
「重厚な感じで素敵ですね、宗介さん、あれ?」
果林が振り向くとそこに宗介の姿はなかった。
「あぁ副社長は他の業務があるからね」
「お忙しいんですね」
「いや、普通現場に顔を出す事は無いんだけどね」
「そうなんですか」
「珍しいよ」
どうやら宗介は他の業務を放棄して|Apaiser《アペゼ》の企画室に顔を出していたようだ。それも果林の顔見たさ、果林に《《悪い虫が付かないか》》気が気ではなく通い詰めていたらしい。そんな宗介が不在の折り、|Apaiser《アペゼ》の水回りの設備が|大方《おおかた》仕上がったとの連絡が入った。そこで|宇野《うの》が企画室のメンバーで店内の仕上がり具合を確認しに行こうと提案した。
「えっ、私も行って良いんですか!?」
「なに果林ちゃんは一度も現場に入った事ないの?」
「はい、宗介さんが危ないから駄目だと言って許可が降りませんでした」
「なんだあいつ果林ちゃんに甘すぎるだろう」
「はあ」
「行こうよ、もう店内の配線も天井も仕上がっているから問題ないよ」
「はい!」
果林はようやくあの|欅《けやき》の樹に対面出来るのだといそいそとヘルメットを被り宇野の背中の後に付いて2階への階段を降りた。然し乍ら、宇野は果林と元夫の和寿を会わせたく無いという宗介の思惑を知らなかった。和寿は|Apaiser《アペゼ》の工事現場を疎ましく思いながら現在も赤字すれすれの営業を続けていた。
(果林を連れ戻せば客も戻る!)
和寿はその一心で休憩時間や休日を利用して果林が勤めそうな近隣の洋菓子店を探し回っていた。
「うわぁ!」
|Apaiser《アペゼ》の壁や床はコンクリートが剥き出しのままだが照明の配線や庭園に出るガラス扉は既に設置されていた。出入り口はオープンテラス形式で折り畳み式の木枠の扉、ガラス面にはアメリカの70年代を彷彿とさせる|Apaiser《アペゼ》のロゴが入っていた。
「宇野さん、素敵ですね」
「なかなか良い雰囲気だね、|chez tsujisaki《しぇ つじさき》はビルの造りに合わせて無機質な印象だったからその分温かみがあるね」
「あの、その事なんですが」
果林は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》が今後如何なるのか尋ねてみた。聞いた話に依れば和寿はテナント料を3ヶ月滞納し経営状態も悪化、需要と供給が合致しておらず提供される焼き菓子や飲み物についても社員からの評判が好ましく無い。やむを得ず閉店を視野に入れているのだと言う。
「そんな」
「ああ、果林ちゃんは|chez tsujisaki《しぇ つじさき》で働いていたんだよね」
「はい」
「店が無くなるのは寂しい?」
果林にとって良い思い出などひとつもなかった。けれど|欅《けやき》の樹や|燕《つばめ》の巣が処分されるのではないかと思うと胸が痛んだ。
「あの樹は如何なるんでしょうか」
「あぁ、あれは残すみたいだよ。|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の店舗を撤去した後、あの場所はフリースペースとして解放するらしいから」
「そうなんですね、良かった」
「なに、あの樹になにか思い出でもあるの」
「はい、大切な思い出です」
果林の頬は赤らんだ。
「なーーに、気になるなぁ、教えてよ」
「内緒です」
宗介は毎日14:00になるとあの|欅《けやき》の樹を眺める席に座っていた。この2年間どんな思いで通い続けていたのだろう。
(こんな近くに幸せがあったんだ)
果林はアフォガートをオーダーしていた薄い唇を思い出した。
「宇野さん届きましたよ!」
スタッフの1人がコンテナを抱えて店内に入って来た。
「早いなぁ、カリンと名の付く物には手が早いんだよ」
「なにが早いんですか」
宇野は屈み込んで果林の耳元で囁いた。
「宗介、あんな顔して女には奥手なんだぜ」
「ーーーえっ」
「それがまぁ、果林ちゃんに関しては電光石火って感じ」
「で、んこうせっ」
「超ーーー早ぇって事だよ」
「そ、そうなんですね。で、なにが早いんですか」
果林が覗き込むとコンテナの中にはオリーブの苗木が何本も入っていた。
「庭園にオリーブも植えるんですか」
「他のビルからの目隠しにもなるからね」
果林はそこに見覚えのない苗木を見付けた。
「これはなんですか」
「これがカリンの苗木だよ、かなり急がせたみたいだよ」
「これがカリン」
「ピンク色の花が咲くんだとさ」
「実もなるんですか」
「そりゃあ、わっさわっさ」
コンテナの前に座り込んだ果林は宇野を仰ぎ見た。
「わっさわっさ、ですか」
「もう、ピンクになってさっさと実でも作ったら?」
「ーーーー!」
「宗介、38歳だからね、そろそろヤバいよぉ」
「ーーーーう、宇野さん!」
「なに」
「う、うしろ」
宇野の背後には眉間に皺を寄せた宗介が仁王立ちしていた。それまで調子の良かった宇野の顔は引き攣った。
「宇野!おまえなに勝手に果林をここに連れて来たんだ!」
気が動転した宗介は果林を思わず呼び捨てにし、宇野の襟元を掴み上げていた。宇野はその苦しさに顔を歪めた。
「なにってメンバーなら来るべきじゃないのか」
「ここに連れて来なかったのには理由があるんだよ!」
「理由ってなんだよ」
宗介は宇野と果林の顔を交互に見てその手を離した。この件に関しては果林の個人的な問題で宇野に打ち明ける必要は無い、また果林に和寿が自分を探し回っているという恐怖を味合わせたくなかった。
「すまん」
「おまえなぁ、果林ちゃんの事になると見境なさすぎるぞ。他の社員に示しが付かないんじゃないのか。そんなに心配なら現場から外せよ」
「すまん、気を付ける」
「頼むよ」
宇野は宗介の肩を叩くと「さぁ、メシだ飯、休憩な」と他のメンバーを急き立て|Apaiser《アペゼ》を後にした。残された果林と宗介は互いに気不味く青い芝生に目を落とした。
「呼び捨てにして申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です気にしないで下さい」
果林はコンテナを指差しながら「カリンは初めて見ました」と呟やき、宗介も「初めて見ました」と呟いた。
「この花言葉、なんでしたっけ」
果林は自分で話題を振っておきながら内心焦った。
(え、これ地雷じゃないの!?)
「唯一の恋です」
「あーーー、えーーーとそうでしたね!」
戯けて見せたが時既に遅し、宗介の眼差しは熱を帯びていた。
(えええええと)
「唯一の恋です、果林さん」
「はい、そうですか、そうですね」
果林はこの場所から脱兎のごとく逃げ出したい衝動に駆られていた。
「私が以前言った事を覚えていますか」
「ええーーとどの事でしょう」
(思い当たる事が多すぎて全然解りません!)
「小町紅」
「この口紅の事ですか」
「私にも付けて下さいとお願いしました」
「は、確かに」
宗介は少し屈むと果林の唇を人差し指で触れ、その紅を自身の唇に付けた。
「果林さん、良いですか」
「い、良いとは」
「私の唇に付けても良いでしょうか」
果林はその流れるような動作に唖然としながらも小さく頷いた。ゆっくりと近付いた体温が唇に触れ、しっとりとした温もりが名残惜しそうにそっと離れた。
(まつ毛、長いんだ)
2人の視線が絡まり果林の頬は色付いた。
「ありがとうございます」
「あ、はい」
「企画室に戻りましょうか」
「は、はい」
宗介の唇には淡い小町紅、果林の心臓は今にも破裂しそうに脈打った。
「ねぇ、和寿」
「なんだよ」
遅番の杉野恵美は和寿が泣いて喜ぶ場面を目撃してしまった。
「すごいもの見ちゃった」
連日、鼓膜を|騒《ざわ》めかせ感情を逆撫でする電気ドリルやチェーンソーの騒音。目障りな工事中の|Apaiser《アペゼ》の店の中を何気なく覗いた杉野恵美は屋外庭園に人影を見た。
(ーーーーまじ、嘘ぉぉ)
その2人はゆっくりと口付けをした。
「副社長、覚えてる?」
「果林を連れ出したあいつだろう!忘れるかよ!」
逆光の中でこちらを振り向いた男性は辻崎株式会社の副社長、そして副社長に肩を抱かれていたのは探し求めていた救いの女神、羽柴果林だった。
「灯台下暗しよ」
「トーダイモトクロスが如何だっていうんだよ」
「果林を見つけたわ」
「どっ、どこで!」
杉野恵美はフロアの真向かいに位置する|Apaiser《アペゼ》を指差した。
「まっ、まさか見間違いじゃないのか」
「間違える訳ないじゃない」
「本当か!」
「それがちょっとこ綺麗になってたわよ、副社長のコレみたいよ」
小指を突き立てると前後に動かした。
「そんな訳あるかよ!」
「ほらぁ、いつも14:00になったら楽しそうにお喋りしてたじゃなぁい?あの頃から出来てたのかもしれないわよ」
「えっ!」
「和寿、あなた浮気されてたのよ」
「許せねぇ!」
和寿はサロンエプロンを外すと床に叩き付けた。
「何処に住んでるんだ!」
「知らなぁい」
「くそ!」
「此処で見張っていればいつかは捕まえられるんじゃない?」
「くそ!」
ただこれまで闇雲に探し回っていた事を考えれば果林の行方に目星が付いた。和寿の口元は醜く歪んだ。その頃、社員食堂は騒めいていた。副社長が食券を買いその行列に並んでいる、隣には秘書としては地味な女性社員が並び談笑をしているではないか。
「副社長が来るなんて珍しいな」
「ランチA定食、意外と健康重視なんだな」
果林の存在を知らない部長以下の秘書たちは歯痒い思いで地団駄を踏んだ。
「宗介さん、視線が集まっていますが」
「気にする事はありません」
「無理、無理です」
「ならばあの窓際の席に座りましょう」
2人で注文したランチA定食は鯖の味噌煮と里芋の煮っ転がし、ひじきの和物に豆腐となめこの味噌汁だった。相変わらず宗介は綺麗に鯖の小骨を取り外している。育ちが良い証拠だ。
(んむーーーー)
焼き菓子と中華料理を作る事以外は不器用な果林は鯖の小骨に四苦八苦していた。すると宗介が皿に手を伸ばし「貸してごらん」と箸を付けた。
「ふっ、副社長がそんな!」
「気にしないで下さい」
「気に、気にします」
「はい、取れましたよ」
この勢いだと口角に味噌を付けたり頬に米粒を付けたりしようものなら指先で摘んで「ぱくっ」とされるのではないかと果林は戦々恐々とした。
(そうだ)
「宗介さん」
「なんでしょう」
「如何して私は|Apaiser《アペゼ》に行っちゃ駄目なんですか」
「それは」
「それは」
「それは和寿さんとお会いするのもなんでしょうから」
「あぁ、そんな事ですか!もう離婚しているので問題ないですよ!」
「そうでしょうか」
「はい!あぁ、なんだそんな事ですか!」
宗介は味噌汁の椀をトレーに置くと箸を揃えた。
「如何したんですか」
「頼む、行かないでくれ」
「でも私、|Apaiser《アペゼ》で働くんですよね」
「それまでには《《なんとかする》》」
そこで宗介の胸ポケットで携帯電話のバイブレーション音が響いた。
「失礼」
「あ、はい」
宗介は云々と頷き困った表情でため息を吐いた。
「申し訳ありません、急な来客で」
「あ、はい」
「これは」
「あ、トレーは片付けておきますね」
「ありがとう」
宗介は小さく手を振ると足早に社員食堂を後にした。
(副社長さんも大変なんだ)
ふとそこで果林はジャケットのポケットに入れていた小町紅のコンパクトが無い事に気が付いた。もう一度手を手を入れて確かめたがその感触が無い。
(ーーーえっ、落としちゃった!?)
思い当たるとすれば|Apaiser《アペゼ》の屋外庭園で屈み込んだ時に落としたその可能性が高かった。果林は慌てて食事を済ますと2階へと降りるエレベーターに乗った。