ぽーーーん
エレベーターの扉が開くと同時に果林は|欅《けやき》の太い幹に身を隠しながら2階フロアに足を踏み入れた。吹き抜けの天井から大理石の床を照らすライトが果林の影を映し出した。
(誰もいない)
|chez tsujisaki《しぇ つじさき》には以前の様な活気は無くショーケースの中の焼き菓子の種類も少なかった。そして菓子工房に和寿や杉野恵美の姿は無かった。
(ーーー如何したんだろう)
果林は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の現状を宇野から又聞きしたもののその逼迫感、また和寿が自分を店に連れ戻そうと躍起になっている事は知らされていなかった。
(コンパクト、見つかると良いなぁ)
|Apaiser《アペゼ》には照明が設置されておらず昼間でも薄暗い。
「お邪魔しまーーす」
果林は小声で扉を開けると殺風景なコンクリートを踏み締めた。企画室のメンバーと見学に来た時はそうでも無かったが誰も居ない店内は薄気味悪かった。暗闇に目が慣れて来た時、視界の端で何かが動いた。驚いた果林がそちらを振り向いたが配線コードが天井からぶら下り揺れているだけだった。
(ーーーは、早く探そう)
なんとも表現し難い|悍《おぞ》ましさが這い上がって来た。第六感が早くこの場所から立ち去れと囁いている。果林は屋外庭園に抜ける扉の鍵を開けると青々とした芝生にしゃがみ込んだ。
(ない、ない、如何して?ここしか考えられない)
手のひらの大きさとはいえ|鮑貝《あわびがい》の装飾が施されている、床に落とせば割れるなり何なり音がする筈だった。果林が両手両脚を地面について這いつくばっていると背後で扉が閉まる音がした。
「あ、ごめんなさい。落とし物をしちゃって」
企画室のメンバーか工事現場の作業員かと思い振り返ろうとした瞬間、背中に誰かが覆い被さって来た。
「ーーーえっ、なに!?」
「落とし物はこれかよ」
「えっ」
目の前には小町紅の金のコンパクトが握られていた。
「こ、これ」
「なぁ、果林」
顔を向けるとそこにはやつれ顔の和寿が露骨で不潔な笑みを浮かべていた。果林の身体は強張り小さな悲鳴が上がった。
「なんだよ、旦那の顔を忘れたのかよ」
「なに言ってるのよ|退《ど》いて!」
「なぁ、寂しいんだろう」
和寿の手のひらは果林のスーツの裾から中に入り込むとブラウスの上からその胸を揉みしだき、更に陰部をスーツパンツの尻に擦り付けて来た。全身に悪寒が走り果林は上半身を捻るとその腹をパンプスで蹴り上げた。
「あっ」
蹴り上げた両脚を敢えなく掴まれるとそれは大きく開かれた。
「なぁ、こうして欲しかったんだろう」
「いつの話よ!」
「遠慮するなって」
「ちょ、止めてよ!人を呼ぶわよ!」
「誰も来ねぇよ」
上半身を起こして見ると店の出入り口には杉野恵美が腕組みをして果林と和寿がもつれ合う姿を見張っている。
「あんたたち不倫してたんでしょう!頭おかしいんじゃないの!」
「なんならここで3人でやるか?」
「馬鹿な事言わないで放しなさいよ!」
果林が手を伸ばした先には苗木が入ったコンテナがあった。指を伸ばしそこからオリーブの苗木を引き抜くと和寿の顔めがけて振り下ろした。
「なっ、てめぇ!ざけんな!」
オリーブの苗木が鼻先を掠めた和寿は目に入った土を擦りながら果林の頬を平手打ちして怒鳴り声を上げた。その衝撃で果林の脳裏には火花が散った。
「待てよ!」
和寿が怯んだ隙をついて果林は起き上がるとガラス扉を閉めて鍵を掛けた。コンパクトは踏み付けられ泥だらけになっていた。
(コンパクトが)
けれど今はそれどころでは無かった。早くこの場所から逃げなければ、出入り口の扉に手を掛けたが杉野恵美が押さえ付けてびくともしなかった。
「あんた、なにやってるのよ!開けなさいよ!」
「あら、駄目よぉ。さっさと和寿に|犯《や》られてこっちに戻って来なさいよぉ」
「なに馬鹿な事言ってるの!犯罪よ!」
「あら、元旦那に|犯《や》られましたって副社長さんに言えるのぉ」
「ーーー!」
ガシャーーーン!
その衝撃音に振り返ると工事中の外壁ブロックでガラスの扉を叩き割った和寿が中に入って来た。逆光の中、パキパキと破片を踏み締める音が果林に近付いて来たがその面持ちは異常極まりなかった。
「なぁ、果林戻って来いよ」
「嫌だ!」
「もう金がねぇんだよ」
「知らないわよ!」
「毎日電話が掛かって来るんだよ、金返せねぇんだよ」
「自業自得でしょう!」
果林に和寿が掴み掛かった瞬間、杉野恵美が悲鳴を上げ扉に倒れ込んだ。
「なにをしているんだ!」
ガラスが割れた音で警備員が駆け付け、程なくして宇野が果林を店の外に連れ出した。
「大丈夫か!」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうだな、医務室に行こう!」
和寿と杉野恵美は複数人の警備員に羽交い締めにされ、宇野の指示により総務課隣室の会議室に連れて行かれた。宇野に支えられて医務室に運ばれた果林は産業医の診察と手当を受けた。両手首と両頬の打撲、顔には複数の擦り傷、口角と口腔内は内出血を起こしていた。
「はい、これで冷やして」
「ありがとうございます、ごめんなさい」
「果林ちゃんが謝る事じゃないよ」
「でも、ガラスが」
「あんなものは金を出せば何とでもなるさ、果林ちゃんの身体の方が心配だよ」
医務室のベッドに横たわり宇野から冷却剤を受け取った果林は頬を冷やしながら和寿の異常性に怯え身体の震えが止まらなかった。
「お、来たきた」
廊下を小走りに革靴の音が近付いて来た。それは医務室の扉の前を一瞬素通りして戻ると慌ててその扉を開けた。
「果林!」
「宗介さん」
慌てた宗介の顔色は青ざめ宇野を突き飛ばすとベッドの傍に両膝を突いて果林の手を握った。その大きな手の温もりに安堵した果林の目には涙が浮かんだ。
「大丈夫か!」
「あ、はい大丈夫です」
宗介は「本当に大丈夫なんだろうな!」と言わんばかりの表情で産業医を睨みつけた。
「あぁ、問題ないと思いますよ」
「本当か!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなかったら解雇だぞ!」
「大丈夫です」
果林の傷の状態が然程悪くない事を確認した宗介は勢いよく床から立ち上がった。
「宇野、木古内和寿は何処に居る!」
「総務課の隣の会議室だ、警備員が付いている」
「分かった」
「おまえは仕事に戻ってくれ」
「了解、割れた扉は如何する」
「大至急発注だ、頼んだぞ」
「了解」
宗介は果林の頭を撫でると優しく微笑んだが、扉に向かった顔は厳しいものへと変化した。4階総務課のエレベーターホールにはビジネスバッグを抱えた中肉中背で濃紺のスーツを着用した男性と、上背のあるやや白髪混じりの短髪でワイシャツにベージュのチノパンツを履いた男性がソファに腰掛けて待っていた。
「この度はご足労頂き有難うございます」
「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けいたしました」
「こちらへどうぞ」
「はい」
白髪混じりの男性は腰を屈め、総務課社員に頭を下げながら申し無さそうに廊下を歩いた。
コンコンコン
宗介が総務課会議室と表示された扉をノックすると中から複数人の警備員が顔を出し深々と頭を下げて退出した。
「ご苦労様でした」
「はい」
「ではどうぞ、お入り下さい」
「はい」
警備員と入れ違いに宗介と2人の男性が入室したがチノパンツを履いた男性はパイプ椅子に腰掛けた杉野恵美の顔を見るなり歩み寄ると右手を振り上げ思い切りその頬を叩き怒鳴りつけた。恵美はパイプ椅子ごと後ろに倒れた。
「おまえは何をやっているんだ!」
「た、隆史さん」
「この恥知らずが!」
この男性は杉野恵美の夫で|隆史《たかし》と言い杉野内科医院の医師だった。宗介は雇用契約書の緊急連絡先から隆史に接触し妻が|雇い主《和寿》と不倫関係であると通達した。
「ま、まさかそんな筈は」
「それではご確認下さい」
当初その事実を受け入れられなかった隆史だが|chez tsujisaki《しぇ つじさき》に設置されていた防犯カメラに録画された卑猥な映像や夜間巡回警備員からの聞き取り調書を目にして床に崩れ落ちた。
「も、申し訳ありません」
そこで濃紺のスーツを着用した男性が杉野恵美に数枚の書類を提示した。
「杉野恵美さん」
「は、はい」
「杉野さんに対し羽柴果林さんは精神的苦痛による慰謝料200万円を請求していらっしゃいます」
「200万円、そんな大金払えないわよ!」
「ご主人様にお願いされては如何ですか」
「た、隆史さん」
隆史は|穢《けが》らわしい物を見るような目付きで杉野恵美に向かって吐き捨てた。
「弁護士の方に聞けば俺もおまえに慰謝料の請求が出来るらしいじゃないか」
「そんな!」
「おまえ名義の不動産でもなんでも売却して自分で後始末しろ!」
「そんな」
そこで宗介も杉野恵美の目の前のテーブルを指先で叩きながらその顔を覗き込んだ。
「杉野さんには|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の秩序を乱した件、先ほどの我が社の社員への暴力行為に加担した件で何らかの賠償金を請求させて頂く事になるかもしれませんのでご了承下さい」
「そんな」
杉野恵美は呆然となった。杉野恵美と夫の修羅場を横目に和寿は項垂れ、両膝の震えを止めようと両手で押さえたが今度は踵
かかとが忙しなく上下し始めた。隆史はその顔を覗き込み「おまえにも慰謝料を請求するからな!」と吐き捨て踵を返した。
「あっ、隆史さん!待って!」
縋り付く妻の声など聞こえぬ素振りの隆史は勢いよく扉を閉め、杉野恵美は床に突っ伏して号泣した。それを蔑んだ目で見た宗介は弁護士に目配せをした。
「さあ、杉野さん落ち着いて座って下さい」
弁護士が倒れたパイプ椅子を元に戻し座面を叩くと恵美は力無く立ち上がり焦点の合わない目で腰掛けた。その面立ちは化粧が崩れ見るも無惨なものだった。
「では」
次に宗介は和寿の前に腰掛け、弁護士がファイリングした資料をその手に渡した。宗介はパラパラとページを捲りあるページを和寿に提示した。
「では木古内和寿さん、あなたにはお伺いしなければならない事があります」
「は、はい」
「まず、chez tsujisaki
しぇ つじさき
の什器発注の際、仕入れ業者と共謀して水増し請求をされていた。違いますか?」
「そんな事はしていません」
「では、この白紙の請求書はどう説明されますか?」
「し、知りません」
和寿は什器や食器発注の際、安値の粗悪品を仕入れ白紙の請求書に正規価格を記入し経理課に提出していた。その水増し請求額は1回に付き多くても20,000円程度だが積もり積もればそれ相応の額になる。
「これは横領、犯罪になりますよ」
「そんな」
「あと、木古内菊代さんですが」
「母親がなにか」
「毎日chez tsujisaki
しぇ つじさき
でランチを堪能されていらっしゃいましたね」
「はい」
「そのお代金はお支払い頂けたのでしょうか?」
「だ、代金?」
「お支払いが未だでしたら2年間で約649,700円を請求致します」
「そんな事はババァに請求しろよ!」
「無銭飲食を黙認された管理責任者の木古内さんにも非があると思われませんか?」
「そ、そんな」
宗介はファイルを弁護士に返却すると和寿に向き直った。そして宗介の声色がより一層厳しいものとなった。
「あと、chez tsujisaki店舗、厨房内での淫行は食品衛生の管理者としてもあるまじき行為です。こちらも合わせて被害届を出させて頂きます」
「被害届?」
「警察にです」
「そんな、そんな大袈裟な」
コンコンコン
入室したのは総務部長だった。
「あぁ、分かった」
一言二言、耳打ちされた宗介は和寿の前で腕を組んだ。
「警察が来た」
「え、まさか」
「Apaiserアペゼへの不法侵入、器物損壊、当社社員への暴行で通報させて頂きました」
「しょ、証拠はあるのかよ」
「我が社の監視システムを軽んじられては困ります。証拠はいくらでもあります」
「くっそ」
「なお、Apaiserアペゼのガラス扉は1枚300万円、こちらも請求させて頂きます」
「払える訳ないだろう!」
宗介はテーブルを激しく叩くと和寿の顔を睨み付けた。そして弁護士に退出するように申し付け、その場に立ち上がった。その手はいきなり和寿の襟首を掴み捻り上げた。
「な、なんだよ!」
「おまえ、果林を殴ったな」
その声は低く唸り声を上げているような凄みがあった。
「お、俺の女房だ問題、ない、だろ」
「もうおまえとは縁が切れている!」
「あんたに関係ないだ、ろ」
「果林は俺の婚約者だ!もう2度と近付くな!警察には付き纏い行為で被害届提出済みだ!次に果林の前に現れたら厳重注意、逮捕だぞ!覚えておけ!」
「わか、分かったから離してくれ」
宗介は振り払う様に和寿を床に叩き付けた。
「いてぇ、おまえ副社長だろ、こんな暴力許されるのかよ!」
宗介の口元が歪んだ。
「《《うちの防犯システムは優秀なんだよ》》」
「暴力で訴えてやる!」
赤茶の革靴が床に倒れ込んだ和寿の顔の横に減り込んだ。
「おおーーっと、ゴキブリかと思った。すまん」
「や、やめてくれ!」
「チョロチョロ動くなよ、踏んでしまうかもしれん」
「ざ、ふざけんな!」
宗介は和寿に馬乗りになり睨み付けた。
「殴り付けたいのは山々だが我慢しよう」
「やめてくれ!もう分かった!悪かった!」
「もうひとつ忘れるなよ」
「な、なんだよ」
「俺はおまえの果林に対する暴力行為、DVの音声を持っている」
「くっそ、あれはおまえが持たせたのか!」
「当たり前だろう、好きな女を守ってなにが悪い」
「あんな枯れ木女の何処が良いんだよ!」
「全部に決まってるじゃないか、ん?」
宗介は和寿の両の頬骨を指で挟み左右に激しく振った。
「んガッ、んが!」
「羽柴果林への精神的苦痛と暴力行為で慰謝料400万円でも500万円でも一括請求してやるから待ってろよ」
「んが!」
「自宅も家財道具も一切合財巻き上げてやる!」
「んがっ!」
「婆さん|家《ち》も頂くからな!」
「んガッツ!」
ふぅ、と一息吐いた宗介は身なりを整え髪を掻き上げると内線電話の受話器を上げた。すると傾れ込む様に入室した複数の警察官が木古内和寿を抱え上げその身体を引き摺りエレベーターへと向かった。弁護士はその顛末を茫然と見ていた杉野恵美の肩を叩いた。
「あ、あの」
「杉野さん、今ご覧になられた事は他言無用です」
「それよりお金は、慰謝料はどうなるんですか」
「近々、ご自宅に内容証明郵便が届きますので家庭裁判所でお会いしましょう」
杉野恵美はエレベーターを使わず非常用階段を1人で降りた。弁護士はビジネスバッグにその他諸々を仕舞い始めた。
「それでは後はお任せ下さい」
「|進捗《しんちょく》状況はその都度知らせてくれ」
「分かりました」
この3ヶ月間、証拠を掴むまで多少時間を要したがこれで肩の荷が降りた。宗介は安堵の溜息を吐くと医務室へと向かった。然し乍らそこに果林の姿は無く鎮痛剤と抗生物質の処方箋を出したと白髪の産業医は言った。
「かり、羽柴さんが薬局に行ったのか」
「宇野さんが代わりに行かれましたよ」
「そうか、良かった」
果林の頬は腫れ上がり青痣が出来ていた。女性にあの面相で外を歩かせるのは酷というものだ。しかもパトカーに乗り込む和寿と遭遇する可能性も考えられた。
(ーーーー)
あれやこれやに思いを馳せていた宗介だったがエレベーターホールに向かう途中で|閃《ひらめ》いた。
(あっ、なにか冷たいもの!)
冷蔵庫にはアルコール類しか入っていなかった。宗介は1階のコンビニエンスストアでミネラルウォーターや思い付くもの全てを買い物カゴに放り込み会計レジに並んだ。
(くっそ、遅いな!)
エレベーターは宗介の焦る思いを16階まで押し上げた。扉をこじ開けるようにエントランスに飛び込み胸ポケットを探るがカードキーが見つからず四苦八苦した。ここまで慌てる自身を冷静な目で見た宗介が呆れている。
(俺らしくない)
ふと横を見遣ると泥だらけになったスーツがクリーニングの棚に置かれていた。
(シャワーも済んだか)
玄関先には泥の付いた黒いパンプスが揃えられていた。
「果林さん、起きていますか?」
宗介が果林の部屋の扉をノックしたが反応が無い、寝たのかと振り返るとリビングのソファから痛々しい面立ちの果林が手を振った。
「ーーーあっ」
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました。いえ!それより大丈夫ですか、痛いでしょう」
「いえ、こんなの日常茶飯事でしたから」
その作り笑いに胸が張り裂けそうになった宗介は思わず果林を抱き寄せていた。
「|大事《おおごと》にならなくて良かった」
「ごめんなさい宗介さん、ご心配おかけしました」
「何故2階に行ったんですか、駄目だと言ったでしょう」
「コンパクトが」
「コンパクト?」
「小町紅のコンパクトを落としてしまって|Apaiser《アペゼ》にあるかなって」
「あったんですか」
果林の目頭は熱く、堪え切れず一筋の涙がスーツの袖に落ちた。
「ありました、けれど踏まれてしまって」
「木古内さんにですか」
「はい、割れてしまいました」
「また買いましょう」
宗介の背中に回された果林の指がそれを掻き抱いた。
「でもーーーおも、思い出の、宗介さんとの思い出の」
「大丈夫ですよ」
「思い出の、大事な」
宗介は湿り気の残る果林の頭を優しく撫でた。
「これから思い出を作れば良いじゃないですか」
「ーーーは、はい」
「だから泣かないで」
「駄目です、止まらないです」
「困りましたね」
「ご、ごめんなさい」
「それでは、失礼」
果林の首筋に薄い唇が触れ、舌でひと舐めすると啄んでゆっくりと離れた。
「ーーーー!」
「涙は止まりましたか」
「は、はいい」
涙は止まったが脈が跳ね回った。
「良かったです」
「は、はい」
突然の軽い愛撫に果林は耳の先まで真っ赤になった。にも関わらず宗介は平然とした顔でずっしりと重いコンビニエンスストアの白い袋を果林に手渡した。
「どうぞ」
「でも、こんなに」
「食べ切れないでしょうから冷蔵庫に入れて下さい」
「はい、ありがとうございます」
「では、私は仕事がありますから」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
手を振って扉の向こうに消える笑顔。
「いやーーーこれは多すぎるでしょう」
辻崎株式会社の副社長がこれだけ大量のスイーツやコンビニ弁当を買い物カゴに入れて会計レジの列に並んだとは想像するだけで思わず口元が綻んだ。
「2個、3個、5個ーーー」
テーブルの上にひとつひとつ並べて見たがなかなか壮観である。どれにしようかしばらく悩んでしまった。
「あーーーー気持ち良い」
手に取ったみかんゼリーの容器は頬に冷たく心地良かった。そして果林は幸せを口に滑り込ませた。
(ーーーーん)
鎮痛剤が効いたのだろう、果林はいつの間にか眠っていたようだ。西日が差し込む光の筋、肩に触れる温もりと心地良い重さに目を見遣ると隣で宗介が寝息を立てていた。
(!?)
見回すとそこは宗介の部屋で果林が仰向けになっているのはシダーウッドの香りがするキングサイズのベッドだった。
(これは、ベッドまで運んでくれたんだな、ん?)
それならば果林の部屋でも良さそうなものだが廊下の端では確かに距離がある。宗介の部屋はリビング続きで抱えて運ぶには丁度良いと思われた。
(ングググぐ)
起きあがろうとするが鎖骨に伸びた宗介の腕が兎に角重い。
(脱力した人間の重さーーー半端ない)
果林が身体を捩っていると宗介の腕から力が抜け、|朦朧《もうろう》としながらも目覚めた様だった。
「宗介さん、宗介さん起きて下さい」
「ーーーーん」
「宗介さん」
夢か|現《うつつ》か、事もあろうか宗介は果林の頭に頬擦りすると優しく抱きしめ子どもがぬいぐるみを撫でる様に手を動かし始めた。身体中を這い回る指先は意志を持ち、これは明らかに寝た振りをしているのでは無いかと勘繰る程だった。
(ーーーちょっ)
「宗介さん、起きていますよね!」
指先がルームウェアの裾から中へ差し込まれた。
「宗介さん!」
「ちっ、ばれたか」
(ーーーちっ!?今、ちって舌打ちしたよね!?)
果林が宗介に向き直ると至近距離で微笑む整った面差し。思わず目を閉じるとやんわり唇が重なった。
「ーーーー!」
「あれ、やっぱり痛かった?」
「い、痛いとか痛くないとかそういう事ではなくて!」
「思い出いっぱい作るんでしょう?」
「そ、それは」
「それは」
「怪我が治ってからに《《して》》下さい!」
すると宗介は|言質《げんち》を取ったと言わんばかりの表情を浮かべてベッドから起き上がった。
「分かったよ、怪我が治ったらに《《します》》」
「ぐっ、ぐぬぅ」
「でも気持ち良かったでしょう」
「ぐっ、ぐぬぅ」
「我慢は禁物ですよ」
「宗介さんは我慢して下さい!」
これまでの穏やかな物腰に見え隠れする《《素》》の宗介に戸惑いながらも果林は親密な距離感を嬉しく感じた。
「もーーー!」
「牛ですか」
「もーーー!」
「美味しそうな牛ちゃんです」
「もーーー!」
果林はクッションを宗介に投げ付けた。
「さぁ、お夕飯ですよ。今夜は口の傷に障らない献立をお願いしました」
「なんですか?」
「冷たいお素麺です、それなら大丈夫でしょう?」
「ありがとうございます」
和寿から身体の具合を気遣われる事など皆無だった。辻崎宗介とは温かで互いを思い遣れる穏やかな暮らしが営めるのではないか、2人の結婚生活の輪郭が見えた様な気がした。
「なんですか?」
「宗介さんといると幸せだなーーって思いました。」
「それなら婚姻届に印鑑を捺して下さい」
破壊力が半端無い眩しい笑顔が屈み込んで来た。
「そ、それは」
「お素麺を食べたら捺しましょう」
「それは」
エレベーターの中で詰め寄られて汗が滲んだ。
「今日は大安吉日ですよ」
「そうなんですか!?」
「そう決めました」
そして素麺を|啜《すす》る食卓では宗介の総務課会議室での大立ち回りが話題に上った。
「え、そうなんですか!?」
「そうなんだよ、こいつは|chez tsujisaki《しぇ つじさき》のパティシエを踏みつけたらしいぞ」
「父さん、靴を《《置いただけ》》です」
「あらまぁ、困った子ねぇ」
「え、そうなんですか!?」
「果林さんに慰謝料600万円払えと殴ったらしいぞ」
「父さん、400万円です。それに殴ってはいません」
「あらまぁ、暴れん坊さんねぇ」
「え、そうなんですか!?」
「果林さんを婚約者だと叫んで総務課の女性社員が泣いているらしい」
「父さん、今夜婚姻届が仕上がりそうです」
「あらまぁ、情熱的ねぇ」
和やかな一家団欒、果林に逃げ場はなかった。
(印鑑捺すか)
宗介は無言で素麺を啜り続けた。