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篠崎が貸してくれた作業着を身に着けると、やはり大きすぎてダボッとしてしまう。
シャツをズボンの中に押し込み、ベルトを締める。
「……クリーニングなんてしなくてもよかったのに」
腕を鼻に寄せて軽く嗅いで見る。
敷地調査の次の日、クリーニング店から引き取ってきたという作業着は、淡い柔軟剤の匂いがするだけで、篠崎の匂いはもうしなかった。
「なに、服の匂い嗅いでるの?」
「ひっ」
ミラーの背後に千晶が映り込み、由樹は思わず悲鳴を上げた。
「なによ、“ひっ”って。失礼ね」
言いながら濡れた髪をタオルでポンポンと叩いている。
「あら、似合うじゃない?」
言いながら横に並ぶ。
ふわっと女物のシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
自分の部屋にこの香りが漂うと、由樹はいつも不思議な気持ちになる。
(俺、ちゃんと、彼女いるんだなあ)
今更ながら、自分に感心する。
ちゃんと女の子に好きになってもらって、自分も好きになって、付き合って、こうしてお互いの家を行き来している自分に。
「敷地調査だっけ?」
言いながら千晶が鏡の中の由樹を見つめながら、肩に両手を置く。
「地盤調査」
「……どう違うの?」
言いながら由樹の頬にチュッとキスをする。
「っ!わかんない」
くすぐったさに首を傾げると、また頬にキスをされる。
「……ふーん」
由樹の肩に重ねていた手の片方が、背中を滑っていき、腰当たりに着地する。
つま先で立ちながら、耳元に息を掛けられる。
思わず目を瞑った由樹を、千晶はふっと笑った。
「お風呂入ってきな?炭酸系の入浴剤入れたよ」
「う、うん……」
メスライオンのような瞳をかわしながら、傍らに脱ぎ捨てたスーツを拾い集めると、由樹は慌ててバスルームに向かった。
(あー。今日、するのかな……)
軽くため息をつく。
最近、深夜まで続く篠崎のしごきを理由に、あまり構ってあげられなかった。
そして眼科医である彼女も、仕事はもちろん勉強会や、学会で忙しかったため、満足に時間が取れなかった。
今日は二人の時間が合う、貴重な夜。
何もない、なんて許されない。
脱いだばかりの作業着を見つめる。
その胸には、『篠崎』と書かれたプレートが縫い付けてある。
ただの文字なのに。
その漢字を見ているだけで、心と体の何かが疼く。
(ダメだ。生産性のない恋なんて)
小さく顔を振る。
女手一つで自分を育ててくれた母も、もう60歳手前だ。
従兄もみんな結婚し、次々にめでたい便りが赤ん坊の写真と共に送られてくる。
今までは、実家に帰るたびに冷蔵庫に貼られているその写真を、由樹は横目で見ていた。
でも……。
洗濯機に投げ込まれている、ピンクのキャミソールを見る。
自分だって、そういう幸せを両親に与えられる機会がやっと来たのだ。
由樹は唇をキュッと結ぶと、作業着を畳んで、脱衣室の隅に置いた。
風呂から上がると、作業着をダイニングの椅子に置いた。
リビングに入ると、千晶はパソコンデスクの椅子に胡坐を書いて、勢いよくキーボードを叩いていた。
「何してるの?」
後ろから覗き込むと、彼女は由樹を見上げた。
「学会のレポート。提出しなきゃいけなくて。教授に」
「やっぱり大学病院は大変?」
「んー。大変だけど、今んとこ、個人病院開院なんてできないし、ちょうどいい眼科なんてそうそう空きがあるわけじゃないから、頑張るしかないよね」
言いながらディスプレイに目を戻す。
こんなに若いのに。
こんなに小さな手をしているのに。
凄いな、医者なんて。
千晶のことを尊敬している。
医学部を現役で合格し、首席で卒業し、勤めて2年目なのに、勉強会やら研修やらで全国を飛び回り、プライベートも何もないのに、弱音も愚痴も吐かずに、ただ目の前のことに一生懸命に向かっている。
それでいて由樹へのフォローも忘れず、昨年起こったあの事件のときは、由樹以上に怒ってくれて、悲しんでくれて、支えてくれた。
(俺には勿体無いよ、ほんと)
思わず、その小さな後ろ姿を抱きしめた。
途端に、シャンプーと石鹸の匂いが鼻孔をくすぐる。
「どしたの?」
千晶の戸惑いと、喜びと、期待がこもった甘い声が、耳を押し付けたうなじ辺りから響いてくる。
「ありがとう。そばにいてくれて」
心からでた言葉は、なぜか由樹の目頭付近を熱くする。
「……こっちの台詞よ」
抱きしめた由樹の腕を、千晶の小さな手が握る。
「好きだよ。千晶」
その言葉が自然に、無理なくでた自分にホッとする。
「私も」
その言葉に素直に喜べる自分に安堵する。
一旦身体を離し、椅子をくるっと回して正面を向かせる。
まだ濡れている髪を指でかき分けながら小さい頭を支えると、その唇にキスをした。
柔らかくて、小さくて、少しだけ由樹よりも体温が低い唇。
合わさった口から舌が入ってくることはない。
誘ってくるくせに、彼女はいざそういう雰囲気に入ると急に控えめになる。
それも由樹は好きだった。
主導権を全部握って、全部優しく包んであげたくなる。
舌を入れると、抱きしめた腰がぴくっと反応した。堪らなくなって、背中に回した手を服の中に入れる。
千晶の手が由樹のスウェットの胸辺りを掴む。
滑らかな背中に指を這わせる。
すべすべで、柔らかくて、温かい。
硬く太い骨や浮き出た筋肉でゴツゴツしている男とは全然違う。
滑らせた手で少し脇の下あたりをくすぐると、
「ちょっと…!」
と身体をくねらせた。
身体を少しだけ離して神経を下半身に集中してみる。
大丈夫だ。ちゃんと反応している。
「ベッド、行こ?」
言うと、彼女はキーボードに片手だけ伸ばし、何やら外国語で書かれたファイルを保存した。
ベッドに腰掛け、唇を合わせていると、ダイニングチェアに置いた作業着が目に入った。
『篠崎』の文字から逃げるように、由樹は千晶を柔らかいマットレスに押し倒した。